205.5話_閑話:紅林 隼人は〝主人公〟にはなれない
紅林 隼人は喉の奥まで指を突っ込まれたような息苦しさと不快感に襲われていた。
憧れていた異世界生活。
蓋を開ければ、それは元いた世界と変わらない地獄だった。
いや、慰めてくれる友人や心配してくれる母親が居てくれた分、元いた世界の方が良かったかも知れない。
彼が、この世界に召喚されて数ヶ月。
この短期間で彼の心がここまで変わってしまったのは、此処での生活が思い描いていた理想から大きくかけ離れていたからだ。
地味な事務仕事ばかりの日常。これでは日本で働いていた時とあまり変わらない。
特別な力が開花するどころか未だに魔法も使えない(結界魔法は月姫の魔力の一部を受け継いでいるだけに過ぎないので含まない)。これでは元いた世界と何も変わらない。
今の彼にあるのは魔王殺剣という魔剣だけ。
魔剣とは大層に言っても、その正体は野菜すら斬れない模造刀……いや、模造剣だ。
そんな剣でモンスター狩りなんて、とてもじゃないが出来ない。逆に、こっちが狩られてしまう。
これなら、まだ包丁の方が武器として有能だと思えてしまう。……そもそも包丁は基本的に料理用として扱うものであって武器として扱うものでは無いが。
お蔭で、彼は今日まで王都の外に出たことが無い。
前の世界は刀も銃も簡単に手に入れられるような所では無かったし、何より法律で所持自体が禁止させれていた。
ゲームのキャラクターを通しての戦闘は何度も経験してきたが、彼自身が経験したことは無い。
この世界に来ても、それは変わらなかった。
それなのに、だ。
ある日、突然与えられた〝結界師〟の称号。
それから間もなく依頼された生きる厄災の討伐。
異世界転生というものに憧れていた頃の彼だったならば、これらの出来事に大喜びしていたことだろう。
限られた者にしか与えられない特別な称号。
皆に畏怖されるボス級モンスターの討伐。
まさに主人公的立ち位置のキャラが体験するような怒涛の展開。
ここで活躍すれば一気に英雄扱いされるに違いないと、以前の彼なら思っていた。
しかし、今は違う。
今の彼にとって、そのような出来事は重荷にしかならないのだ。
称号は与えられても結界師としての責務を果たすには、まだまだ遠く及ばない。
武器を与えられても野菜すら斬れない剣でボス級のモンスターが倒せるとは到底思えない。
せめて過去に一度でも、この剣でモンスターが倒せていたならば少しは考えが変わっていたかも知らないが、そんな機会は一度も訪れなかった。
ゲームの世界でも、そんな理不尽な出来事はあるにはある。
それは始まりからクライマックスと言わんばかりにボスが登場する所謂、強制敗北バトルと言われる奴だ。
その勝負に負けてもゲームオーバーになることは無い。寧ろ、負けてからが本当の始まりと言える。
もしかしたら、この出来事もそうなのかも知れないなんて……そんな楽観的な思考になれなかった。
この場合のゲームオーバーは、恐らく死と同等を意味する。
ゲームのように何かを捧げれば復活するなんてことも無い。仮に、そのようなシステムがあったとしても、そもそも彼には捧げられるものが無い。
(…………吐きそう)
アルステッドから討伐の話を持ちかけられた時に発狂しなかった自分を褒めてやりたい。
ここで、もしやこれはチート覚醒のチャンスなのではと前向きに考えられないのは、彼を支配している感情が期待ではなく恐怖だからである。
死に対する恐怖。
アルステッド達の期待を裏切ってしまうことへの恐怖。
彼は、肉体的にも精神的にも恐怖の色に染め上げられてしまった。
そして更に追い討ちをかけたのが今、彼を見つめている者達の目だ。
自分を救世主と讃えんばかりの希望に満ち溢れた目。
これで、もう何も恐れるものは無いと信じ込んでいる目。
違う、違う、違う。
自分は、そんな目を向けられるような存在ではない。
そんな……主人公に向けられるような目で、見ないでくれ。
本当は言いたい。自分には出来ない、荷が重過ぎると。そして全てを投げ出してしまいたい。
(でも、そんなこと出来るわけない)
それは、この世界での自分の存在価値を全否定してしまうことになる。
もし自分が、この世界に不必要な存在だと認識されてしまえば、その時は……考えるのも恐ろしい。
元々、この世界に紅林 隼人という人間は存在しない。
異分子とも言える彼に価値が無いと分かって、周囲が受け入れてくれるだろうか?
恐らく答えは……否。
例え、どんなに理不尽でも心が拒絶しても、この世界に選ばれてしまった以上は逆らうことが出来ない。
上手く躱したところで、この世界の修正力で振り出しに戻されるだけ。
最初から、彼に選択肢など用意されていないのだ。
「彼が授かった〝魔王殺剣〟があれば必ず……」
隣でアルステッドが何やら熱弁しているが、全く頭に入ってこない。
聞いたところで、自分が絶望するだけだと分かっているから。
主人公は〝僕〟じゃない。そんな器じゃない。
誰か、気付いてくれ。僕の本心に。
誰か、ちゃんと見てくれ。不安と絶望だらけの僕の顔を。
誰か、誰か、誰か────
「………………助けて」
その呟きは誰の耳にも届くことなく、空気に溶けて消えた。




