334話_明日は来ても、貴方はいない
魔王という脅威を退けたことで王都は活気に満ち溢れていた。
家族で抱き合いながら喜ぶ住民達。肩を組みながら互いを讃え合うギルドの者達。
王都全体が宴さながらの賑わいを見せる中、ある病棟の一室は海の底に沈んでいくような重苦しい空気が瀰漫していた。
病室に居るのはリュウとグレイ、そして漸く牢屋から解放されたヒューマの三人だ。
挨拶から始まった会話は今も辛うじて繋がっているが、いつ途切れても可笑しくないほどに断片的で辿々しいものだった。
(思っていたより元気そうで安心しました)
「ま、まぁ、無駄に丈夫なのはオレの数少ない取り柄だから。つか、オレ的には二人が元気そうで安心したよ」
ハハハッとぎこちない空笑いが止むと、リュウは申し訳なさそうに目線を落とす。
「……ミカデスから聞いたよ。オレを助けてくれたんだろ。ありかとう。それから、ごめん。力になるために付いて行ったのに逆に足を引っ張っちまった」
(あれはリュウさんが悪いわけでは……それに貴方を助けたのはライさんです。俺は彼の力添えをしたに過ぎません)
ライの名前が出たのを機に、ついに会話が途切れる。
もはや今の彼らにとってライの存在は〝パンドラの箱〟と同意義であった。
誰かがその名を口にすれば皆が口を閉ざし、唯でさえ重い空気が更に重みを増す。
暗澹たる思いが生み出しているものとはいえ、これでは名を口に出すのも恐ろしい殺人鬼と扱いが変わらないではないかとヒューマは思ったが、彼らの心情を察して声には出さなかった。
「ヒューマも、その、知ってるんだよな。ライのこと」
リュウが問いかけると、ヒューマは「まぁ……」と躊躇いがちに肯定する。
「牢屋から出された後にヴォルフ理事長から聞いた。あの人から聞いてなかったら質の悪い冗談としか受け取れなかったと思う。実際、今でも信じられないし。それにマリアさん……あぁ、ライの母親な。その人も一緒だったんだけど酷く取り乱しててさ。それから過呼吸になって倒れて運ばれてた」
家族を失ったヒューマだからこそ分かる、大事な人を失った者の心の痛み。ヒューマには彼女が家族を失ったことを知った時の自分と重なって見えたのだ。
ヒューマとてライの死について何も思わないわけではない。ただ彼は自分以上に彼の死を悲しんでいる者がいることを知っている。
無情な話だが、ヒューマがライの死を聞いて冷静になれたのは彼女の存在があったからだ。
(無理もありませんよ。俺には我が子を失った母親の悲しみを正確に計り知ることは出来ませんが……その凄愴たる想いを想像することくらいは出来ます)
それはリュウとヒューマにも言えること。彼らもライの死に対して並々ならぬ想いを抱えているが、母親が抱えているものは自分達とはまた違うように思えてならない。
想いの比較など情緒に欠けていると言われかねないが、これが妥当な評価だとグレイは考えている。
彼と共に過ごした時間は前世の分を含めればグレイの方が多いわけだが、そんなもの今の彼らの関係性の前では何の説得力も持たない。
あくまで今のグレイは友人の一人で、マリアはライにとって唯一の母親。世間が何方に同情を寄せるかなど最早言うまでもない。
「そういえばレイメイさん達は?」
(彼らも無事ですよ。此処に来たがっていましたが、俺が言って村に帰しました。人数も人数でしたし、何分、彼らは目立つので)
鬼人に、狙撃銃を背負った少年に、極めて露出度の高い服を纏った女。
この異色とも言える顔ぶれでは寧ろ目立たない要素を探す方が苦労しそうだとリュウはグレイの言い分に納得しながら力なく笑った。
リュウに笑みが戻ったことでグレイも僅かながら安堵の息を零したが、心からの笑みでないことは一目瞭然だった。
彼が以前のような年相応のあどけない笑顔を取り戻すには、どれ程の時間が必要なのか。こればかりはグレイにも分からない。
数十年、妖精族の寿命から考えれば数百年単位も有り得る。
もしかしたら彼の長い一生をかけても取り戻すことは出来ないかも知れない。かつてのグレイが、そうであったように。
オッドアイの瞳が伏せられる。
口や態度よりも目で内なる感情を現すことが多い彼にとって幼い頃からの癖のようなものだ。
彼が側から見て鬱陶しいほどに前髪を伸ばしていたのはオッドアイであることを隠すためでもあったが、自分の感情が読み解かれるのを防ぐ為でもあった。
前髪という名の防壁が無くなった今、彼にとっては常に心の内を曝け出していると言っても過言ではない状態なのである。
「……ライはさ、オレにとって初めての友達だったんだ」
唐突に、ポツリと。呟くようにリュウが話す。
その言葉にグレイとヒューマは口を閉じて耳を傾ける。
「彼奴が笑ってくれるとオレも嬉しい。だけど、彼奴が悲しいとオレも悲しい。まるで彼奴の心がオレの一部になったみたいな……って言ったら分かるかな?」
(えぇ、分かります。感情の共有ですね)
「エモー……?」
聞き慣れない言葉にリュウは小首を傾げる。
(感情の共有。現象としては決して珍しいものではありませんが、だからといって誰にでも起こりうるものでもありません。まず相手を想う気持ちが無ければ、この現象は起こりませんから)
「相手を想う気持ち……」
言葉を反芻するリュウにグレイは頷く。
(感情の共有は相手を想う気持ちが強ければ強いほど顕著に表れます。たとえ目視できなくても感覚的に自ずと自覚してしまう程に)
リュウは気付く。まさに自分が、そうではないかと。
ライが喜んでいた時も悲しんでいた時もリュウには何となく分かった。誰に教わったわけでも、況してや本人から聞いたわけでもないのに。
「なんか分かるなぁ。俺もアランが考えてることなら見てれば大体分かるからさ。でも、それだけ大事な存在ってことなんだろうな。じゃなきゃ、そもそも気に掛けたりなんてしないだろうし」
大事な存在。それはヒューマにとってのアランであり、リュウにとってのライ。
初めての友達で、親友で、かけがえのない仲間で。言葉に表せば切りがないが、確かにライは〝大事な存在〟だった。
そう自覚した途端、リュウの目から涙が溢れた。アルステッドからライのことを聞いた時は流れもしなかった涙が。
ライと一緒に勉強するのも、食事をするのも、話すのも、リュウの日常の一部だった。
でも、これからは違う。王都にも、学校にも、寮の部屋にもライはいない。
今まで当たり前だったものが今日からは違う。それを本当の意味で理解したことで心に穴が空いたような喪失感が涙となって零れ落ちたのだ。
啜り泣くリュウにヒューマは声をかける事が出来なかった。
彼の気持ちは痛いほど分かるのに今の彼に相応しい言葉が見つからない。
自分が何か言ったところで気休めにもならない気がして、ヒューマは口を半開きにしたまま突っ立っている事しか出来ない。
ライは自分の友人を救ってくれた恩人。リュウは、その恩人の友人。
何かしてあげたいのに何も出来ないもどかしさにヒューマは下唇を噛む。
そんなヒューマの肩にグレイは、そっと手を置いた。
(……ヒューマさん、ここは一先ず引き上げましょう。今は一人にしてあげた方が良い)
ヒューマは頷くと音を立てないようにゆっくりと歩きながらグレイと共に病室の外に出る。
扉を閉める直後、リュウが何か呟いたのをヒューマは聞いたが、何を呟いたかまでは聞き取ることが出来なかった。
◇
病室から少し歩いたところでヒューマが口を開いた。
「俺、このままアランの様子を見に行くよ。そろそろリハビリも終わってる頃だろうし。グレイはどうする?」
アランもまたリュウと同じ病棟にて療養中であった。
目の前で幼馴染を失ったことによる精神的な打撃の影響で下肢を思うように動かせなくなっていた。
医師からの診断では症状は一時的なものだとされているが、具体的にいつ治るのかは分からないという。
形式だけとはいえ医療に携わっていたグレイとしてはアランの様子は気になった。無論、グレイが彼を気にかける理由はそれだけではないが。
しかしグレイには予定があった。どうしても優先させなければならない予定が。
(すみません。この後、少し寄る所があるので今回は……)
それだけ言うと、ヒューマは何か察したような顔をして「分かった」と頷いた。
(本当に、すみません。アランさんによろしく伝えて下さい)
「あぁ。じゃ、またな」
軽く手を振ってアランの病室へと向かうヒューマをグレイは見送った。曲がり角でヒューマの姿が見えなくなるとグレイは笑みを消し、神妙な面持ちで歩き始めた。
リュウの病室を訪れる前、グレイはヒューマに城の地下に閉じ込められていた時の事を聞いていた。
そこでグレイは彼がアルステッド達から図書館の爆破の件で事情聴取を受けていたことを知ったのである。
ヒューマは被害者であり、当時のことを知る数少ない重要参考人でもある。
その話を聞いてグレイが真っ先に気になったのは彼がギル達の顔を憶えているかどうか。
憶えていれば間違いなく彼はアルステッド達に話している。となれば、ギル達の存在が割り出されるのも時間の問題だと思ったのだ。
ところが、そんなグレイの心配は杞憂に終わる。ヒューマは犯人の顔を憶えていなかったのだ。
「会ったのは間違いないが、すぐに眠らされてしまった為どんな容姿をしていたか以前に男か女かすらも憶えていない」というのが彼の主張だった。
それを聞いてホッとしたグレイであったが、また新たな問題に直面する。
アランだ。魔王に意思を乗っ取られた後の事は憶えていない節があったが、ギル達が攫われた時点での意識は正常であったことを考えると憶えている可能性は充分にある。
アランと接触できる機会を見す見す手放すのはグレイとしても惜しかったが、さすがに療養中の況してや肉体にまで影響が出るほどに精神的に不安定な状態である相手を刺激するような真似はしないだろうと判断しての選択だった。仮に実行しようものなら聖女達が黙っていない筈だ、と。
外に出ると微風に乗った花の残り香が仄かに漂っていた。




