99.5話_閑話:崩壊への〝初めの一歩〟
あの後、彼女達は知る人ぞ知るギルドの裏口から入り、地下へと続く石の階段の中間にあるカグヤの結界魔法によって作られた御伽領域へと繋がる見えない入り口に迷いなく飛び込んだ。
飛び込んだ先に映った光景に、ビィザァーナは戦慄し、ビィザァーヌは呼吸の仕方を忘れたように息を飲んだ。
彼女達の目に映っていたのは、ガラス瓶の底のような分厚い眼鏡越しに見た世界そのものだった。
全てが霞み、何度、目を擦っても明瞭な世界は映らない。
寧ろ、見ているだけで酔いそうなほどに歪み、このまま下手に見続けていたら、今にも吐き出してしまいそうだった。
そんな空間に、彼女達は居た。
「な、何よ、これ……どうなってんの?!」
空気とは別のものが吐き出されそうな自分の口を覆いながら、ビィザァーナは細く開けた目で可能な限り周囲を見渡した。
「分からない。だけど、これだけは分かる。この世界の主であるカグヤさんが……これまで何十年も何百年も保ち続けてきた自分の世界が、ここまで不安定になる程に弱ってるってこと」
「弱ってるって……まさか……」
ビィザァーナが、あえて伏せた言葉を理解しているかのように頷いたビィザァーヌは、壁と床の境い目すら分からない道と呼べるかも怪しい道を、探るように一歩一歩進んだ。
そんな彼女の服の裾を掴みながら、ビィザァーナも、ゆっくりと前へと足を進めた。
そもそも、目の前の景色自体が歪み過ぎて、前に進めているのかどうかも分からないのだが……
「私達……一生、こんなワケ分かんない世界に閉じ込められちゃうとか……無いわよね?」
「その心配は無いわ。周りが、こんな状態だから混乱するけど、はっきりとした魔力が、この先にある。この魔力を辿っていけば、どこかへ辿り着く筈よ」
妹を連れてきて本当に良かったと、ビィザァーナは、この時、心から思った。
前後左右という方向感覚すらも麻痺し始めた中、ビィザァーヌの魔力感知だけを頼りに、ひたすら歩き続けていると、景色の歪みが少しずつ緩んでいるような気がした。
「あと、もう少しよ。頑張れる? ビィザァーナ」
「……多分」
口を覆い、顔を蒼ざめさせた姉の姿を見て、ビィザァーヌは、ほんの少しだけ歩く速度を上げた。
進めば進むほど、感じる魔力が強まっていく。
(間違いなく、この先に……誰かが、いる!)
そんな確信を胸に抱いた時には、彼女は姉の手を取って走り出していた。
◇
目の前の景色が、はっきりと見える。
あの歪な世界から抜け出せたのだと、ビィザァーヌは、ようやく呼吸の仕方を思い出したかのように深く息を吐いた。
息を深く吐いたからには、その分、肺に再び空気を送り込まなければならない。
彼女は吐き出した空気を取り戻すかのように、深く、ゆっくりと、息を吸った。
少しずつ、肺に取り込まれていく空気。
しかし、それは不自然にも、途中でピタリと止まった。
原因は、彼女の目の前に映る光景。
隣では、ビィザァーナも彼女と同様に息を飲んで、その光景を見つめていた。
「医療班、治癒魔法をかけ続けろ! 絶対に諦めるな! 手を抜くなっ!!」
「いいかい、お前達! カグヤ様が完全に治るまで、結界魔法を絶やすんじゃないよ!! こんな状態でも結界魔法を発動し続けてくれているカグヤ様に比べたら、今、アタイらが感じている、この苦しみも辛さも、たいしたもんじゃない! そうだろう?!」
そこは、2人が何度か訪ねたことのある、カグヤの部屋だった。
いつもは静かで、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している空間が、今は、殺伐とした緊張感に包まれている。
そんな空間の中心に、気を抜けば身体を持っていかれてしまいそうなほどに力強い魔力を感じた。
この魔力のお蔭で迷わずに、ここまで来れたのだと、ビィザァーヌは、すぐに分かった。
そして、その絶大な魔力を放出している正体も……
「アルステッド先生……」
彼女の代わりに、ビィザァーナが絶大なる魔力の正体を口にした。
基本、穏やかな表情しか見せない彼が、珍しく額に汗を浮かべながら、僅かに口を動かし続けていた。
そんな彼が厳しい視線を向ける先には……力なく横たわっているカグヤ。
そして何より、横たわる彼女の横たわっている畳に赤黒く染み込んだ血が、この場所で、日常を壊す出来事があった事を示していた。
「おぉ! ビィザァーナ殿に、ビィザァーヌ殿! 良いところへ参られた。丁度、呼びに行こうと思っていたところでしたぞ」
ドスッドスッと、とても人間が歩いているとは思えない足音を立てながら、彼女達に駆け寄ってきたのはヴォルフだった。
「ヴォルフ理事長、これは一体……」
「うむ……申し訳ないが、我が輩も詳細は分からぬのです。アルステッド殿に呼ばれて、ここへきた時には既に、カグヤ様は吐血して倒れておりました。今は、王都にいる治癒魔法に特化した魔導師とカグヤ様のお弟子にあたる結界魔法使いの方々の協力を得てカグヤ様の治療と……王都と、この空間の結界保持をして頂いているところです。ただ、結界は兎も角、カグヤ様の容態は、一向に快方へと向かう気配が無いのです。アルステッド殿も先程からずっと治癒魔法で、カグヤ殿の命をなんとか繋いでくれているのですが……くっ、こんな時、我が輩は、ただ応援する事しか出来ないとは……っ!」
ヴォルフの話を聞いた2人は、同時に顔を見合わせ、同時に頷いた。
彼女達だって、立派な魔法使いだ。
仲間が、師が、恩人が、苦境に追い込まれているというならば、自分達の持つ全ての力を使い果たしてでも、最後まで彼らのために尽力する。
それが、彼女達が、この王都で培ったポリシーだ。
2人は一目散に、アルステッドの元へと駆け出した。
「アルステッド先生、お手伝いします!」
「私達に出来る事があるなら、何でも言って下さい!」
2人の呼びかけで、ようやく存在を認識したアルステッドは驚いたように目を見開いた後、どこか安心したようにフッと軽く笑みを見せた。
「それは助かる。医療班が、そろそろ限界を迎える頃だったんだ。彼らの代わりに、カグヤさんに治癒魔法を! 彼女の意識を決して、向こう側の世界に持っていかせるな!」
「はい!」
「任せて!!」
アルステッドの言葉に各々が力強く頷いた後、それぞれの手をカグヤの胸元で重ねた。
「私の治癒魔法と」
「私の拘束魔法を、一つに」
目を閉じ、スゥッと息を吸う音が、互いの耳に届いた瞬間。
「「魔力融合──〝月の雫〟!」」
同時の詠唱を合図に、膨大な魔力が、この空間を満たした。




