119話_優しい魔法
薔薇庭園の奥。
上から見ても、華美な薔薇達に囲まれているせいですっかり見落としていた場所。
背の高い垣根が兵隊のように1列に並び、俺達に行き先を示していた。
まるで、大きな迷路の入り口のようで、ほんの少しだけ足を踏み入れるのを躊躇う。
アレクシスに教えてもらっていなければ、俺は、この場所の存在を一生、知ることは無かっただろう。
どうやら、アレクシスが俺に渡したいという物は、この先にあるらしい。
「僕と兄が昔、読んでいた絵本に〝垣根で出来た大きな迷路〟が出てきたんだ。それに憧れて……無理を言って、使用人の人達に可能な範囲で作ってもらったのが、この垣根の道なんだ」
どれだけ細身の人間でも、2人以上が横並びになって歩くのは難しいほどの細道を進みながら、アレクシスは、懐かしそうに話し始めた。
「あ、でも、迷うことは無いから安心して。結局、この庭の広さで迷路を作るのは難しかったみたいで、矢鱈と道がうねっているだけの、ただの一本道なんだ」
手品の種明かしでもするかのように、アレクシスが囁く。
その姿が本当に楽しそうで、思わず自分も笑みを浮かべてしまう。
「ライさんに渡したい物は、この道の最奥部に置いてあるんだ」
右へ、左へ、また右へ。
彼の言った通り、真っ直ぐではなく、無駄に曲がり角が多い。
そのせいか、まだ数分程度しか歩いていないのに、既に30分は経っているかのように思えた。
「次の角を曲がれば着くよ」
アレクシスの言葉に、自然と速まる足。
最後の角を曲がると、先に細い道は無く、木で出来た小さなブランコや肥料の入った袋が積まれた空間が現れた。
そう広くは無い筈なのに、あの細い道を通った後のせいか、不思議と広く感じられる。
その空間を囲う垣根に沿うように、植木鉢に入れられた小ぶりの薔薇が、俺達を迎えるように一生懸命、花を開かせていた。
「着いたよ、ライさん。ようこそ、僕と兄の〝元〟秘密基地へ。まぁ、使用人達も知っている場所だから全然、秘密では無いんだけど……」
秘密基地。
その単語を聞いて、昔、自分もアランとスカーレットと共に、村の近くの森の中に秘密基地を作った事を思い出した。
村にいる間は時々来ていたが、王都に来てからは放置したままだ。そもそも村にも帰っていない。
(マリア、それにマナとマヤは、元気にしているだろうか?)
時々、手紙は貰っているが……久しぶりに会いたい。
「ライさん、さっき言ってた渡したい物なんだけど……これ……」
アレクシスの声に、別の世界へと出かけていた意識が帰ってきた。
いつの間にか、控えめに前に出されたアレクシスの手には植木鉢が。
彼が、いつ植木鉢を手にしたのか分からない。分かるのは、彼が俺に渡したかった物は、枝の所々に咲き誇る小ぶりの薔薇が植えられた植木鉢だという事だけだ。
「それ、妖精薔薇っていう薔薇なんだ。花は小さいけれど、水と肥料さえ忘れずに与えていれば育つから、初心者でも育てやすくて、枯れにくい。しかも、咲いた季節で色が変わるんだ」
「……咲いた季節で、ですか?」
この小さな花の生命力といい変わった特徴といい……素直に驚いていると、その反応を待ってましたとばかりにアレクシスは頷いた。
「そう! 例えば、この鉢に植えられた薔薇。1つだけ色違いの薔薇があるでしょ?」
彼の言う通り、咲いた数個の薔薇のほとんどは秋が似合う紅葉色をしているにも関わらず、1つだけ、真夏の青空のような爽やかな青に染められた薔薇があった。
「春は桃色、夏は青紫色、秋は紅葉色、そして冬は雪みたいに真っ白になるんだ! この薔薇は、フローレスっていう花の精霊から貰える種からじゃないと育たないんだって」
フローレス……確か、アザミからも聞いた名だ。
──丁度1ヶ月くらい前、フローレスっていう花の精霊に会ってねぇ。収穫したばかりの野菜を分けてやったら、その礼にって花の種をくれたのさ。
フローレスといえば、リュウのファミリーネームだ。しかも、彼はピクシー。花を司る妖精族と花を司る精霊。
どう考えても、これが〝無関係〟という一言で片付けられるはずが無い。後で、本人に確認しなければ。
「あの、ライさん……? も、もしかして……気に入らなかった?」
不安そうに眉を下げたアレクシスの言葉を、慌てて否定した。
「い、いえ! そんな事、ありませんよ。ただ、色々と驚いてしまって……でも、本当に良いのですか? この珍しい薔薇を、俺が頂いてしまって……」
「うん、ライさんに受け取ってほしいんだ。……ライさんなら、その薔薇を大切に育ててくれると思ったから」
ここまで言われたら、受け取らないわけにはいかない。
手に持っていた花冠を気にかけながら、彼から植木鉢を受け取った。
「ありがとうございます。……大事に育てます」
俺の返事にアレクシスが嬉しそうに微笑んだ時、彼の後ろの方に並べられていた植木鉢が、やけに鮮明な姿で、視界に映り込んできた。
今、俺が手に待っている植木鉢に植えられたものと同じ薔薇。
1輪だけ植えられ、自分だけの領域で思いのままに花を開かせる薔薇。少しだけ花を萎ませ、心なしか縮こまっているように見える薔薇。
同じ薔薇でも、各々の個性を表しているかのような違った咲き方をしていて面白い。しかし、その中に1つだけ……花どころか芽も出していない植木鉢があった。
他の鉢と同様に、土は入れられているにも関わらず、それ以外には何も無い。何とも言えない異彩を放つ鉢を、見なかったことにする事など出来なかった。
「アレクシス王子。1つ聞いてもよろしいですか?」
「勿論、良いよ。何かな?」
「後ろにある植木鉢のことなのですが……1番右端にある鉢には、何も植えていないのですか?」
問いかけると、彼は悲しそうに目を細めた。
「……やっぱり、そう思うよね? でも、あの鉢にも、ちゃんと薔薇の種を植えてあるんだ。だけど、何故か、あの鉢に植えられた薔薇だけは芽も出なかったんだ。…………上手く育っていたら、兄にプレゼントするつもりだったんだけど……」
最後の言葉が、冷たい雨のように、俺の心に突き刺さる。
無理やり笑顔を作る彼を見て、今の言葉を聞かなかったことにするなど、出来る筈が無かった。
もう、俺の目には土しか見えない植木鉢しか映っていなかった。
戸惑うように俺の名を呼ぶアレクシスの声にも応えず、一直線に植木鉢に歩み寄る。
肩膝立ちになり、アレクシスから受け取った植木鉢と花冠を地面に置いて、湿った土しか見えない植木鉢を見下ろした。
彼の言っていた通り、芽すら見当たらない。土の中から聞こえる生命の音は……無い。
原因は分からないが、種は、真っ暗な土の中で息耐えてしまったらしい。これでは、芽を生やす事も茎を伸ばす事も美しい花を咲かせる事も出来ない。
「………………」
植木鉢の真上に手をかざし、小さく呼吸。
(正直、苦手な部類の魔法ではあるが……まぁ、何とかなるだろう)
一抹の不安を抱えながらも、俺は意識を手に集中させた。
その瞬間、淡い光が植木鉢を包む。土の一部が小さくボコボコと波を打ち始めた。
(出来るだけ魔力の放出を抑えて……)
ただ、ぶっ放せば良いだけの魔法とは違う。
細かな調整を必要とする魔法は、昔も含めて、あまり使った覚えが無い。
(…………今後の課題だな)
だが、今は、今だけは失敗するわけにはいかない。
額に浮かぶ汗も拭わずに、土の中で永遠の眠りについた種に魔力を注ぎ続ける。
アレクシスは、興味深そうに俺と植木鉢を見つめている。
もう少し、あともう少し……
そして、注いだ魔力に僅かな反応が見られた瞬間。
ピョコっと……そんな可愛らしい音が似合う、小さな芽が土から顔を出した。
小さな芽は意思を持ったようにシュルシュルと空を目指して伸び、ある高さで止まると、茎に刺や葉を生やした。そして最後に、茎の最上部には開花寸前の大きな蕾が。
そこまで見守ると、俺は魔力の放出を止めた。
アレクシスは少しの間、放心したように成長した薔薇の姿を見つめていたが、少しずつ意識が明瞭になると、興奮染みた拍手を送り始めた。
「す、凄いよ、ライさん! 今の魔法だよね?!」
幼い子どものように希望に満ち溢れた瞳が、俺に向けられる。
それが、何だか擽ったくて、変にむず痒くて。
彼の視線から逃れるように、一気に開花直前の姿まで成長した薔薇へと視線を向けた。
「俺に出来るのは、ここまでです。後は、アレクシス王子……貴方次第です」
「……え?」
「先ほど、貴方は言っていましたよね。〝上手く育っていたら、兄にプレゼントするつもりだった〟と」
俺の言葉に、アレクシスは目を見開いた。
驚き、戸惑い、葛藤。彼の表情からは、様々な感情が窺える。
「で、でも……良い、のかな……?」
アレクシスの問いかけの意味が分からず、首を傾げた。
「今まで極力、兄と関わろうとしなかった僕が、突然、薔薇を渡したところで、兄を困らせるだけなんじゃ……」
「それは、あり得ません」
それは、自信を持って言える。
確かに初めは戸惑うかも知れないが、最終的には大泣きして、あの締め殺す勢いの抱擁をするに決まっている。
「大丈夫。アンドレアス王子は必ず、貴方の声に耳を傾け、貴方の気持ちを受け入れる。そのような方ですよ、あの方は」
熱苦しくて、王子っぽくなくて、お人好しで……だけど、不思議と魅入ってしまう彼。
わざわざ俺が公言しなくともアレクシス自身も彼の為人は理解していたようで、〝そうだね〟と、頷いた。
「実は……この薔薇に、もう一つ別の魔法をかけました」
「え、そうなの?」
〝どんな魔法?〟と問いかけるアレクシスに、俺は言葉ではなく、自分の唇に人差し指を添える事で答えを示した。
「それが、どのような魔法なのかは……貴方がアンドレアス王子に薔薇を渡した瞬間に分かります。ただ、その魔法は薔薇が完全に開花する前にアンドレアス王子に渡さなければ消えてしまうんです」
「え、それって……」
今にも弾け出しそうほどに丸みを帯びた蕾。これは、数日後には開花してしまうかも知れない。
「この薔薇にかけられた魔法が何か知りたければ早めに渡された方が、よろしいかと……」
今日1番の笑顔を見せると、アレクシスは意外そうに目を丸くして俺を見た後、困ったように笑った。
「ライさん。もしかして今、楽しんでる?」
「……さぁ、どうでしょう?」
肩を震わせている俺を見て、アレクシスは脱力したように息を吐いた。
「早いうちに……か」
そう呟くと、アレクシスは意を決した表情で俺を見た。
「分かったよ、ライさん。僕、兄に……兄さんに、今日、この薔薇を渡すよ。ライさんの〝優しい魔法〟が込められた、この薔薇を」
(……優しい魔法)
どこか懐かしさを感じる言葉に、胸の奥からジンワリと温かなものが漏れ出た。
「絶対に喜びますよ。それこそ喜び過ぎて……泣いてしまうかも知れません」
「ははっ! そんな大袈裟な……」
俺の言葉を軽く笑って流した彼に、俺は2人の王子が仲良く肩を並べる未来を想像しながら、その笑いに返すように笑みを浮かべる事しか出来なかった。




