312話_鬼となる《上》
役割を思い出したかのように痛覚機能が働いたのは、斬られたとレイメイが自覚した直後のことだった。
溶岩を直に飲まされたかのような激痛が喉元を中心に駆け巡る。
「ァ゛……ァ゛、アァ゛……ッ」
痛みの中心部を押さえるレイメイの口から零れたのは人と判別するには、あまりに異様な呻吟であった。
傷口に添えられた両手の指の間からヌルリと血液が流れ落ちては腕に紅い筋を作り、落ちていく。溶けかけの氷柱が雫を落としていくようにポタリ、ポタリと。
「大人しく首を刎ねられときゃ良かったものを」
男が刀を振るう直前、レイメイは僅かに身体の重心を後方へ傾けていた。お蔭で首を斬り落とされることは無かったが、それでも完全に避けきることは出来なかった。
頸動脈の損傷は免れたものの、この出血量だ。加えて治癒魔法を使えない上に、近くに仲間もいない。唯一の頼りであるリュウも未だ行方知らず。
自分は深手を負い、頼る当てもなければ、この現状を一気に覆せるだけの術も持ち合わせているわけでも無い。
まさに万事休すと言える状況下にも関わらず、レイメイの意識は絶望に染まってなどいなかった。
彼にとって真の絶望とは〝死〟だ。死んでしまったら、そこで終わってしまうのだから。心臓が動いている時点で儲け物なのだ。
とはいえ、余裕があるわけでは無い。自分の身体のことは自分が一番よく分かっている。
このままでは助からない。かと言って、助けを呼べるような状況でもない。
ならば、残された道は一つ。レイメイの心は決まった。
今更、死に対する恐怖は無い。それより……彼との約束を破ってしまうことが何よりも悔やまれる。自分の恩人であり、大切な〝彼〟との約束を。
『誰も欠けることなく、この戦いを終わらせる』
まさか誰よりも恩に報いなければならない自分が真っ先に彼を裏切ることになろうとは。
ライに対する罪悪感はあるものの、覚悟を決めた瞬間、不思議と身体が軽くなった気がした。
力なくも薄っすらと笑みを浮かべたレイメイを見て、男は背中に冷たい風が通り抜けたような感覚に思わず身震いする。
図らずも自分が抱く感情に男は動揺を隠せない。
(何だ、今のは?! ……まさか、この俺が恐れているというのか? こんな死にかけの鬼人如きに)
鬼人など取るに足らない相手。きっと何かの間違いだ。何度も戦い、倒している相手に畏怖の念を抱くなど、どうかしている。
男は、自分に何かを告げようとしている胸騒ぎを単なる武者震いと解釈した。そうすることで、あくまでも有利であるのは自分だという事実を確固たるものにしたかったのだ。
彼の見解の範囲で今更な事実を掘り下げている時点で自分が思っている以上に動揺していることを認めてしまっているようなものだが、それを彼が自覚することも無ければ、諭す者もいない。
自分の感情を勘違いしたまま男は、未だ片膝をついたまま動かないレイメイに第二の刃を向けた。
今度こそ止めを刺す。振るわれた刀の切っ先が男の意志の強さを象徴するかのように鈍く光る。
そんな意志の強さとは裏腹に、男の表情には焦りが見えた。
追い詰めているのは自分であるはずなのに、この余裕を許さない緊迫感は何だ? 少なくとも優勢の立場である者が抱いて良いものではない。
戦いの中で初めて得る感覚から解放されるには一刻も早く、この鬼人を殺すしかない。
鬼人さえ殺してしまえば、この意味も分からない感覚から解放されて勝者しか味わえない心地良い快感で満たされるに決まっている。
今までも……あの時だって、そうだった。レイメイの父親を殺した時も。
焦燥で濁ってしまった男の目は見抜けなかった。レイメイもまた攻撃の構えに入っていたことを。
(蒼龍裏隗流、朔────瞑目睡蓮)
機能しない声の代わりに心で呟くと、レイメイの周囲の時間がゆっくりと流れ始める。
今まさに彼の頭に振り下ろされようとしている刀も例外ではない。
レイメイは自分の刀の柄を持ち、そのまま迫る刀を振り払った。
男は驚愕した表情を浮かべたまま体勢を崩し、その場で尻餅をついてしまった。
一見、自分の斬撃を振り払うだけの力があることに驚いたように思えるが、実は違う。
この時、男はレイメイの一連の動きを捉えることすら出来ていなかったのだ。
つまりレイメイが何をしたのかも自分の刀が何に弾かれたのかさえも男には分からない。
弾かれた衝撃で手から離れ、地面に刺さった刀を呆然と男は見つめたが、視界がレイメイが消えたことに気付き、慌てて刀へと駆け寄ったが……突如、背中に感じた強烈な痛みに男は呻き声を上げながら倒れ込んだ。
斬られたのだと男が理解するのに、そう時間はかからなかった。刀に気を取られた隙に自分の背後を取り、一太刀浴びせたのが誰なのかも。
(コイツ、あの怪我で……まだ、ここまで動けるのか?!)
視界どころか気配ですら追えなかった。何より、意識を保つだけで精一杯であろう相手に後れを取ったという事実を男は認めることが出来なかった。
蒼龍裏隗流とは、ソウリュウ族の間でのみ受け継がれてきた剣術流派である。
この流派はレイメイの祖父が生み出したもので、流派の歴史としては非常に浅い。それ故に他の流派と比べて技の数も少なく、正式に流派を受け継いでいる者も今やレイメイのみ。
免許皆伝を果たしている彼が使える技は三つ。言い換えれば、流派独自の技は三つしかない。
一つは、朔の構え──瞑目睡蓮。
二つは、弓張りの構え──四苑綾ノ波。
三つは、望の構え──滅裂蒼龍刃。
先ほどレイメイが繰り出した瞑目睡蓮は攻撃を受け流すことで相手の体勢を崩し、その隙に次なる斬撃を繰り出す技である。
鬼人一族の中でも動きの俊敏性が秀でているとされるソウリュウ族だからこそ生かされる技であり、蒼龍裏隗流の全ての技に通ずる基本の構えでもある。
特にレイメイは元々の能力に加え、父であるトキワの〝空気を司る精霊の加護〟を引き継いでいることもあり、速さを求められる蒼龍裏隗流と最も相性が良いと言っても過言ではない。
彼の父、トキワと刀を交えた時も似たような技を使われていた男でさえ反応できなかった。過去に見切った技であるにも関わらず、それでも目で追えないほどに彼は速いのだ。
男の目の前に刀の切っ先が突きつけられる。追い詰めていたはずが、今では逆に追い詰められてしまっている。
「く、そがぁ!!」
果たすべき復讐だけを糧に今日まで生きてきた男には降伏という選択肢が無い。
討つか、討たれるか。復讐を誓った日から、いつかこうなることは分かっていた。
分かってはいたが、到底受け入れがたい。況してや、この日が復讐を果たす前に来ようとは。
「く、くく……っ!」
男は、笑った。笑うしかなかった。
こんなにも呆気ない幕切れに。自分の弱さに。
「何故、笑っている?」と言いたげなレイメイの視線に応えるように男は言葉を紡ぐ。
「これが笑わずにいられるか。まさか復讐者に先を越されるなんてよ」
思ってもみなかった言葉に、レイメイは不服そうに眉を顰める。
「……〝お前と一緒にするな〟ってか? はっ、今更いい子ぶってんじゃねぇよ。お前が俺を斬った理由は何だ? 殺された父親と仲間の仇を取る為だろうが」
男の言葉をレイメイは否定することが出来なかった。
彼が表情を崩したのを良いことに男は卑屈に歪んだ笑みを向けながらレイメイの精神に畳み掛ける。
「ほら、みろ。どんなに体よく取り繕ったって根本は変わらねぇ。何で、お前が此処にいたのかは知らねぇが、偶然じゃねぇことは俺にも分かる。なら、お前には此処に来なきゃならねぇ別の目的があったんじゃねぇか? だが、お前は俺との勝負を優先した。違うか?」
「っ!」
まるで傍で見てきたかのように男に全てを言い当てられ、とうとうレイメイは表情で誤魔化すことさえ出来なくなってしまった。
「その反応、図星だな。さて、本来の目的を放り出した甲斐あって念願の復讐も達成間近なわけだが……どうだ、今の気分は? 最高だろォ?」
それが、かつて復讐を決意した男の最期の言葉であった。




