220話_知らない奇跡の形
俺がカグヤ・アマクサという人間を見たのは、今回が初めてだ。
だから彼女が初めから、どんな姿をしていたかなんて想像は出来ても実際にどうだったかは分からない。
彼女と直接、顔を合わせたことがあるのは、俺が知っている範囲の中で言うならハヤトだけなのだから。
それでも、これだけは分かる。今聞いた彼女の声と、あの時に聞いた彼女の声は圧倒的に違う。
彼女の身に何かが起こっているのは確かだ。
「……お久し振りです、カグヤ様」
その変化には気付かない振りをして、彼女が横たわる布団の横で膝を折って頭を下げる。
「堅苦しいのは無しじゃ。今、この空間にいるのは儂と御主の2人だけなのじゃからな。案ずるな、この空間にいる間は儂の声も御主の声も外には聞こえん」
「しかし……」
「儂が、そう望んでおるのじゃ。どうか、この老いぼれの願いを叶えてはくれぬか?」
こんな些細なことに〝願い〟という大層な言葉を使うのか。
そんな姿で、そんなことを言われたら此方は彼女の望み通りに動くしかないではないか。
「分かりました」
「その敬語も要らぬ。儂は、自然体の御主と話がしたい」
「……分かった」
守り神と同等の扱いを得ている結界師を前にして友達と変わらぬ口調で話すことへの違和感は拭いきれなかったが、それ以上に彼女の満足そうな笑みに安堵を覚えた。
「ガチャール達から聞いておるじゃろうが、今の儂は明日をも知れぬ身。そんな中で、こうして御主を呼んだのは御主に聞きたいことがあったからじゃ」
「聞きたいこと?」
貴重な時間を消費してまで、俺に何を聞こうと言うのか。
身構えていると、彼女はクツクツと喉を鳴らして笑いだした。
笑ってはいても、その表情や声は何処か苦しそうだ。
「そう身構えるでない。儂が聞きたいのは、御主が思っている以上に単純なものじゃ……御主が初めて此処に来た時、御主だけ別の部屋に飛ばされたじゃろ? 憶えておるか?」
「あぁ。今でも、はっきりと憶えてる」
憶えてないわけが無い。あの時のことは色々な意味で衝撃を受けたのだから。
「その部屋で御主……あるノートを見たじゃろ?」
「ノート……」
その言葉で即座に思い浮かんだのは、あの部屋で見たノートだ。
暫く白紙の頁が続いたかと思えば、後半辺りから人物名で埋め尽くされていた、あの奇妙なノート。
あのノートは、この空間の支配者であるカグヤの物だったのだろう。
つまり俺は、無断で彼女のノートを見てしまったことになる。
「あの、すみません。勝手に見てしまって」
「あぁ、違う違う。儂は謝ってほしいわけでは無いのじゃ。さっきも言ったであろう? 御主に聞きたいことがあると……あのノートを見た時、御主は何を感じた?」
「何を感じたと言われても……今なら、あのノートに書かれた人達が貴方と何かしらの関係で繋がっているであろうことは予想できるが、それ以外は特に何とも……」
「あのノートに書かれた者達はな皆、生贄じゃ」
一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。
言葉の意味は分かる。ただ何故、今その言葉を紡いだのか。その理由が分からなかった。
「いけ、にえ……?」
「おや、生贄を知らぬか? あぁ、それとも御主は人柱や人身御供という言葉の方が聞き馴染みがあるのかの」
「い、いや、生贄は分かるが……」
「あぁ、儂としたことが、うっかりしておった。カリンに同じ話題を振った時も似たような反応をされたというのに」
カリンにも同じ話をしたのか?
では、彼女が明らかに落ち込んでいたのは……
「ライ。以前、儂が約200年もの間、結界師の任を続けてきたという話をしたのを憶えてあるか? 一般的に、この世界の常識での人間の寿命は魔法等で寿命を無理やり引き延ばすことでもしない限り100年だと言われておる。じゃが、儂は200年経った今でも辛うじてじゃが、こうして生きておる。御主に、その理由が分かるか?」
分かる。分かってしまっている。
何故なら、彼女は既に答えを言ってしまっているから。
偶然ではない。彼女は態と、俺が考える前に正解を教えていたのだ。
この非常識で奇跡とも呼べる産物が、どんな残酷な事実を土台にして出来上がったのかを。
「……あのノートに書かれていた人達は貴女を生かすために捧げられた生贄だったのか」
基本的に、魔法という現象は己の中にある魔力を基盤にして発動させる。
だが、カグヤにかけられた魔法は魔力だけでなく命をも媒体にして編み出された禁忌の魔法だった。
それは俺が昔いた世界でも、難易度も危険性も非常に高いとされていた魔法。
魔力だけでは補えない力に、生命という神秘の力を加えることで初めて魔法として発動されるもの。
その魔法の存在を知る者は、限られている。
その限られた者の中には当然、この王都の魔法学校を牛耳っているアルステッドも含まれているはずだ。
「そうじゃ。この事は歴史としてすら文献に載せられることは無い。それ即ち、周囲からの脅威に恐れた者達の利己的な想いの犠牲となった者達の記録も残されることは無いということじゃ。じゃから、せめてもの償いとして儂自身の手で書き留めてきた。それが、そのノートじゃ……幻滅したか?」
「その質問が貴女に幻滅したかどうかという意味で問われたものなら、俺の答えは〝幻滅していない〟だ。だって貴女自身は、それを望んでいたわけでは無いでしょう? 結界師という立場のせいで、どうしても逆らえなかった。だから例え不本意だったとしても、この方法を受け入れるしかなかった。違うか?」
問いを問いで返すと、カグヤは僅かに目を見開いて脱力したように柔らかな表情を見せた。
「……前から思っておったが、御主は本当に良い意味で子どもらしくないのぉ。御主と同じ問いをカリンに向けた時なんか終始、無言じゃったぞ。まぁ、あれは軽蔑というより戸惑いに近いものじゃったがの」
子どもらしくない。そう思われるのも当然だ。
俺には魔王だった頃の記憶がある。そんな状態で子ども特有の無邪気さや素直さを出せというのは無理な話だ。
出来る出来ないではなく、単に俺個人の気持ちの問題だ。年相応の子どもを必死に演じている自分を想像しただけで鳥肌が立つ。
そういう異質的な存在という意味では、俺もカグヤと変わらない。
「全て御主の言った通り。じゃが、この案を一度でも受け入れた時点で儂も同罪じゃ。現に時折、夢に現れる彼奴らが儂に向けるのは必ず軽蔑の目じゃった」
「……その人達が貴女を軽蔑していると言ったのか?」
「言葉では聞いておらんな。ただ、そういう目をしていたというだけじゃ」
「つまり、勘違いという可能性も有り得るというわけだ」
「……何じゃと?」
カグヤが訝しむように目を細める。
「直接、軽蔑すると言葉を向けられたのならば、その事実は変えようがない。だが、貴女は軽蔑の〝目〟と言った。確かに視線だけで感情が分かる時もあるが、結局それは、その視線を受け取った者が感じたものだ。それが必ずしも正しいとは限らない」
「何が言いたいのじゃ、御主は。何も知らぬ癖に、彼奴らの顔を見たこともない癖に、全てを分かったような口を……っ!?」
ゴポッと喉の奥から鳴った音と共に彼女の口から吐き出されたのは真っ赤な血。
慌てて、枕元にあった布で彼女の口元を拭う。吐き出しきれずに口内に残った血は飲み込ませないように彼女を横向きにして布に吸い込ませる。
口内の血が全て無くなったのを確認した後は、布と同様、枕元に置かれた補給用の水で軽く洗い流す。
真っ白だった布が赤く染め上げられてしまったが、お蔭で俺が出来る範囲での処置は出来た。
後は、医療の技術や知識に長けた者に本格的な処置をお願いしなくては。
「っ、ビィザァーヌ先生達に報告を……!」
立ち上がろうとした俺を、カグヤの細い腕が掴む。
小刻みに震えながらも彼女の腕が、瞳が、俺に行くなと訴えている。
「聞かせてくれ。御主は何故、あのようなことを言った? 儂は、ずっと彼奴等に恨まれていると、そうとしか受け取れなかったのに。何故、何も知らぬ御主が……」
「それは俺が何も知らないからだ。何も知らないから貴女の想いも貴女の夢に出てくる人達の想いも無視して自分勝手に思ったことを言える。それだけのことだ。でも貴方は違う。貴女は彼らの想いを少なくとも俺よりは把握しているはず。貴方から見た彼らは、どう映っていた? 貴女の為に、その身を捧げた彼らは……貴女にどんな表情を向けていた? もう一度、思い出してほしい。夢の中じゃない。この世界で彼らが貴女に向けた表情を」
「彼奴等が儂に向けた……」
その瞬間、カグヤの見開かれた目から溢れんばかりの涙が零れ落ちた。
「あ、あぁ……笑っておった。彼奴等は自分が望まぬ形で死を遂げると分かっていても笑っておった。最後まで笑って、儂に〝生きよ〟と言っておった……っ!」
何故、今まで忘れていたのだろう?
そんな後悔と疑問が彼女の悲痛な表情を通じて伝わってくる。
「貴女は先ほど夢の中で彼らが軽蔑の目を向けていたと言っていたが、それは違う。貴女に生きろと言った彼らが、そんな目を向けるはずが無い。ただ、彼らは貴女にもっと生きてほしいと……そう願っていたはずだ」
もしかしたらカグヤは彼女自身の中にある後悔や罪悪感といった感情が反映した姿を見せられていただけなのかも知れない。
「しかし儂の身体は、もう……」
「まだ諦めるのは早い。貴女が少しでも、まだこの世界に縋り付いていたいと……生きていたいと思うなら、必ず奇跡は起こります」
「奇跡、か。御主も、そのようなものを信じるのじゃな」
「信じる? いいや、違う。俺が言う〝奇跡〟は信じて待つものじゃない。自分で起こすものだ」
彼女が困惑しているのが伝わってくる。
当然だろう。これは常識という範囲から逸脱された俺だからこそ許される行為なのだから。
あの時は叶わなかった奇跡を、今ここで起こしてみせる。
「強く願って下さい。貴女が心から生きたいと願ってくれれば……あの魔法を発動できる」
「魔法? 御主、一体何を」
カグヤの目が段々と細まっていくのに比例して俺を掴む手の力も弱まっていく。
もう限界が近い。彼女が限界を迎えてしまう前に彼女の口から何としても紡いでもらわなければならない。
あの魔法を発動させる条件でもある〝生きたい〟という強い望みを。
「カグヤさん。貴女にとって、この世界も結界師という立場も辛いものだったかも知れない。それでも、もし貴女が貴女に未来を託した人達の想いを紡いでいきたいというならば、一言で良い。答えてくれ。……まだ貴女は、この世界で生きたいか?」
その問いかけに、彼女は最後の力を振り絞るかのように俺の腕を掴む手の力を強める。
「……っ、生きたい! 生きて、生きて、彼奴らの分まで生きて後世に伝えていきたい。結界師という存在が多くの尊い生命を犠牲にして今日まで生き永らえてきたことを!」
これで条件は整った。
彼女の想いに応えるように掴まれた手を包み込むように握った俺は、あの魔法を発動するべく詠唱を始める。
「世の理から外れし者よ。今、その強欲な力を解放せよ。そして機能を失った肉体を、還った魂を再生させ、彼の者に新たな時間を与え給え──死者蘇生」
魔法が発動されたと同時に、彼女の手から僅かながらも感じ取れていた力が全く感じ取れなくなった。
……まさか間に合わなかったのか? それとも、まだ何か条件が満たされていなかったというのか?
(いや、そんなはずは無い。現に、魔法は発動したままだ。もし失敗していれば今頃……)
思考を巡らせていた時、カグヤの髪に触れる手が視界に入った。
俺と彼女しかいない空間。俺は彼女の髪になど触れていないし、彼女も今の状態で自分の髪に触れられるはずが無い。
では一体、誰が……そんな疑問を解消すべく顔を上げると眩い光に包まれた人間の女性らしきシルエットが見えた。
普通の人間でないことは一目瞭然。だが、俺達に危害を加えるような存在だとは思えなかった。
その女性が浮かべる表情は常に無である為、感情は読めないが……その光の女性からは全くと言って良いほど敵意が感じられない。
カグヤに触れる手も、壊れ物にでも触れるかのように丁寧で繊細だ。
「貴女は……」
その先の言葉は、俺の唇に添えられた人差し指によって封じられた。
女性の身体が空気と同化するように薄まっているのが分かり、せめて目の前の女性の正体だけでも突き止めようと一度は閉じた口を再び開こうとした時。
『ありがとう。後は、私達に任せて』
脳内に直接響いた声に疑問を覚える前に、女性の身体は空気に溶け込むように消えてしまった。
あの女性は誰だったのか? そもそも何故、俺の目の前に現れたのか?
(まさか、あの魔法を発動したからか? ……いや、しかし今まで、あんな現象は見たことがない)
何が起こったのか俺自身、未だに全く分かっていない。
分からないが不思議なことに、これでもうカグヤは大丈夫だろうと思えた。
魔法は確かに、発動された。その感覚が、そう思わせているのかも知れない。
当初のように彼女を布団の上に横たわらせる。彼女の意識が離れていかないように、彼女が迷わないように、俺は彼女の手を握る。
出来ることは全てやった。あとは彼女が目覚めるのを祈るだけだ。




