186話_感情の名
ファイルの言葉で、竜の腰掛けに初めて触れた時のアザミの言葉を思い出した。
──……よく憶えておくんだよ。今、アンタ達が感じたのは、アタシ達がこうやって平和に暮らしている間、ずっと誰かの〝中〟で眠っている竜の生命の鼓動さ。この鼓動が安定している限り、アタシ達の平和は守られてるって事なんだよ。
竜の腰掛けを手にした時に感じたのは、嵐の前の静かさを感じさせるような嫌に穏やかな心音。
あの宝玉と四竜柱の贄と呼ばれる者達が上手く共鳴することで、竜を封印するだけの力を得られる。
「あんまり驚いてなさそうっすね」
「……え?」
考えることに夢中で、ファイルの言葉への反応が少し遅れてしまった。
「だからといって、オレっちを怖がっているわけでもなさそうっす。もしかして、オレっちが四竜柱の贄だってこと、知ってやした?」
まさかと、慌てて首を横に振る。
「すみません。驚いてはいるんですが、それ以上に何と返したら良いのか分からなくて……」
ファイルは納得したように、数回頷いた。
「あぁ、なるほど。驚きよりも戸惑いの方が勝っちゃった感じっすね。まぁ確かに、急に、こんなこと言われても困りやすよね。でも、君には本当のことを伝えたいって思ったんすよ。助けてくれた御礼とか、そういうのじゃなくて……何て言うんすかね。正直、オレっちも、よく分かってないんすけど」
自分のことなのに分からないなんて、変っすよね。
そう言って彼が見せた笑みは、先ほどまでのものと比べて、ぎこちなさが少しだけ緩和されているように思えた。
「ほんの数十年前までは、四竜柱の贄なんてものは言葉すら存在してなかったんすよ。だけど、ある事件が切っ掛けでオレっち達のような存在が生まれる事になったんす」
「ある事件?」
それは何だと、表情で問いかける。
「数十年前のある日。とある街が、竜の大群に襲われたんすよ。元々、その街は、それなりに栄えていやしたが……建物も人も何もかも、面影さえも残さず炎に焼き尽くされやした。当時、すごく話題になったんすよ。毎日毎日、世間は、この話題で持ち切りだったっす」
……竜が街を襲う。
そんな大きな出来事が、そう遠くはない過去で起こっていたのか。
「この事件が起きる前から竜は危険な生き物だという認識は皆、持っていやした。でも、この事件で更に竜の危険性が危惧されて、このままでは自分達が住む場所も危ないと焦った王族や貴族達が何か策はないかと考え始めたんす」
「その策として思い付いたのが、四竜柱の贄だったんですね」
「その通りっす。誰が提案したのかは知りやせんが、こちらからすれば迷惑な話っすよ。お蔭で、こんな身体になっちまいやしたしね」
こんな身体。
そう言いながらファイルが視線を向けたのは、腰辺りから生えている岩のような尻尾。
どこか無機質な表情で語るファイルの代わりに、デルタとガチャールが今にも泣き出してしまいそうな顔で彼を見つめている。
「先ほど貴方は、自分は四竜柱の贄の一人だと言いましたね。つまり貴方の他にも何人かいるという事ですか?」
そんな彼女には、あえて気付かない振りをして俺は新たに得た疑問をファイルに投げかける。
「もう、そこに疑問を持っちゃいやしたか。まぁ、話が早く進んで助かるっすけど」
軽く笑いながら肩を竦めたファイルだったが、すぐに神妙な面持ちで俺を見た。
「君の言う通り、いるっすよ。四竜柱の贄はオレっちを含めて四人」
四人。その数は、アザミが言っていた大竜の数と一致する。
つまり一頭の竜の封印を一つの宝玉と一人の人間で賄っているということになる。
「多分、察しはついてるかも知れやせんが、オレっちの他にはカリン・ビィギナー。あとの二人は……オレっちも知らないっす」
カリンの名前が出てきたことに今更、驚きは無い。
御伽領域の一件で、何となく察してはいたから。
それよりも意外なのは、当事者である彼が四竜柱の贄の全員を把握していない事だ。
「四竜柱の贄に選ばれた奴は見れば、すぐに分かるっす。何たって、この奇抜な見た目が目印みたいなもんっすからね。だから、オレっち達は普段、蜥蜴族とか竜人とか出来るだけ容姿の近い種族を名乗ってるんすよ」
要するに世間には、そのように認識してもらえるように情報を操作しているわけだ。
「オレっちが四竜柱の贄だって知ってるのは、君の他にはギルドの職員とアルステッド理事長にヴォルフ理事長、それからカグヤさん、あと多分、カリン・ビィギナーも……それくらいっすかね」
こうして改めて名前を挙げられると、本当に自分が聞いて良かったのかと不安になる。
だって、どう考えても俺が一番、場違いだろ。
四竜柱の贄とは何の関係も無いし、ファイルと特別親しいわけでも無い。
(……何故、彼は俺に話そうと思ったんだ?)
本人でさえ分からないと言っていた理由が、俺に分かるはずも無い。
「ライ君。ちょっと、オレっちの方に来てくれやせん?」
手招きする彼に、ゆっくりと近付く。
「もう少し、近くっす」
手を伸ばして届くか届かないかの位置で立ち止まると、彼は、そう言って再び手招きをする。
更に数歩ほどの距離を詰めた時になって漸く彼は、止まれと手で合図を出した。
「右手、借りても良いっすか?」
何をするつもりだと身構えながらも、彼に自分の右手を差し出す。
ファイルは俺の右手を取ると、自分の胸に沿えさせるように手を当てた。
「あ、あの……?」
彼の行動の意図が分からず、困惑の声を漏らした瞬間だった。彼の身体に違和感を覚えたのは。
俺の右手は今、彼の胸元に触れている。
布越しではあるが、彼が身に付けている服は薄手の生地で作られたもの。
ならば僅かながらでも感じるはずだ、彼が生きていることを示す鼓動を。
なのに、右手からは何も感じられない。怖いほどに静かだ。
「その顔、どうやら気付いたみたいっすね」
何に? なんて言えない。
気付いていない振りは、もう彼には通用しないと分かるから。
「前までは、ちゃんと聞こえてたし動いてたんすよ? でも、いつからっすかね……気付いたら、オレっちの心臓は止まってたっす。不思議な話っすよね。オレっちは、こうして普通に動いてるのに心臓は止まってるんすよ? 何でも、中に封印した竜が少しずつオレっちの身体を乗っ取ろうとしてるから、こんな不思議な現象が起きてるみたいなんすよね」
何故、俺なんかを相手に、その話が出来る?
何故、そんなに明るい声で話せる?
「ねぇ、ライ君……」
何故……
「オレっちのこと、怖いっすか?」
そんな悲しそうな目で、俺を見る?
〝自分のことが怖いか?〟だと? 少なくとも、今の彼に恐怖は感じない。
少しでも突いてやれば涙を流してしまいそうな奴に、恐怖など感じるわけが無い。
「これまでの話を聞いても、今こうして貴方の身体に触れていても貴方を怖いと思ったことは一度もありません」
今、俺が彼に向けている感情があるとするならば……
「ただ、強い人だなと思いました」
恐怖でも、況してや同情でもない。
己に降りかかった運命から逃げず、今日まで向き合い続けてきた彼への〝尊敬の念〟だけだ。




