339話_苦い勝利の味
真っ白な大理石の床に敷かれた年季の入った口紅のような濃紅のパンチカーペット。
そのカーペットを上で硬い靴音を響かせながら進むのはアンドレアスとアレクシス。彼らの数歩後ろを歩くのは従者のグリシャとローウェンだ。
通りすがる使用人達はアンドレタス達に気付くと、作業を中断して深々と頭を下げる。
いつものならば何か一声かけるところを今日は何も言わずに通り過ぎる。
通り過ぎると本来ならば作業に戻る使用人達だが、今日は心配そうにアンドレアス達の背中を見送っている。
彼らは早朝から父親であるブランに呼び出されていた。
無断で城を抜け出した上に戦場にまで出たことを咎められるのだろうと覚悟していたアンドレアスであったが、彼を待っていたのは非難ではなく、称賛だった。
「此度の魔王討伐に貢献したらしいな、アンドレアス」
「こ、貢献など、そのような大それたことは……! 我は自分に出来ることをしただけです」
「魔王幹部の一人を倒したと聞いたが?」
「あれは倒したというか正気に戻したというか……それに我が勝利できたのは共に戦った仲間達のお蔭です。我一人では成し遂げられませんでした」
「……それでも倒したことは事実なのだろう? ならば誇れ、この勝利を」
形式的なものとはいえ、父親に褒められるのは何年振りだろう。
そんなことを思いながらアンドレアスがブランから称賛の言葉を受けたのが数時間前。
自室に戻ろうとしていたところでアレクシスと会い、進む方向が同じということで二人並んで歩いていたのだ。
アレクシスが、ちらりとアンドレアスを見る。
少し見ない間に何だか凛々しくなったように思える。しかし、同時に何となく声を掛けづらい雰囲気もあった。
ローウェンとグリシャの間にも言葉はなく、若干揃わない足音だけが長い廊下に響いている。
アンドレアスと一緒にいて、こんなにも息苦しい空気を感じるのはアレクシスにとって初めての事だった。
いつもより長く感じた廊下を抜けて間もなくアンドレアスの部屋の前に辿り着いた。
「それじゃあ、兄さん。また……」
「アレクシス」
別れの言葉を言い終える前にアレクシスは呼び止められる。
「少し、話せるか?」
緊張の響きを含んだ声にアレクシスは眉根を寄せて困惑した表情を見せた。
断ろうと思えば断れた。用事があるからと言えば納得してくれただろう。
だけど、それでも……今、目の前にいる兄を一人したくないと思った。
「うん、大丈夫だよ」
少し緊張から解放されたように表情を緩ませたアンドレアスを見て、アレクシスは自分の判断は間違いではなかったと確信した。
「それなら私達は席を外しましょうか?」
「……いや、ローウェンとグリシャ殿も一緒に聞いてくれ」
「畏まりました。グリシャ様も、それで構いませんか?」
「えぇ、構いませんよ」
四人全員が部屋に入ると、最後に入ったアンドレアスが扉を静かに閉める。
「それで兄さん、話って何かな?」
大体の察しは付いていながらもアレクシスが尋ねる。
アンドレアスは少し考えるように口を噤んだが、やがて意を決したように話を切り出した。
「……今回のことで父上は我の評価を改めると言っていた」
「あぁ、それなら僕も父上から聞いたよ。良かったね、兄さん。これでまた兄さんが正式な後継者になれる」
「本当に、これで良いのだろうか?」
「あ、当たり前じゃないか。だって兄さんは、それだけの事をしたんだ。正当な評価が与えられてしかるべきだよ」
アレクシスが宥めるように言うが、アンドレアスの表情は険しいまま。
「本当にそう思うか、アレクシス。魔王の手下と疑われ、家族を人質に取られ、それでもなお魔王を倒すために最期まで尽力したライ殿にこそ正当な評価を与えられるべきではないのか」
「そ、それは」
「父上は〝勝利を誇れ〟と言った。確かに魔王は倒した。だが、……我には無理だ。ライ殿を犠牲に得た勝利など誇りには思えない。喜べるわけがない!」
この戦いで失ったものは、あまりにも多い。
アンドレアスが把握しているだけでも死者は数百を超えている。それは誰かにとっての友人、或いは恋人、もしくは家族だったかも知れない。
「……王子、」
「なぁ教えてくれ、ローウェン。こんなにも身が引き裂かれる想いをして得たものが本当に勝利と言えるのか? 誇られるべきものなのか?」
「…………」
アンドレアスの言葉にローウェンはかける言葉が見つからず、口を閉ざす。
今回の戦いにおける最優先事項は魔王の討伐。それが達成された時点で勝利したと言えるだろう。
しかし今アンドレアスが求めているのは、そんな理論的な正論ではない。
「……聞くに耐えませんね。これなら赤ん坊の産声を聞いていた方が、まだマシです」
突き放すような物言いにアンドレアスは動揺で一歩後ずさる。
アレクシスは驚いた表情を浮かべ、ローウェンは今にも噛み付かんとばかりの勢いでグリシャを睨んでいる。
「グリシャ様! いくら貴方でも今の発言は……っ、」
「御言葉ですが、そのように貴方が甘やかすから王子が目も当てられない小心者になってしまうのでは?」
「……仰っている意味が、よく分かりません」
「分からない? つまり、その自覚が無いと。主人が主人なら従者も従者ですね。今まで貴方は王子に何を教えていたのですか?」
「無礼だぞ、グリシャ殿! ローウェンは我がフリードマン王家に代々尽くしてくれたウィスターヴィネ家の者。その彼が不利益な働きをするなど有り得ない!」
アンドレアスがローウェンを庇うが、グリシャは顔色一つ変えない。
「我はローウェンから国を背負う者の使命と覚悟を学んだ。そして、民を想う心も。それすら貴殿は無駄だと申すのか?!」
「……王子、貴方は今、本当に自分が国を背負う者としての使命を全うされているとお思いですか?」
「何?」
「今、貴方の心を占めているのは誰ですか? 貴方は何の為に、誰の為に嘆かれておられるのです?」
その時、アンドレアスは脳裏に閃光が迸ったような感覚に襲われた。
「友を失ってしまったから勝利を誇れない? それこそ命を賭けて戦い抜いた者への冒涜ですよ。血が流れる以上、尊き命の犠牲は承知の上。一人、また一人と倒れ、最後の一人になろうとも彼らは戦い抜いたのです。志半ばで命を落とした者もいるでしょう。残された者は、その者達の意思を背負って戦い、未来を勝ち取ったのです。貴方は、そんな彼らを前に先程と同じことが言えますか?」
「……っ、」
「貴方個人の感情は胸に仕舞いなさい。そして皆と共にこの勝利を誇りなさい、喜びなさい。それが背負い、導いていく民達に見せるべき王の姿というものです」
アンドレアス個人としてではなく、王位継承者候補のアンドレアスとして勝利を誇る。
グリシャの言葉を受けて自分の発言を思い返したアンドレアスは初めて自覚した。自分が個人の感情任せの発言ばかりしていたことを。
しかし、同時に思う。では自分は、いつライの死を悼めば良い?
それとも王家に生まれた時点で友の死を嘆くことさえ許されないのか、と。
アンドレアスは喉を震わせながらグリシャに問いかけた。
「それは……我に心を捨てろと言っているのか?」
父上のように、とは流石に言えなかった。
「いいえ、今のはあくまで王族の人間として立ち振る舞う時の話です。貴方の感情を縛る権限は私にも神にもありませんから。……あぁ、そういえば此処は王子の自室、それに今は見張りも近くにはおりませんから我々が出て行ってしまえば、この部屋は貴方一人だけになりますね」
そう語りながらグリシャは出入り口の扉へ向かって歩く。
グリシャが何を言わんとしているのか分からず、アンドレアスは眉を顰めるが、対するアレクシスとローウェンは何かを察したように目を丸くしている。
「では、アレクシス王子。私達は、そろそろ……」
「あ、うん。そうだね」
グリシャの言動の真意を完全に理解したアレクシスは躊躇いなく頷いてグリシャの方へと駆け寄って行く。
何も気付いてないのはアンドレアスだけだ。
「それでは失礼致します」
「……それじゃ、また後でね。兄さん」
グリシャは一度お辞儀をし、アレクシスは軽く手を振りながら部屋を出た。
残されたのはローウェンとアンドレアス。未だ考え込む主にローウェンは苦笑した。
「前々から思ってはいましたが、何というか掴みどころの無い方ですね」
「結局、先程のはどういう意味だったのだ?」
「今なら貴方が何をしようが自分達の知るところではない。つまり貴方が個人の感情を優先されても咎められることはないという事ですよ」
今までの言動はグリシャなりの気遣いであったことを知り、アンドレアスは一度は引っ込んだと思っていた涙がまた奥から溢れ出そうになるのを止めるため目頭を押さえた。
ローウェンは僅かばかり微笑うと幼子に向けるような優しい声で「王子」と呼びかけた。
「私も席を外しましょうか?」
「…………あぁ、頼む」
ローウェンは一礼して部屋を出ると出来るだけ音を立てないように扉を閉めた。
程なくして扉の奥から啜り泣くような声が聞こえ始めるとローウェンもまた彼と共にライの死を悼みながら俯いて目を閉じた。




