95話_和解
「……お母さん」
母親が見せた涙に困惑しながらも、リンは優しく包み込むような声で彼女を呼んだ。
リンの声で我に返ったアザミは、慌てて目を拭った。
「す、すまないねぇ……っ! こんな厳つい見た目の鬼人のくせに、涙なんか……」
「何故、謝る?」
アンドレアスの問いかけに、彼女は涙を拭う手をピタリと止めた。
「先ほど、貴殿は言っていたな。〝鬼人は人間と同じ言葉を話す口もあるし、相手の話を聞く耳だって持っている〟と。ならば、涙を流す目があっても何も不思議なことは無い。それとも……鬼人族には、人前で涙を流してはいけないという決まりでもあるのか?」
彼の言葉に、とうとうアザミは彼を、珍しい生き物でも見るかのような目で見つめ始めた。
そんな彼女に続くように、リンもまた、顔が強張るほどの驚きを彼に向けていた。
彼女達から、そんな視線を向けられた当の本人は、母親と会話をする子どものような穏やかな表情でアザミを見つめ返していた。
この様子だと、恐らく、彼は知らないのだ。
あのような台詞を、あんなにも淡々と言ってのける人間は、極少数派である事を。
アザミの目からは、涙で潤んでいた目が完全に乾いていた。
そして、何かを堪えるように肩を震わせると……
「くっ……くくくく……っは、はははははは!!!」
この空間を吹き飛ばさんばかりの勢いで、腹を抱えて笑いだした。
そんな彼女の顔には、喜色が表れていた。
「っは……あー、こりゃ、まいったねぇ! アタシの負けだ!」
大きく開かれた口から見える牙に、もう恐怖は感じない。
それほどまでに分かり易く、彼女を取り巻くオーラは喜びに満ちていた。
そんな母親の姿を見たリンは彼女の喜びに動かされたように微笑み、俺もまた、安堵から出た笑みを零した。
皆が表情を緩ませる中、この微笑ましい空間に馴染んでいない者が1名……いや、2名。
アンドレアスは分からなくも無いが、何故か、リュウもガラリと変わった空間の雰囲気に戸惑いを隠さないでいた。
かと思えば、近くにいたアランに〝何、この空気? 何が起こったの?〟と尋ねる始末。
(致命的な寛容王子に続き、致命的な鈍感ピクシーが、ここに1匹……)
彼の性格の問題なのか、それともピクシーという生き物の性質なのか……
俺が心配する事では無いだろうが、いつか彼の、この致命的な性格に振り回される者が現れるのではないかと思うと、その者が不憫でならない。
「いやぁ、こんなにも心が晴々としたのは、いつぶりかねぇ! アンタ、今すぐ王子なんて止めて、ここに住む気はないかい? 裕福じゃ無いが、それなりに充実した生活は保証するよ」
冗談とも本気とも取れるアザミの言葉に、アンドレアスは困ったように笑いながら首を横に振った。
「とても魅力的な話だが……我には、やり遂げねばならない事があるのでな。それに今、こうしてローウェンやライ殿達と会えたのも、我が王子であったからこそ! そう簡単に、この地位を手放すわけにはいかない。だから……非常に申し訳ないが、その話は丁重にお断りさせて頂く」
そう言って頭を下げたアンドレアスを見て、アザミは残念そうに眉を下げた。
「……そう言うと思ってたよ。でも、本当に残念だ。折角、あの子と仲良くなってくれそうな心優しい子と出会えたのに」
「あの子? アザミ殿にはリン殿の他にも、ご子息かご息女が、おられるのか?」
アザミの言葉に即座に反応したアンドレアスが尋ねると、彼女は幸福感を噛みしめるように破顔して頷いた。
「あぁ、いるとも。血は繋がってないし、鬼人でもないが、可愛い可愛い息子がね! 少しシャイな子だが、みんな、あの子を家族同然で受け入れてる。アタシ達、セイリュウ族はねぇ、4つの部族の中で唯一、鬼人以外の者を村の住人として受け入れている部族なのさ。だから……後で村を見てもらえば分かるだろうが、この村には|鬼人以外にもゴブリンにエルフにドワーフ、そして、アンタ達と同じ人間も暮らしているんだよ」
アザミが言葉を言い終えた途端、お世辞にも華奢とは言えない彼女の両手を力強く包み込んだ者がいた。
「素晴らしい……っ、素晴らしいですぞ、アザミ殿!! 貴殿が中心となって作り上げた、この村こそ、我の目指す理想! まさか……もう既に、我の理想を具現化した方がおられたとは……っ!!!」
あぁ、また始まったと重く息を吐くと、頭を抱えたローウェンが視界の隅に入り込んだ。
「……それで、その息子さんは今、どこにいるんですか?」
そんなローウェンを見兼ねたのか、今まで言葉を発さなかったヒューマが、少し脱力したように肩を落とし、アザミに問いかけた。
アンドレアスの暴走を止める術としては、手軽さにも、さり気なさも完璧だ。
ローウェンと俺が同時にヒューマに視線を向けると、彼は俺達を一瞥した後、僅かに口角を上げた。
そんな彼の反応を見て、俺は、彼が意図して口を開いたのだと確信した。
彼の思惑通り、アザミは思い出したように声を漏らし、ヒューマの方を見た。
「あぁ、あの子なら、もうすぐ帰って……」
アザミが言葉を言い終える前に、なんとも絶妙なタイミングで玄関の方で扉が開く音がした。
「噂をすれば……って奴だね。帰って来たようだ。丁度良いから、2人とも紹介しようかね」
え、2人……?
耳を澄ましてみると、確かに、玄関からこちらへ向かっている足音は、明らかに1人分では無かった。
規則正しい足音と少し速度の速い足音を、玄関からこの部屋まで続くフローリングの床に響かせながら、足音の主達は姿を現した。
「玄関に沢山の靴が置かれていたから、誰か村の人が遊びに来ていたのかと思ったけど……これは珍しい。外のお客さんが来ていたようだね」
霧のように儚げながらも、優しく包み込むような笑みを浮かべた男の鬼人が、俺達を見渡すように見つめていた。
彼はアザミとは違い、鬼というよりも人間に近い容姿をしている。
そして、そんな彼の背後に隠れている少年。
年は……マナやマヤと同い年くらいだろうか?
赤茶けた猫っ毛の髪だけは確認出来るが、顔は俯かせている事もあり、表情すら分からない。
だが、少年の雰囲気から察するに、俺達に警戒しているというよりも、初対面の者を前に戸惑っているように思える。
もしかしたら彼は、気弱で繊細な性格なのかも知れない。
「あぁ、おかえり。リンが連れてきた大事な、お客様さ……さて、とりあえず紹介しようかね。彼は、ドモン・セイリュウ。アタシの旦那さ。そして、彼の後ろに隠れているのが、ロット・ナイバァ。シャイな子だから、あまり自分から話すような子じゃないが、根は良い子さ。良かったら、仲良くしておくれ」
ドモンと呼ばれた男が、よろしくと頭を下げると、俺達も釣られるように頭を下げたが、俺の視線は彼ではなく、その後ろにいる存在に向けられていた。
────ロット・ナイバァ。
その名前を聞いた瞬間、昔に戻ったような懐かしさに、思わず目を潤ませた。
それを誰にも気付かれたくなくて、欠伸でもするかのように軽く口を開けて誤魔化した。




