206.5話_閑話:囚われし者
寸刻ほど時を遡る。
場所は月姫が眠り、隼人が慣れない結界魔法に奮闘している最中の御伽領域。
隼人の元を訪れたアルステッドは、ふと考えていた。
〝あと何回、私は己の感情を殺せば良いのだろう?〟
もう何度目になるかも分からない問いを、アルステッドは今日も自身に投げ掛ける。
その問いに答えられたことは、これまで一度もない。
アルステッドにとって、この問いは永遠の課題とも言える。
もし分かる時が来るとすれば、それは自分が生死の境界を彷徨う時だろうか?
そんなことを考えながら、アルステッドは再び大きな選択と向き合う。
ある時は友情と名誉を、ある時は愛と職務を、ある時は命と国を天秤に掛けて。
そして、今回は……
「ハヤト・クレバヤシ君。君に、もう一つ……お願いしたいことがある」
世界と、異世界から来た人間──紅林 隼人の精神の二つを両天秤に掛ける。
最終的に、アルステッドは前者を選んだ。
世界の危機と一人の精神。どちらを優先すべきかは考えなくても分かる。
紅林に申し訳ない気持ちはありながらも、それを表には出さない。出してはいけない。
他人に迷いがあることを悟られてはいけないのだ。
どちらの選択が国の為か、世界の為か。それを基準として選別する。
機械が感情を持たないように、避けられない選択を迫られた時のアルステッドもまた感情を持たない。
その選択によって誰かにとっての大切な何かを失うことになったとしても。数えきれないほど多くの憎しみを向けられたとしても。
そんな〝些細な理由〟で足を止めることが無いように、彼は非情に振る舞う。
昔、優柔不断だった自分のせいで親友と、アルステッドにとっては初めての異性の友人でもあり密かに恋心を抱いていた親友の婚約者を同時に失ってしまった過去を持つ彼だからこそ、その確固たる意志が揺らぐことは一度も無かった。
あの少年──ライ・サナタスと出会うまでは。
彼はアルステッドの〝親友〟に、とてもよく似ている。優秀で周囲からも慕われ、弱者にも迷いなく手を伸ばす優しい心を持った親友に。
アルステッドは彼に憧れと同時に羨望の眼差しも向けていた。
いつか彼のように知性と慈悲を兼ね備えた存在になりたいと思う自分。
何故、いつも彼ばかりが優遇されるのかと妬む自分。
そんな相反する複雑な感情を、アルステッドは彼に抱き続けてきた。
無意識かどうかは本人のみぞ知るところだが時折、ライに対する当たりが強くなっていたのは、その親友と彼を重ねていたからだ。
複雑ながらも均衡を保っていた二つの感情。
ところが、ある日、その均衡は大きく崩れてしまった。
彼に対する憧れを、彼に対する嫉妬が打ち負かしてしまったのだ。
当時のアルステッドも将来を期待された逸材の一人だった。だが、それだけだ。
彼ほどの人望はなく、同級生を含めた周囲の生徒達からは腫れ物にでも触るような扱いを受けていた。
誰にでも気さくな態度を見せていた彼とは違い、当時のアルステッドは他人と距離を置く傾向にあった。
彼自身にその気は無くとも、無意識領域である心の奥底の何処かでは自分は他の者達とは違うのだと線引きしていたのかも知れない。
そのせいか、彼の周りには生徒達から敬遠される厳格な教師ばかりが集った。
そんな中でも、ただ一人。アルステッドに声をかけた者がいた。
その者の名は、キール・ヴァレウォン。後に、アルステッドにとって唯一無二の親友となる男である。
だが……彼は、もう何処にもいない。そして、彼を心から愛していた女性──レティシア・マイネも。
詳細は伏せるが、簡潔に言うとアルステッドの中で肥大化した嫉妬の炎が友情と恋慕をも焼き焦がし、彼自身を再び孤独の地へと帰してしまったのだ。
そんな犠牲を払って手に入れたのが今の地位だ。
決して不自由のない暮らし。多少の窮屈さはあるが、慣れてしまえば何の問題も無い。
ポッカリと大穴が空いてしまった心を埋める間もなく、アルステッドは周囲と時間に無理やり背中を押されて彼らの屍を踏み歩いてしまった。
当然ながら、死人に懺悔も謝罪の言葉も意味はない。贖罪も、結局は自己満足に過ぎない。
ならば、堕ちるところまで堕ちてやろうとアルステッドは思った。
非道と言われようとも石を投げつけられようともアルステッドは自分の道を突き進む。
どんな言葉も仕返しも最期にレティシアから向けられた冷たい憎しみが宿った瞳に比べれば、どれも彼の心には響かないのだから。
「……アルステッドさん?」
戸惑う隼人の声で我に返ったアルステッドは〝あぁ、失礼〟と深淵の如き思考を振り払うかのように緩く首を振った。
「以前、君はガチャール君から剣を授かっただろう? 既に聞いているかも知れないが、その剣は日常的には、その機能を果たさない代わりに強大な力の前では肉体だけでなく魔力をも断つ刃となる非常に珍しいものでね。今、その力を私達は必要としているのだよ」
隼人の目が未知の恐怖で揺れていることにアルステッドは気付いていた。
それでも彼に動いてもらわなければ、この作戦は確実に失敗する。
だから最後に、彼の逃げ道を完全に塞ぐ言葉を突きつける。
「だが、その剣が本来の力を発揮するには持ち主と認められた君が必要不可欠だ。……どうか我々に力を貸してほしい」
隼人はアルステッドからの要求を拒否することは出来ない。と言うよりも、この世界においての彼には拒否権という権限すら存在しない。
例え彼自身が望んだものでなくとも喚ばれてしまったからには、それ相応の責務を全うする義務がある。
今の彼は一度は断ち切られた現世との繋がりを無理やり繋げて、この世界の留めているだけ存在。
今のままでは彼は異端者として、この世界から弾き出されてしまう。
そうなれば紅林 隼人という人間は消滅し、誰の記憶にも残らない始めから存在しなかった者となってしまう。
本人に公表していないだけで実際は、いつ消えてもおかしくはない危うい存在なのだ。
ここで彼が活躍をして皆に認められれば、この世界に必要な存在として完全に繋ぎ止めておくことが出来る。
決して己の都合だけの問題では無い。隼人自身のためにもアルステッドは、あえて彼を利用する案を提示したのだ。
「……分かり、ました」
嫌だ。逃げたい。
彼の顔に、そう書いてある。
そのことに気付いていながらもアルステッドが優しい言葉をかけることは無かった。
それは彼を追い詰めている張本人がすることでは無い。
では誰が、その役割を果たせば良いのかと聞かれてもアルステッドには答えられない。
(今の私を見たら心優しい彼らでも、きっと失望してしまうだろうね)
時間が経っても風化されず、行き場さえも未だに見つけられない感情がアルステッドの中で巣食っている。
彼が、この感情から解放される日が来ることは無い。何故なら解放してくれるはずだった唯一の存在を、彼は既に失ってしまっているのだから。




