135話_困った時は、お互い様
「……怪我は、ありませんか?」
歯の隙間から漏れる嗚咽には触れず、俺の上に倒れたリンに心配の言葉をかける。
彼女は小さく頷き、ゆっくりと身体を起こし始めた。立ち上がり、乱暴に目元を袖で拭った後、彼女は俺へ手を差し伸べた。
彼女の手を取って立ち上がると、彼女は深々と頭を下げた。
「あの……本当に、すみませんでした」
そう言って顔を上げた彼女の目には、既に涙らしい光の影が溜まっている。
〝いえいえ、こちらこそ〟本来ならば、そう言って、早急に去るのが正しいのかも知れない。だが、今にも泣き崩れそうな彼女を見て、思わず問いかけてしまった。
「あの……何か、あったんですか?」
意図せずポロリと出た言葉とはいえ、ストレート過ぎた問いかけに時間を巻き戻したい衝動に駆られたが、さすがに踏み止まった。
その結果……
「……っ、」
再びリンの目から零れ落ちる涙。しまったと後悔しても既に遅い。一度、決壊した涙腺は、そう簡単には修復できないのだ。
何も知らない人が見たら、どう見ても俺が彼女を泣かしたとしか思えない構図。
頼む、頼むから今だけは誰も来ないでくれ。そう願った直後だった。
「…………何をしている?」
これ以上、冷ややかには言えないであろう声が、すぐ後ろの方で聞こえた。
正直、振り返りたくはなかったが、そういう訳にもいかず、ゆっくりと振り返る。
振り返った先には、予想通り、アリナの姿と彼女の後ろに控えるように立つカリンとグレイの姿があった。
まるで敵を前にしているかのようにアリナとカリンの表情が険しい。
あぁ、この後の展開が安易に予想できる。
「君には失望したぞ、ライ・サナタス。まさか、君が女性を泣かせるような奴だったとは……どうやら私は、君との付き合い方を改めてなければならないようだな」
いやいやいやいや、これは違う。完全な誤解だ。
とりあえず俺の話を聞いてくれ。
『アリナさん。確かに彼は時々、鈍感が故に女性を傷つけてしまうことがありますが、どうやら今回は違うようです。今後の付き合い方を改めるかどうかは彼の話を聞いてからでも遅くはないかと……』
ホワイトボードにびっしりと書かれた文字。
これだけの文量を、しかも読むのも苦労しない綺麗な字で書けるグレイの技量に称賛の言葉をかけたい所だが、それよりも正直、フォローと呼ぶに値するか怪しい内容に、何とも言えない気持ちになった。
「……分かった」
言葉と表情が一致していない。
明らかに、まだ疑っている。本当に勘弁してくれ。
「あ、あの!」
震えを帯びた救世主の声が聞こえると、俺とアリナ達の間に割って入ったリンが経緯を説明し始めた。
(助かった……)
次第に険しさが無くなっていくアリナ達の表情を見ながら、俺は密かに安堵の息を漏らした。
「なるほど……彼が貴女を泣かせたわけでは無いという事は分かった。ならば貴女は何故、泣いているんだ、リンさん」
「っ、それは……」
当然といえば当然の疑問が、リンへと投げかけられる。しかし、彼女の口は開かれたのは疑問の答えではなかった。
「ごめんなさい。これは私の問題ですから……それに私、今すぐ村に戻らないと……」
「村? 村というのは……まさか貴女の故郷である〝セイリュウ族の村〟のことか?」
「はい。今から急いで行けば、3日後の朝には着くと思うので」
こうして話している時間も惜しいとばかりに、彼女の表情には少しずつ焦りが現れ始めている。
本心としては今すぐにでも村に辿り着いておきたい所なのだろうが、彼女には、その手段がない。
だから、自身の足や限られた交通手段を利用して行くしか無いのだ。
(もしリンが瞬間移動が使えていたら、村なんて一瞬で……)
その瞬間、ピンと閃く。
そうだ。俺が彼女を瞬間移動で送り届ければ良いんだ。
どうせ一瞬で済むことだ、何も問題は無いだろう。
「……アリナ先輩」
「あぁ……困っている人を助けるのは、ギルドに所属する者の使命だからな」
名を呼んだだけなのに、まるで俺の思考を既に把握していたような返答。
アリナはグレイとカリンを数秒ほど見つめ、彼らが頷いたのを確認すると満足したように口元を緩ませた。
「リンさん。貴女の様子を見る限り、貴女は今、重要で且つ急を要する案件を抱えているようだ。本当ならば移動に3日かけること自体、もどかしいと思っていることだろう。そこで、だ。私達に、貴女を村まで送る手伝いをさせてはくれないだろうか? ……と言っても、ただ瞬間移動で貴女を送り届けるだけなのだが」
「…………」
意外なことに、リンはアリナの提案に対して同意も否定もせず、ただ口を固く閉ざしていた。
だが、例え口には出さずとも、複雑そうに歪められた表情が既に答えを出していた。
「ありがとうございます、アリナさん……でも私の都合に貴女達を巻き込むわけにいきませんから」
失礼しますと逃げるように俺達の間を通り抜けようとするリンを妨害するように、アリナが彼女の前に立った。
「そんな言葉を向けられた程度で、私が貴女を黙って見送ると思ったか? ……貴女には計り知れない恩がある。この程度のことで返せるとは微塵も思ってないが、それでも貴女のために何かしたい。これが私の本心だ。だから、遠慮なく私を頼ってほしい」
今のアリナの表情は、いつも見せる生徒会長としての凛々しい表情では無かった。
まるで安心できる場所にいるかのような、全身の力を抜いた、あどけない表情。
初めて、アリナの素の表情を見たような気がした。
絆されないとばかりに固く結ばれていたリンの唇が大きく歪む。あと一歩、あと一歩だ。
「リンさん」
静かに名前を呼ぶと、リンがゆっくりと俺の方を見た。
「俺もアリナ先輩と同じ気持ちです。特別クエストでは、リンさんやセイリュウ族の皆さんに大変お世話になりました。俺に出来ることなら、何でも協力しますよ」
『俺も、微力ながら協力します』
グレイがリンに見せたホワイトボードには、その一文だけが書かれていた。
それを見たカリンが慌てた表情で口をパクパクと開閉させた後、気恥ずかしそうに大きく顔を逸らした。
「わ、私も協力、するわ、よ」
改めて言葉にするのが恥ずかしかったのか。それとも、流れ的に自分だけ何も言わないのは何となく気不味いからと慌てて言葉を放ったからか。
兎に角、側から見れば、明らかに挙動不審だ。
しかし、そんな変な虚勢を張った態度も再び涙を流し始めたリンを前にしたら、いとも簡単に崩れてしまった。
「……っ、あ、ありがとう、ございます」
涙に濡れた彼女は相変わらずの涙声だったが、その声や表情からは僅かな喜びが漏れ出ていた。




