342話_無機質な箱庭
数百年前、弱肉強食の森から南西に位置する場所に〝ロストヘルム〟という街があった。
当時は第二の王都と呼ばれるほどに栄えていたが、突然の魔物の侵攻で一夜にして廃都と化した。
死者、数十万人。生存者の存在は不明。未だ真相追求のための調査が行われているほど歴史的にも大きな事件でありながら、その内情や真相を知る者はいない。
殆どの家屋や施設が倒壊し、また数百年間も放置されたことによる腐敗と植物の侵食で今となっては人が住めるような場所ではない。
稀に調査隊が現地調査のため足を踏み入れることはあるが、弱肉強食の森に住む魔物達が頻繁に徘徊するため足踏み状態が続いており調査の進捗は芳しくない。
魔道具を用いた調査は多額の費用を伴う上に高確率で魔物に壊されてしまうため当てに出来ない。
そんな立ち入るだけでも命懸けな場所を武装のない身一つで歩く男がいた。グリシャである。
日に照らされた彼の金糸雀色の髪が、さざ波のように揺れる。
頬にかかる髪を煩わしそうに振り払う姿にさえ上品さを見出してしまうほどに一つ一つの動作を優雅にこなしている。
「まったく彼には困ったものです。よりにもよって、このような場所に呼び出すなんて」
不満を零しながらもグリシャは従っている。
つまり、それだけ彼にとっては重要で業務よりも優先すべき事項であることを示していた。
先述した通り、グリシャは装備を何一つ身に付けていない。
魔物にとって今の彼は格好の的だ。それにも関わらず、魔物達は物陰に隠れて息を潜めている。まるでグリシャがこの場を去るのを待っているかのように。
実際、魔物達は望んでいた。大きな身体を限界まで縮こめませながら、早く彼が通り過ぎることを。
原則、魔物は自分より強い相手には挑まない。しかしながら弱肉強食の森に生息する魔物は別格で自分と同等あるいはそれ以上の力量の相手にも襲いかかる。それだけ好戦的な性格を持ち合わせている者が多いのだ。
その血気盛んな彼らでさえ戦意を喪失してしまう程の佇まい。
隙だらけに見えて隙がない。無害な草食動物の振りをしていても本能で分かる。
死にたくなければ、あの人間に関わるな。手を出すな。
魔物達は自分よりも小さく弱いはずの存在に少なからず恐怖を抱いていた。
グリシャが防具を身に付けないのは、そもそも身に付ける必要がないから。彼にとって魔物など脅威にも至らない存在なのだ。
グリシャが目指しているのは廃都となったロストヘルムに唯一残された建造物。
かつて幸福の女神の加護を直に受けたと言われていた教会である。
周辺の建物は跡形もなく倒壊したにも関わらず、何故か教会だけは免れた。
とはいえ、無傷という訳でもなく当然ながら修繕する者もいないため老朽化は著しいが、それでもまだ建物としては充分に機能している。
目的地を目前にグリシャは立ち止まり、建物の全貌を見るように顔を上げた。
ロストヘルムが第二の王都として栄えていた頃は多くの礼拝者が、この教会を訪れたのだろう。そうして数多の祈りや懺悔を聞き入れてきたのだろう。
(下らない。実に、下らない)
神に祈れば必ず聞き届けてくれるのか。神に懺悔すれば全て許されるのか。
グリシャは神を崇めるという行為そのものを嫌悪していた。
故に、神々への信仰で成り立っている教会に厭忌の情を抱いている。
神は誰も見捨てない? 祈れば必ず救われる?
聞いただけで反吐が出る。
(神など必要ない。我が運命さえいれば、それで良い。あの方だけが堕ちた私を救って下さったのだから)
グリシャにとって、それは神をも超越した存在。
肉体が塵となり魂ごと消滅する、その瞬間まで彼の我が運命への忠義が消えることはない。
「……あまり気は乗りませんが、中に入らないわけにはいきませんね」
苦渋の表情を浮かべ、グリシャは半壊した扉の隙間を潜るように教会の中へと入っていった。
教会の中は花瓶や窓のステンドグラスの破片、崩れ落ちた壁や天井の一部が散乱していた。
腐りかけの床は一歩踏み出す度にギシリと不穏な音を立て、所々から雑草や小振りの花が突き抜けるように生えている。
心なしか空気も澱んでいる気がするとグリシャは目を閉じて眉間を押さえる。
唯でさえ教会とは相性が悪いグリシャにとって、この状況は最悪だった。
「来てくれたんだね」
聞こえた声に反応するようにグリシャが目を開けると先ほどまでは何も無かった祭壇にスメラギが腰を下ろしていた。
「良かった。廃墟とはいえ元は教会だから君が来れるか心配だったんだ。でも、この辺りで落ち着いて話せる場所って言ったら此処くらいしかないからさ」
スメラギがグリシャの前に初めて現れたのは8年前。召喚されたグリシャが本格的に城にいる召使いや王族の意識を乗っ取り始めた頃だ。
スメラギは突然現れ、こう言ったのだ。「君のこと知ってるよ。君が仕えていたマオ様のこともね」と。
後にマオ様が魔王のことだと分かり、グリシャはスメラギを城の者達のように魔法で支配することはなかった。
今は、こうして偶に顔を合わせて話をする程度の関係。もう少しだけ明確に言うならば〝顔見知り以上、友人以下〟程度の関係だとグリシャは認識している。
「……それで御用件は?」
「久し振りに会ったのに素っ気ないなぁ」
「私は貴方と違って暇ではないのですよ。今、各地がどのような状況か貴方もご存知でしょう」
王都は今、ギルドと結託して各地の被害状況や現状把握を行っている関係で非常に慌ただしい。
「うん、よく知ってるよ。だから君を呼んだんだ。ライがいなくなって落ち込んでるんじゃないかと思って」
報告書と一緒に上がってきた死亡者一覧にてライの死が正式に認められたことはグリシャも知っている。
死体の回収もされず、亡くなったと分かる決定的な証拠も無い。
グリシャが確認した報告書には〝アラン・ボールドウィンの証言により死亡確定〟とだけ記載されていた。
個人の証言のみで死亡を確定させるなど通常では有り得ない。
だが、今回は魔物に喰い殺されたなど死体の回収が困難で且つ証言で判断する他ない事例が多々見受けられたことから以上の内容でライの死が事実として認められてしまったのである。
「仰っている意味が、よく分かりませんね。何故、私が嘆かなければならないのです。あんな形式上の死で」
「……なんだ、やっぱり君も気付いてたのか」
「当然ですよ。あの方の召喚に応じた瞬間から私達は魂の結びで繋がっているのですから」
魂の結びとは召喚魔法を発動させた者と応じた者との間に交わされる誓約のようなものである。
誓約を破らない限り、召喚主は召喚した者を従服できる。誓約の内容は基本的に召喚された者が指定し、それを破らない限りは召喚主を主人として認める。
仮に誓約を破るような事があれば召喚主には死よりも恐ろしい災いが降りかかると言われている。
ちなみに、この魂の結びは召喚主が死亡すると自動的に解除される。
「あの方が本当に亡くなっているのなら私との魂の結びも例外なく解除されているはずです」
「なるほど。でも、この世界に君を喚び出したのはライじゃないんだよね?」
「えぇ、そうですよ。本来ならば、あの程度の供物と魔力量では私を喚び出すことなど出来ません。それを無理やり抉じ開けて出てきてやったのです」
「ふぅん。要するに召喚に応じたんじゃなくて、あくまで利用しただけって事?」
スメラギの言葉にグリシャは肯定するように頷いた。
「うーん、でも、それってやっぱり変だよ。だって君が召喚用の魔法陣を通じて来たことに変わりはないんでしょ?」
「えぇ、ですから直前に私も魔法陣を書いていたのですよ。召喚魔法によって及ばされる自身への影響を無効化する特別なものをね」
召喚される側だからこそ可能な事。他にも召喚を拒絶できる特殊な魔法陣もある。勿論、召喚される側の者しか知らない。
条件は満たされているのに魔法が上手くいかないのは魔法陣の向こう側に原因がある可能性もある、というわけだ。
「しかし、ここで問題が生じました。召喚魔法本来の効果を打ち消したことで実質的には正式な召喚には成り得ませんから魂の結びは勿論、発生しません。ですが、私達のような存在がこの世に留まる為には魂の結びが必要不可欠なのです」
魂の結びが発生しない召喚は不適正と見なされ、召喚自体を無かったことにされる。
召喚された者は強制的に元の場所に帰され、召喚主は召喚に関する全ての記憶を喪失してしまうのだ。
魂の結びは、それだけ召喚魔法において無視することは出来ない重要なものなのである。
「あの方のために現世に出て来たのに引き戻されてしまっては意味がありません。魂の結びがない以上、私が現世に留まるには形だけでも人間として受肉するしかない。ですから、近くにいた男の魂を喰らって肉体ごと占拠したのです」
魂の結びが発生しない。それは、つまり両者を縛る誓約もないということ。
原則として召喚された者は召喚主に逆らえないが、それは誓約が成り立っている前提での話だ。
「……んん? でも、ちょっと待って。さっきの話が本当なら矛盾してる。だってライは昔に一度死んでるんだよ? だったら、その時に魂の結びは解除されてるんじゃないの?」
まだライとの魂の結びが解除されていないような言い回しをしていたのがスメラギは気になっていた。
「あぁ、その事ですか。その答えなら単純です。あの方の魂に直接、服従印を施したからですよ」
「服従印?」
「そうですね、特に私のような者に与えられる特別な恩恵と言うべきでしょうか。但し、その恩恵は一生に一度しか使えない上に取り消すことも出来ません。その代わり服従印を施した者が亡くなっても転生すれば再び魂の結びは復活する」
「……どういうこと?」
死してなお変わることはない魂に直に印を付けるのだから転生して姿形が変わったところで関係ない。
肉体は所詮、魂の器。器が変わろうと本質は変わらない。
だが、例外はある。それは魂の消失。しかしながら、それも滅多に起こることではない。生前に何らかの大罪を犯し、転生する権利を剥奪でもされない限りは。
グリシャの説明に納得したことで興味が薄れたのかスメラギは「ふぅん」と淡白な相槌で返すと、足をユラユラと揺らしながら床を見るように俯いた。
「それにしても君も難儀だね。ライが気付くまで人間の振りしようなんてさ。さっさと本当のことを話して名前を呼んでもらえば、そんな汚い人間の皮も破り捨てられるのに」
「あの方は今、力を失っています。それに記憶も。あの方には全てを取り戻してもらった上で私の名を呼んで頂きたいのです」
「あえて気付かせたいんじゃなくて、ライに自分から気付いて欲しいって事かな? まぁ、そういうことなら気持ちは分からなくもないけどさ」
「それに私からすれば貴方の方が難儀に思えますがね」
揺れていた両足がピタリと止まると深淵を覗くような虚無の目がグリシャを捉える。
「それは、どういう意味かな」
「それだけ貴方が特殊に見えるという事ですよ。貴方も、あの方のことを知っている。なのに、あの方は貴方を憶えてはいない。無論、私も。あの方に仕えていたわけでもなければ、敵だったわけでもない」
「そういう回りくどいのは苦手だな。結局、何が言いたいの?」
「貴方は〝誰〟なんですか?」
味方なのか、敵なのか。それすらも分からない。
前世で何かしら繋がりがあったのなら、興味は無くても記憶の片隅にくらいは存在しているはず。しかし、それらしい記憶に心当たりも無い。
自分のことを知っている。魔王のことを知っている。なのに自分には彼に関する記憶がない。
こちらは何も憶えていないのに彼だけは憶えている。それがグリシャには気味が悪くて仕方ない。
「……ボクはスメラギ、それ以外の何者でもないよ。この世界ではね」




