第二部
章一 アストリア浮上
1
昼なお暗い冬の南極圏をさらに暗く閉じこめる黒い雲。吹きすさぶ雪嵐が洋上での肉眼視界を容赦なく奪う、タールの様に黒く閉ざされた厳冬期のロス海。南極大陸の大陸棚の上、氷点下の海中を、二隻の潜水艦が人目をはばかるように寄り添いながら音もなく進んで行く。艦尾のハイスキュード・プロペラを囲む円筒形のシュラウド・リングが特徴的なアメリカ海軍の誇る最新型攻撃原潜ヴァージニア級〈ノース・カロライナ〉。そしてその後方には、ノース・カロライナの全長にして三倍、全幅にして四倍はあろうかという巨大な涙滴型の潜水艦が続いている。
「最終警戒ラインを越えました。ロス回廊入口まで五マイル」
ノース・カロライナの発令所後方で慣性航法装置をモニターしていた当直士官が告げた。
「レーザービーコンを受信。誘導ラインに乗りました」
海底に配備されたセンサーアレイが潜水艦の接近を探知し、ブルーグリーンレーザー光による艦名識別ののち、回廊への光の道が開かれた。ノース・カロライナと輸送潜水艦〈ベルーガ〉は四方から迫り来る氷壁の中をレーザー光に導かれて進む。点在する卓状氷山の下を進む二隻の前方にやがて白い氷崖が姿を現した。ロス棚氷。海面上数十メートルから海面下七百メートルまで、南極大陸にくさびのように切れ込むロス海の半分以上を占める巨大な氷の大地である。
「シエラ・セヴン!」発令所に隣接するソナー室で当直ソナー員が声をあげた。シエラとはソナーに反応ありという意味である。甲板士官がソナー制御卓を覗き込む。
「確認しろ」
「間違いありません。氷の回廊が集音機の役割を果たしてくれています。後方八マイル、クウォト級潜水攻撃艦の超電導コイルのうめきがはっきり聞こえます」先細りになったロス潜水艦回廊の形態が天然の集音機となってエフセス艦のノイズを増幅していた。
「発令所!ソナー室です。後方にエフセス攻撃艦。つけられていたようです」
「コースに変化は無いか?」エフセス潜水攻撃艦〈ウルスラグナ〉艦長のハル・アトゥームが言った。
「ありません。一直線にロス棚氷に向かっています」
「思った通りだな。その割れ目が棚氷内への入り口だ」
「攻撃しますか?」副長が指示を仰ぐ。
「いや、この情報を本部に伝えることが最優先だ。反転してロス海を離脱しよう」
「ヴァージニア級、回頭します!」ソナーマンが叫んだ。
「艦長!気付かれました!」副長が叫ぶ。
「慌てるな、ただの後方警戒かもしれん。まだ動くな」
「魚雷装填音!発射口が開きます!」
ソナーマンのその言葉を待って、アトゥームは発令した。
「通信ブイ射出!バースト通信でこれまでのデータを本部に送信!」
ウルスラグナ上部の垂直発射管から圧搾空気によって緊急通信ブイが射出され、海面に向かって急浮上していった。無数の気泡がその後を追う。
「魚雷発射管注水、発射口開け!一番、二番、目標輸送潜水艦、三番、四番、目標ヴァージニア級!」
「セット!」
「発射ァ!」
「ヴァージニア級、魚雷発射!」ソナーマンの絶叫と重なるように鈍い噴出音が二度。艦体がわずかに震える。ウルスラグナからも四本の魚雷が放たれた。
「キャビテーションジェネレーター始動!キャビテーション推進で離脱する!」
ウルスラグナの艦首を囲むように配置された二十四本のスリットから細かな気泡が噴出し、やがて艦隊は白い繭で覆われた。
「敵魚雷接近!」
「ノイズメーカー発射!振り切れ!」
キャビテーションジェネレーターによってウルスラグナ周囲の海水が水蒸気化する。海中に形成された低摩擦の空洞中をウルスラグナは猛烈に加速し始めた。
「こ、これは‥‥」追ってくる魚雷の航走音を聞いていたソナーマンが絶句した。通常魚雷とは全く異なる高周波音、それは敵魚雷もキャビテーション推進で接近してくることを意味していた。
「あいにくだったな。キャビテーション推進はおまえらの専売特許じゃないんだ」
それは、艦体の裂け目から吹き出す海水と圧壊する金属殻のなかでノース・カロライナの艦長がつぶやいた最後の言葉であった。
数秒後、ウルスラグナより一瞬早くキャビテーション推進に移行したノース・カロライナの魚雷は氷山の真下で炸裂し、地球最後の処女地・南極は三基の原子炉の残骸で汚染されることとなった。
2
「状況を説明したまえ、クロイケン」ドゥーサン最高指令の、礼拝で鍛えられた重厚な声が謁見室に響いた。
「アトゥーム中佐指揮下の潜水攻撃艦ウルスラグナが南太平洋で米攻撃原潜の護衛を受けた大型潜水輸送艦に遭遇、追跡し、ロス棚氷に設けられた潜水艦回廊に入るのを確認しました」クロイケンは遭遇という言葉を用いたが、実際にはウルスラグナはクロイケンの指示で輸送艦のコースと思われるメキシコ沖で待機、警戒中であった。決して偶然の遭遇ではない。
「ということは、アストリアは南極で建造されていると考えて間違いないということだな」
フォディオが言った。
「アリゾナの地下基地はやはり擬装でした。GSOは資材をアリゾナに搬入したのち、地下潜水艦回廊を使ってカリフォルニア湾経由で南極へ運んでいたようです」
最初からわかっていたことだ。クロイケンはフォディオの厚顔ぶりに内心あきれながら言った。
「残念ながらウルスラグナは緊急通信ブイを射出後、連絡を絶っています。バックアップのためロス海に向かっていた攻撃艦〈オリシャ・ンラ〉が現場海域で潜水艦三隻の圧壊を確認しました」
「攻撃艦一隻か。その情報、高くついたな」
「攻撃艦はまた建造すれば済みますが、乗員はそうはいきません。アトゥームとそのチームは西インド洋海戦で空母ニミッツ以下イージス艦一隻、巡洋艦二隻を撃沈した、我が艦隊の誇るべき精鋭たちです。エフセス機動艦隊にとってこれはあまりにも大きな損失です」
クロイケンは不快感をあらわにして言った。アブドゥル・フォディオ大佐はクロイケンの感情を逆なでするような野卑な笑いを浮かべている。
「カール・ビンソンをシームルグ一機で航行不能にしたクロイケン殿が言うのだからそうであろうな。だが、敵の懐にウルスラグナを単独で送り込んだきさまの責任はどうなる。オリシャ・ンラの到着を待ってからでも遅くはなかっただろうに」
「それでは回廊を発見することはできなかったでしょう。艦隊総司令はロス棚氷の大きさを御存知ありません」フォデイオの髭に覆われた顔がさっと紅潮した。何かを叫ぼうとしたフォディオをドゥーサン師が遮った。
「攻撃プランを聞かせてもらおう」あくまで冷静な最高司令官の一言で、クロイケンは冷静さを取り戻した。クロイケンはフォディオごときに感情を乱した己の未熟さを恥じ、軽く咳払いをした後、口を開いた。
「海中からの攻撃は核魚雷でも使わない限り効果は無いと思われます。相手は厚さ数百メートルの氷の大地ですから、通常の爆撃では損害を与えることは不可能でしょう」人間よりはるかに遺伝子の放射線感受性が高いアーモンドアイが核兵器の使用を容認するとは考えられなかった。
「核魚雷とは前時代的な。サブロックなど、アメリカ海軍の兵器庫にももう残ってはいまい」ドゥーサン師はテーブルに両肘をつくと顔の前で指を組み合わせた。「まさか手をこまねいて見ているというのではあるまいな」
「すでに南氷洋に第二潜水空母艦隊群を集結させてあります。ロス海付近の天候はあと二週間で回復し航空攻撃が可能になるとのこと。攻撃可能になり次第、第二潜水空母艦隊群の空母四隻の攻撃型シームルグにより非核熱反応弾による対地攻撃を行います」
「GSFの防空体制は?」
「ロス海と南極大陸にGSFの航空基地が存在するという情報はありません。対空火器と地対空ミサイルが防空の中心であると推測されます」
「航空母艦は?」
「ウルスラグナとの接触後、大西洋を南下中のGSFの新造航空母艦については本艦隊の攻撃艦が哨戒中です。いつでも足止めをかけられます」
「結構。必要ならば第一潜水空母艦隊群の戦力を投入しても構わん。エフセス機動艦隊の全力をあげてアストリアの建造を阻止するんだ」
「しかしそれは」フォディオが異を唱えようとしたが、ドゥーサン師の泰然とした視線に押さえ込まれた。第一、第二両艦隊を南極に送るということは、一時的にしろクロイケンの指揮下に全艦隊が入ることになり、艦隊総司令フォディオの立場をなくすことになる。
「戦力の逐次投入という愚を犯すわけにはいかん。アストリアの完成はエフセスとGSOの立場を逆転させてしまうのだ。是が非でも阻止せねばならん」
「心得ています」
「この作戦が失敗すれば地球全体の制空権がGSO側の手に落ちる」突然、謁見室内に金属的な乾いた声が響いた。アーモンドアイの無表情な顔がスクリーンに浮かび上がる。
「失敗はゆるされないぞ、クロイケン」
「はい」クロイケンの瞳に野心の炎が揺らめいた。
3
ジョージ・メイスン記念橋を渡った黒塗りのリンカーン・タウンカーFCが秋の色に染まり始めたポトマック公園を抜ける。その名が示すように燃料電池を用い、排気ガスともレシプロエンジンの騒音や振動とも無縁なVIP専用車は十四番ストリートを北上し、アメリカ合衆国の中枢へと吸い込まれていった。
ホワイトハウスの地下4階の会議室。細部にいたる建物の構造が公開されているこの大統領官邸の中で、この部屋の存在はどの公式文書にも掲載されていない。エレベーターのドアが開いたことを示すチャイムが響き、数秒後、オガサワラ国連事務総長が部屋に入ってきた。長身のキャンベル大統領とワイズマンGSO長官が立ち上がり、小柄な日本人を迎える。
「いやあ、まいったよ。ニューヨークはまだハロウィンだというのに雪だよ」
「わざわざ御足労いただいて申し訳有りません、事務総長」キャンベル大統領とワイズマン長官は形式的に握手をかわした。「東海岸でレベル5のセキュリティゾーンはここしかないもので」
「仕方あるまい。こことニューヨークを結ぶ回線は世界中の諜報機関が聞き耳を立てているらしいからな」
オガサワラにしては珍しい皮肉に、ワイズマンは苦笑した。
「何かまずいことでも?」
「はあ。この気象とも若干関係がある問題が‥‥」ワイズマンが答えた。オガサワラは黒人長官の表情から事情を察知した。
「南極か?」国連事務総長の顔が険しくなった。
「そうです。ロス海の天候が回復しつつあります」
「えらく早いじゃないか、天候予測ではまだ一ヶ月以上も先じゃなかったのか?」
オガサワラは部屋の隅に置かれたコーヒーメーカーからコーヒーを紙コップに注いだ。
「ええ。本来ならこれぐらいの誤差は織り込み済みだったんですけど‥‥」キャンベル大統領がワイズマンに視線を送った。
「先日エフセス攻撃艦に撃沈された輸送潜水艦ベルーガが日本で再調整したエキシマレーザー発振器を搭載していました。レーザー発振器がなければ核融合炉はただの鉄の塊です」
「そして、核融合炉のないアストリアは人類史上最大のオブジェね」キャンベルが言った。「予備はないのかね」オガサワラがワイズマンの正面の席に腰をおろした。
「急遽日本からスペアをニュージーランド経由で搬入しますが、はっきりいってギリギリです」
「アストリアの艤装は?」オガサワラが聞いた。
「九〇パーセント完了しています。残りはほとんどが艦内の居住施設関連ですから、現状で運用を開始しても問題はありません」
「すべては融合炉の臨界待ちということね」キャンベルが小さな溜息をついた。
「エフセスの動きは? ドゥーサンはヨーロッパ歴訪に出るようだが」
「例によって世界平和のための布教の旅というやつね。わざとらしい」
「ノース・カロライナとの接触以降、機動艦隊が南氷洋に集結しつつあります。天候次第ではいつ攻撃を受けても不思議ではありません」
ワイズマンの報告にオガサワラ事務総長は表情を曇らせる。
「エフセス急進派によるエルサレム統一運動の活発化は安全保障理事会の目をそらせるカムフラージュだったか」
「当事国のイスラエルはそんなことは言ってられないみたい」キャンベル大統領が言った。「欧米人とパレスチナ以外のイスラム圏からの一般人の入国を制限すると言ってきたわ」キャンベルの手には国務省から届いたばかりの書類が握られていた。「ユダヤ教徒ですら総人口の五パーセントがエフセスに改宗したとあっては、彼らも必死ね」
書類はワイズマンからオガサワラへと回されていった。
「ことは急を要します、大統領」ワイズマンGSO長官がキャンベルに言った。「第七艦隊の南氷洋への派遣と空軍航空戦闘軍団のオセアニアへの展開を要請します」
キャンベルは無言でワイズマンと見つめあい、おもむろに目前の電話の受話器をとった。
「国防長官をすぐにここへ。‥‥ええ、そう、こちらから迎えの車をやって」
キャンベルは受話器を置いた。
「アメリカはアストリアを守るため全力を尽くしましょう。指揮官として西インド洋海戦の借りを返す必要もありますから。で、GSFの対応は?」
「試験航海中の新造空母ローレライを南下させていますが、エフセス潜水艦隊の妨害を受けており思うように動けません。南氷洋の攻撃潜水艦も同様です」
「いずれにしろ厳しい状況だな」オガサワラが言った。
「天候がどちらに味方するのか‥‥正義の女神アストリアの運を信じるしかないわね」
3
ロス棚氷。その面積は約五十三万平方キロメートルに及び、これはフランス国土の面積に匹敵する。南極大陸より無限に供給される氷は北で三百メートル、南で七百メートルもの厚みを有し、浮力によってその形態が維持されている。そのロス棚氷のほぼ中心部、氷中の孤島ルーズベルト島を基盤として、GSF南極基地〈アンタークティック・ドーム〉が建設されていた。地熱を利用して氷中に穿たれた直径千五百メートル、高さ二百メートルの円柱形の空間で、人類史上最大の人口構造物であり、なおかつ人類史上最強の兵器が建造されていた。
アストリア計画の最高責任者でその司令官の立場にあるサミュエル・アンダーソン中将は、ネットワークを介して送られてくるディスプレイ上の書類の山から目をあげた。小さな溜息を一つつくと、すでにぬるくなったコーヒーを口に含む。巨大組織の責任の一翼を担う人物は、文明世界から遠く離れた南極の氷の中でもデスクワークからは逃れられない。
「まったく、ユタとニューヨークで勝手に決めてくれればいいものを。こっちはレーザー発振器の据付けと調整で手いっぱいなんだ」
アンダーソンは手入れの行き届いた口ひげをさすり、次々と電子決済を下していく。ベルーガとその積み荷を失って以来、アンタークティックドームの作業員達は不眠不休で頭上からのしかかる巨大な氷塊による閉所恐怖症と戦いながら核融合炉の調整を行ってきた。そして今、いよいよ臨界を目指して最終調整のフェイズに突入していた。
キーを叩くアンダーソンの指が止まった。ラバー底の足音が廊下を近づいてくる。アンダーソンは最高機密の書類をセキュリティーディスクに保存した。
ノック。
「はいれ」
「失礼します」
書類フォルダを小脇に抱えて入ってきたのはヘンリー・マーカス大佐。副司令としてアンダーソンの実務的な補佐にあたっている人物である。小柄なアンダーソンとは対照的に二メートル近い身長と百三十キロを越える体重を誇る巨漢であり、白い軍服が巨体をさらに大きく見せていた。白人のアンダーソンに対し黒人のマーカス。アメリカ空軍出身のアンダーソンに対し、イギリス海軍出身のマーカスと、すべてにおいて対照的な二人であったが、一年以上にわたる極地での滞在は二人の関係をより強固で揺るぎないものに変えていた。
「アンダーソン司令」
マーカスはアンダーソンのデスクの正面で直立した。アンダーソンは黙って書類を受け取る。
「悪い知らせです」
普段は陽気なマーカスの厳しい表情に、アンダーソンは不安を覚えた。
「最新の極軌道気象衛星〈ベイ・ウオッチ〉のデータです。気象観測官のコメントも添えてあります」
書類をめくる司令官の顔が険しくなった。
「なんということだ」
「二十四時間以内に嵐が止みます」
「エフセス艦隊は?」
「南緯七十度線付近に空母と攻撃艦が集結しています。やる気満々のようですね」
アンダーソンは端末の電源を落とし、デスク横のコートハンガーから上着を取った。
「司令室に全情報を集約。警戒レベル5を発令」
マーカス副司令が携帯端末で指示を伝えた。
4
「全艦に通達」マーリクの発令所でクロイケンが言った。「一一〇〇時に作戦行動を開始する。攻撃群各空母はロス海ポイント・アルファーに浮上後全シームルグを発進。ルーズベルト島の南八キロのグラウンド・ゼロに対する攻撃を開始する。攻撃型シームルグ第一陣は通常爆弾による表層氷の破壊。第二陣は非核熱反応弾による氷の穿孔。格闘型シームルグは現場空域の空中哨戒。攻撃艦は海中よりミサイル攻撃」
クロイケンはディスプレイに表示される通信文の内容を確認した。
「第七艦隊は?」
「ロナルド・レーガンがタスマン海を南下中。ジョン・C・ステニスはオークランド沖。攻撃艦ガンダレワとハルワタートが足止めをかけています。いずれも脅威にはなりません」
「エロヒムはやはり我々に味方したようだな」クロイケンがエフセス幹部としての言葉を口に出した。
「そのようですね」クフル・アデンが誇らしげに答えた。
本当にそんな奴がいれば、だがな。クロイケンはその言葉を口には出さなかった。
正面と左右の高さ四メートルの壁面を戦況表示スクリーンで覆われた中央司令室。アンダーソンの緊張した声が響く。
「状況報告」
「マーリク級潜水空母七、クウォト級潜水攻撃艦十六、ロス海に進入。速度六十二ノットで南下中。南緯七十五度防衛線まであと二十分」
正面のスクリーンにロス海周辺の地図が表示され、海底に設置されたマルチチャンネル警戒システムからの情報が表示されていた。エフセス艦を表す二十三個の赤い三角のシンボルがベクトルとともに示されている。赤いシンボルの進行方向に対峙する形で並ぶ十一個の緑のシンボルが一つ数秒の点滅ののち消滅した。
「ノース・ダコダ、撃沈」オペレーターの冷徹な声。百十三人の命が氷海に散ったという現実は司令室には伝わらない。
「苦戦だな」司令室中央の指揮官用シートに着席したアンダーソンがつぶやいた。
「潜水空母七隻といえばほぼ二個艦隊群の戦力です。やつら本気ですね」マーカスはアンダーソンの巨大なバックレストのように背後に立ち、戦況表示板を見つめている。
「増援は?」
「アメリカ海軍第七艦隊はエフセスの別動隊と交戦中です」
「どこの国も海軍は腰が重い。あてにはできんな」海軍出身のマーカスが言った。
「ローレライは今どこだ?」
「いまだドレイク海峡を通過中」
それを聞いたアンダーソンはがっくりと椅子にもたれ掛かった。マーカスがそれを受け止める。
「アルゼンチン沖か‥‥」
「地球の裏側ですな」マーカスが言った。経度の上では確かに南米大陸と南極大陸の間に位置するドレイク海峡はロス海の裏側であった。アンダーソンは気を取り直し、上体を起こした。
「シームルグと巡航ミサイルの航空攻撃が来るぞ。対空防御準備。艦外にいる全作業員を艦内に収容しろ」
「敵空母浮上!」
海上に点在する氷山の合間から次々とエフセス潜水空母が浮上する。両舷の発着甲板から、胴体の左右の積載フックに対地ミサイルランチャーを抱えた攻撃型シームルグが次々と飛び立った。
「攻撃型シームルグ全機発進しました」アデンがクロイケンに報告する。
「各攻撃艦、ディーヴ発射」
海中で浮上した空母を護衛していた攻撃艦の垂直発射管から巡航ミサイル・ディーヴが発射される。翼を開いたディーヴはロケットブースターで加速され、ラムジェットに点火すると、編隊を組んで飛行するシームルグを追い越していった。
「巡航ミサイル二十一基、超低空で接近中。着弾まで四分五十秒」
「ECM最大出力。対空ミサイル発射」氷中に埋設されたアンテナから指向性の妨害電波が接近するディーヴに向かって放射され、氷を破って出現したランチャーから地対空ミサイルが発射される。内蔵慣性航法装置で誘導されるディーヴはECMの撹乱をかい潜ってアンタークティックドームに接近し、自律回避プログラムによって地対空ミサイルを振り切った。
「ミサイル九基、着弾します」
「各員、衝撃に備えろ!」アンダーソンはそう言いながら肘掛けを握りしめる。背後でマーカスの巨体が緊張するのが感じ取れた。
ルーズベルト島上空に到達した九基のディーヴは最終誘導段階に入り、ホップアップで高度を取ると、貫通力を高めるため垂直に氷に突入した。弾頭先端のタングステン合金が氷を貫くのを待って遅発信管が発火し、弾頭が炸裂した。誘蛾灯に吸い寄せられる昆虫のように、九発の対地貫通弾頭の爆炎に向かってシームルグが突入する。腋下に抱えたミサイルランチャーから次々と対地ミサイルが発射され、ディーヴが掘削した氷の裂け目を押し拡げていく。
中央司令室の床が震える。艦外のモニターは分厚い氷の天井の発する悲鳴のような音を伝えてきた。司令室の人間達は不安そうに頭上を見上げる。
「ロス棚氷はこの程度ではビクともせん」マーカスが野太い声を響かせた。「それより1番炉の状況はどうなってる?」
「レーザー発振器の最終微調整に手間取っています。爆縮開始まであと一時間は‥‥」機関担当オペレーターが悲観的な状況を伝えてきた。その間も絶えず不吉な振動と音が伝わってくる。
「四十分でやれ。地熱炉の全出力を一番炉に回せ。他は補助動力で凌げばいい」アンダーソンが指示を出した。アンタークティックドームの主動力源であるルーズベルト島地下の地熱発電設備からの電力が第一核融合炉に注ぎ込まれる。
「シームルグ第二波接近」
そのとき、より激しい振動
「ドーム隔壁に氷のクラックが到達しました」
「これ以上ピンポイントで攻撃されるとさすがにマズいことになりますな」マーカスが言った。危機的状況を楽しんでいるような口ぶりにアンダーソンは思わず下から顔を見上げた。この男が慌てる時はいったいどんな時なのか。
「アンダーソン司令!」通信担当オペレーターが振り返った。
「空母ローレライより緊急通信がはいっています。最優先チャンネルで着信者にアンダーソン司令を指名しておりますが」
「ハルトヴィック艦長か?」着信者限定の緊急最優先チャンネルとはただ事ではない。
「いえ。発信者はナターシャ・アレクサンドルフ中佐となっていますが」
それを聞いたアンダーソンの顔色が変わった。
「すぐにつなげ」
アンダーソンは緊急通信用の赤い受話器を取り、受信者を特定するPINコードを打ち込んだ。
「アンダーソンだ」
「アレクサンドルフです」ハスキーががったナターシャの声が秘話デジタル回線のノイズの影響でさらにかすれて響く。
「驚いたな、ローレライに乗っていたのか。エドワーズ空軍基地でセイレーンの調整中ではなかったのか」
「ええ。でも、自分たちの新しい住み家の一大事を放っておくわけにはいきませんわ」
「あとの二人も‥‥」
「当然、同行しています。それより、お困りのようですわね、提督」
「少しな。誰かミサイルを抱いたハエどもを追っ払ってくれないものかと思案中だ」
「よろしければ私たちがその役目、引き受けさせていただきますわ」
「しかし、ローレライはまだドレイク海峡じゃないか。直線距離で4千キロ、間に合うはずが‥‥」
「御心配なく。二十分でそちらにまいります。もう少しがんばってくださいな」
アンダーソンは発信音の漏れでる受話器を見つめていたが、やがて受話器を置くと、マーカスに向き直った。その顔に笑みがこぼれる。
「女神が助けにきてくれるぞ、ハル。なんとか二十分持ちこたえろ」
マーカスは正中の離開した真っ白い歯を見せてにやりと笑い、親指を突き上げた。
「わっかりました。噂の女神たちの顔を拝まずに死ねますかってンだ」
5
南米大陸と南極大陸に挟まれ、太平洋と大西洋を隔てるドレイク海峡の氷海を巨大な艦船が切り裂いて行く。夜の海に巨大なVの字の航跡を残して西進するその船は、速度的についてこれない随伴艦を大西洋に置き去りにし、二隻のステルス・ミサイルフリゲート艦と三隻の攻撃型原子力潜水艦のみを護衛として、四十五ノットの最大速力で一路ロス海へ向かっていた。艦船コードGSMF-C2、GSFの誇る最新鋭超大型航空母艦ローレライは、従来の米海軍の航空母艦を見慣れた者には奇異としか見えない外観をしていた。全長五百三十メートル、排水量十七万トン。双胴の艦体の上に置かれた巨大な甲板には、左右両舷、二本の着艦用アングルド・デッキに挟まれる形で4基のスキージャンプ型電磁カタパルトが設けられ、従来のニミッツ級空母の二倍近い発着艦能力を有している。甲板中央の多面体で構成された艦橋のパイロットハウスの中央、一段高くなった艦長席でクラウス・ハルトヴィックが叫んだ。
「セイレーンが出るぞ!甲板員は全員退避!」
「全甲板員に告ぐ!全甲板員に告ぐ!セイレーンが弾道ブースターで発艦する!総員発着甲板から退避せよ!くり返すー」
甲板上のスピーカーと無線インターコムを通して、総員に発艦警報が発令された。艦橋上部に設置された照明によって黄色く照らし出された甲板では、デッキ・クルーたちがあちらこちらに設置された退避ボックスに逃げ込んだ。通常は三十機以上の航空機が並べられる広大な飛行甲板は、三機の特異な形態の航空機を残して、すべての航空機はすでに一階層下の格納甲板に収容されていた。電磁カタパルト上で水素を燃料とするエアターボ・スクラムジェットエンジン〈イフリートATS・R3〉を暖気させながら発艦を待つ三機の戦闘機、セイレーン。平たい機首はそのままコックピット横の水平カナード翼へとなめらかにつながり、さらにストレーキを介して後退角0度で真横に張り出した主翼前縁へと移行する。主翼後縁は翼端から斜めに機体後部の三次元偏向ノズルとを結び、水平尾翼は無い。その代わりに可変垂直尾翼が離陸時の安定性確保のために水平方向に六十五度傾斜していた。カナード翼、主翼、垂直尾翼には従来の動翼のような部分的な可動部分は認められず、その代わりに、ECSシステムを介して伝えられるパイロットの意志に反応して、それぞれの翼はあたかもイルカのヒレのように滑らかに捻り、そして撓んだ。視覚ステルス機能をもった機体外被膜は今、夜の海と空の色、マットブラックに変化している。垂直尾翼の外側には、世界で唯一この戦闘機を運用できる部隊の愛称が三日月と女神のシンボルとともに記されていた。
“THE FATES”
垂直尾翼先端に01のナンバーの記された隊長機。ナターシャ・アレクサンドルフ中佐はコックピット前方の計器盤の半分以上を占有する多機能ディスプレイ上で、三機すべての離陸準備が調ったことを確認した。ディスプレイに示された離陸重量は十八万五千ポンド。セイレーン自体の重量は五万ポンドそこそこであったが、胴体下部のハードポイントに取り付けられたミサイルと、なにより機体上部に背負った2基の弾道ロケットブースターが離陸重量を三倍にはね上げていた。
「各機、弾道ブースター点火」ナターシャが指示をだした。
セイレーンの機体が大きく震え、閃光とともに猛烈な噴射炎と煙がローレライの甲板を覆い尽くす。艦橋を噴射炎から守るために甲板からせり出したジェット・ブラスト・デフレクターが凄まじい圧力と高温に身もだえし、セイレーンをカタパルトに固定するホールドバックバーが悲鳴をあげた。
「フェイト1クロト、ブースター点火、異常なし」ナターシャ・アレクサンドルフ中佐が言った。
「フェイト2ラケシス、ブースター点火、異常なし」キャロル・ランバート大尉が言った。
「フェイト3アトロポス、ブースター点火、異常なし」マリオン・ブライトマイヤー大尉が言った。
「ザ・フェイツ発進します」三人の女神を代表してナターシャが告げる。
「了解、幸運を祈る」そう言うと、カタパルト・オフィサーは一番から三番のカタパルトの射出ボタンを押した。セイレーンのディスプレイの右隅に大きくカウントダウンが表示される。二秒、一秒、女神たちは猛烈なGに備え筋肉を緊張させる。超電導マグネットがカタパルト・シャトルを加速し、二秒後にはセイレーンは時速三百二十キロの速度を得て、海上に飛び出していた。弾道ブースターの液体燃料ロケットの推力と、後退角0度の高揚力形態の主翼がセイレーンをさらに高く、高く、ぐんぐんと南極の夜空の彼方へと引き上げていく。
閃光防御シールドの降ろされたパイロットハウスの窓を通しても目を覆わずにはいられない程の閃光は、やがてその輝きを弱め、ついには星空へと溶け込んで見えなくなった。
ハルトヴィック艦長は真っ白い三つの残像の焼き付いた目をしばたかせた。他デッキ・クルーもあまりの発艦の凄まじさにしばらくの間放心状態でいた。
「あれがグレイのオーバーテックか‥‥」ハルトヴィックは声には出さなかったが、あらためて異星人のテクノロジーに畏敬の念を抱いた。
「クロトより入電」通信士官がパイロットハウスの沈黙を破った。「貴艦の歓待に感謝し、航海の安全を願う」
「了解した」ハルトヴィックは、艦長席に深々と体を沈めると、つばに金色のオリーブの飾りのあしらわれたドレスハットを持ち上げ、汗でじっとりと湿った髪をかき上げた。
「ザ・フェイツ、運命の女神たちか‥‥」
6
二基の弾道ロケットブースターによって六Gの加速を続けるセイレーンは、ローレライを発艦して六秒後には音速を突破し、さらに速度と高度を上げ続けた。速度が上がるにつれて後退角〇度で真横に張り出していた主翼がしだいに後退し、音速を越えた段階で最大後退角七十二度の高速巡航モードに移行した。セイレーンは主翼後退角マイナス二十四度の前進翼形態からこの高速巡航モードまで、主翼ジョイント部分を覆う電圧可塑性カーボン樹脂の働きで主翼と胴体の間に継ぎ目・段差の無いブレンデッドウイング形態を維持することが可能であった。
「高度五万五千メートル、マッハ十二」キャロルがナターシャに告げた。
セイレーンは従来の航空機では進入不可能な成層圏最上部、成層圏界面で水平飛行に移行する。すでにオゾン層を眼下に越え、オーロラがすぐ頭上で華麗な舞いを見せている。宇宙に手の届く高度であった。
「ブースター燃焼停止」ナターシャが言った。
「まだ燃料が残ってるわよ、機体温度も許容範囲だし、もう少しいけるわ」マリオンが言った。ディスプレイのロケットブースター状況表示ウィンドウは、まだ一分間の燃焼が可能であることを示していた。
「この高度ならスクラムエンジンで速度を維持できるわ。それに、燃料を残しとけばこのどデカいブースターすごく役にたつのよ」キャロルが言った。セイレーンのエンジン・イフリートATS・R3はマッハ五を超す速度域ではスクラムジェットエンジンとして、エンジン中を超音速で通過する空気に直接水素を噴射し、燃焼させることができた。
「ほいほい。お年寄りの言うことは聞いときましょ」ちなみにマリオンとキャロルの年齢差はたったの二歳である。
「昼半球に入るわよ」マリオンお決まりの年齢ネタを最年長のナターシャは無視することに決めていた。前方の空は濃紺から黒へのグラデーションになり、曲面を描く地球の影の向こうに無色の太陽が昇る。セイレーンの機体も空の色の変化に順応して、その色がマットブラックから菫色に変化し始めていた。
「クロイケン司令、高々度を超高速で接近する物体があります。高度五万五千メートル、速度マッハ十二」クフル・アデンがクロイケンの指示を仰ぐ。
「弾道ミサイルか?」
「ミサイルにしては高度を落とす気配がありません。五分後に上空を通過します」
「怪しいな。警戒を続けろ。情報を防空システムに送っておけ」クロイケンは心に不吉な影がよぎるのを感じた。人工衛星にしては低すぎる。航空機にしては速すぎる。万が一のことを考えると迎撃しておくのが得策だが、通常の艦対空ミサイルで手の届く高度ではない。
「第一次シームルグ攻撃隊、補給のため帰艦します」
クロイケンは左手首のクロノグラフを一瞥した。攻撃開始から約二十分。
「何をもたもたしている、ドーム隔壁の穿孔に火力を集中しろ!」
「水蒸気による視界不良で命中精度が低下しています」
「自律シームルグの限界か‥‥。全攻撃艦に再度ディーヴによる攻撃を指示しろ」クロイケンは飛行士官の方を向いた。
「有人機は出せるか?」
「AIはすでに起動しており、対地第二種装備で待機中です。すぐにでも出られます」
アデン艦長が驚いて振り向く。
「司令、まさか」
クロイケンはすでにシームルグ格納甲板に通じる階段を降りかけている。
「心配するな。ドゥーサン師に叱られるのは俺だ」
死骸に群がるコンドルのように、シームルグは氷に穿たれた巨大な穴に次々とミサイルを撃ち込んでいく。中央司令室に伝わってくる音と振動がしだいに大きくなり、ついには巨大な爆発音とともに氷塊が頭上から降り注いだ。
「隔壁損傷!」
「臨界は?」アンダーソンの額に汗が滲む。
「あと三十二分」
「だめか‥‥」
「あきらめるのが早すぎますぜ。頭のいい人間の悪い癖だ」マーカスは正面のディスプレイのレーダー探知画像を見つめている。南極点の方向から三個の光点が猛烈な速度で接近してきた。
「レーダーに反応!方位一八〇、高度五万五千、識別グリーン」
識別信号から得られた機種の情報が表示される。ディスプレイ上のウィンドウに現れたのは、アンダーソンとマーカス以外は写真すら見たことが無いセイレーンの姿である。
「セイレーン‥‥?」レーダー担当オペレーターは呆気にとられている。その戦闘機は減速しつつあるとはいえ、マッハ七を超す速度で接近しつつあったからだ。
「来たか!」アンダーソンは思わず立ち上がった。
「お待たせしましたかしら、提督」スピーカーからナターシャの声が響く。
「ああ、待ちわびたぞ、存分にやってくれ!」
「いくわよ、みんな」
「ラジャー」
「ほいなっ」
機体下部のエアブレーキを開いてセイレーンは亜音速域まで減速し、左にバンクすると機首を真下に向け、真っ逆さまに急降下を開始した。
「ブースター点火!」ナターシャの指示でロケットブースターに再び火が入る。セイレーンはブースターの加速と重力加速度によって再び音速の壁を突破した。
「いーーーーーーーーーーやっほーーーーーっう」マリオンの絶叫。
「飛行物体コースを変更、垂直に降下してきます!」レーダーをモニターしていたマーリクの当直士官が叫んだ。
「ちいっ!やはりか!全艦対空防御!発着艦を中止して回避行動急げ」アデン艦長が発令した。
浮上中の潜水空母と攻撃艦の垂直発射管から一斉に艦対空ミサイルが発射される。
「クロイケン司令!」
「あわてるな。初弾を回避し次第帰艦したシームルグを対空兵装で再出撃させるんだ」地対空ミサイルを満載してアンタークティックドームに向かっているクロイケンからの指示である。
「お迎えよ!」キャロルの顔を覆うフルフェイスの脳波感応ヘルメットのバイザーの上で輝点が踊る。ヘルメットマウントディスプレイ(HMD)に迫り来るミサイルの数と相対速度が表示された。「対空ミサイル二十八」
「ブースター分離!回避行動!」
セイレーンは加速を続けるブースターを分離し、翼をいっぱいに開いた。後退角マイナス二十四度、最も機動性の高い前進翼形態である。切り離されたブースターユニットはさらに十Gを越える加速度で速度を増し、金に匹敵する高比重のタングステン弾頭は壮絶な破壊力を秘めた質量兵器と化した。空気との摩擦で灼熱したブースターはマッハ二十を越える終末速度で洋上の潜水空母に突き刺さる。
一瞬前まで空母の存在していた場所に巨大な水柱が立つ。続いて爆発。その衝撃は海中のエフセス攻撃艦のソナーマンたちの鼓膜を襲った。
「空母ファティマ、ルルド、グアダルーペ撃沈」レーダーとデータ・リンクをモニターしていた当直士官は、目前の情報が信じらない様子である。
「質量弾頭は第一撃でしか使えん。敵はたかが戦闘機三機だ。残存しているシームルグで要撃しろ」クフル・アデンも自らの心の動揺を押し殺して命令した。マーリクが撃沈を免れたのは単なる幸運でしかない。対地ミサイルランチャーを空対空短距離誘導ミサイルランチャーに換装して次々とシームルグが舞い上がる。
「なーんかぞろぞろと出てきたわよ」
マリオンに言われるまでもなく、彼女たちのHMDには次々と発艦するシームルグのレーダー画像が示されている。三機のセイレーンは下向空中開花から海面上をかすめ、氷山を遮蔽物にしながら水平旋回して体勢を立て直した。
「マリィは潜水空母と攻撃艦をお願い!キャロルは私とハエたたきよ!」
「了解」
「ふぉーい!」
ナターシャとキャロルは急遽発艦したシームルグを挑発するかのように潜水空母上空をかすめると、南に転進し、アンタークティックドームを目指した。追撃するシームルグの群れを後方に従えて海面上十数メートルを音速で飛行する二機のセイレーン、クロトとラケシスの前方にロス棚氷の断崖が迫る。翼と翼を重ね合わせるように飛ぶセイレーンの機体の上下面中心部に半球状の砲塔が出現した。全球面射界を誇る上下二門のレーザーバルカン砲が、後方のシームルグではなく進行方向真正面に照準される。
「発射ァ!」
ナターシャが号令をかけた。脳波制御システムECSを補完するコントロールスティックのトリガー接点から発せられた電気信号が光速でレーザー発振器に伝えられる。耐爆、耐腐食構造のフッ化重水素カートリッジが爆発的に反応し、出力1.2メガワットの赤外線レーザーが氷壁に浴びせかけられた。氷は瞬時に水蒸気に昇華し、水蒸気煙がセイレーンと後を追うシームルグの視界を奪う。ナターシャとキャロルはECMアクティブチャフを散布すると同時に急上昇をイメージした。そのイメージをヘルメットに内蔵されたECSセンサーが検出し、セイレーンは機首を真上に向けて、一直線に上昇した。運動神経を介した信号伝達と筋収縮によるタイムラグのない、瞬間的な機動である。光学的な視界を水蒸気煙で奪われ、レーダーによる電子的な視界もアクティブチャフで失ったシームルグは次々と氷壁に激突し、肉片と金属片となって飛散した。
マリオンの駆るセイレーン、アトロポスは翼端で波頭を切り裂きながら、氷山をぬうように最初のターゲットに接近する。潜水攻撃艦ヒラーの対空防御システムは、接近する敵機が氷山の間から姿を現す一瞬を待ちかまえ、対空レーザーの光の雨を降らせた。しかし、氷山から姿を現したのはセイレーンではなく、マリオンの放った四発の対艦ミサイル・シージャベリンであった。
「こっちからのこのこ突っ込んでいくわけないでしょ、おバカさん」
レーザーをかいくぐった二発のミサイルが攻撃艦の艦橋に命中した時、アトロポスはすでに爆発に背を向けて、次の獲物に襲いかかっていた。
「クロイケン司令、二機そちらに向かいました」クロイケンのヘルメットの中でクフル・アデンの切迫した声が響いた。
「格闘型シームルグで要撃しろ。対地兵装のシームルグは構わず攻撃を続行させるんだ」
「了解」
クロイケンの目前のディスプレイにも急速に後方から迫り来る二つの輝点が示されていた。大型の非核熱反応弾を搭載し低高度を飛行する攻撃型シームルグに対し、追撃する二機のセイレーンはぐんぐんと距離を詰めていた。
HMDに接近する格闘型シームルグが赤い光点で示される。キャロルがセイレーン・ラケシスの進路を変えることなく、視線だけで光点をポインティングすると、超電導磁気ベアリングに支えられたレーザー砲塔が三次元的に回転し、ターゲットを捉える。絞られるトリガースイッチ。格闘型シームルグたちは自らの射程にセイレーンを捉える前にレーザーバルカンによって引き裂かれた。
「前方にシームルグ、攻撃型。足がおそいわ。ミサイルを満載してるみたい」
「そいつをドームに近づけるのはマズいわね。いくわよキャロル」
「了解!」
シームルグのディスプレイ上から味方機のシンボルが次々と消えていく。後方のロス海では空母一隻と攻撃艦二隻がたった一機の戦闘機に撃沈されていた。すでに六隻の艦船が失われている。
「アデン艦長、マーリクを除く全艦船に撤退命令を私の名前で発令しろ」クロイケンが言った。
「クロイケン司令、今何と?」
「撤退だ。これ以上艦を失うわけにはいかん。マーリクも海中で待機。いざとなれば艦長判断で私を残して撤退しろ。この三機の戦闘機はあまりにも想定外のファクターだ」
「しかし、先ほどフォディオ総司令から第三次攻撃を急ぐようにとの命令が入りました。後方待機中の空母と攻撃艦もこちらに向かっています」
それを聞いたクロイケンの顔から血の気が引いていく。
「回線を艦隊司令部に繋げ。総司令と直接話をする」ドゥーサン師の不在をいいことに作戦に口出ししてきたな。クロイケンの苛立ちをシームルグが感じ取り、唸り声とともに機体が震えた。
「その必要はない」フォデイオのしわがれた声が回線に割り込んできた。
「どういうことです総司令。艦隊を全滅させるおつもりですか」
「アストリア計画の阻止はアーモンドアイの至上命令、撤退などもってのほかだ」
「総司令もご覧になったはずです。敵の新戦力は我々の想定外、現状では対応できません」
「艦隊を放り出す司令官の指図はうけん。たかが戦闘機三機、なにを畏れることがある」そのうちの二機がクロイケンの後方から迫り来つつあった。このプレッシャーが遠くアフリカ大陸に届くはずが無い。退路を断たれたクロイケンに残された道はただ一つしかなかった。
「わかりました。ご期待通りにアストリアを氷海に埋葬してみせましょう」
その時、後方警戒システムが警報を発した。シームルグは反射的に回避機動をとる。ほとんど高度の無い状態での水平回避機動であったが、それはセイレーンの発射した複射程空対空ミサイル・アキュリスにとっても同様のハンディであった。ミサイルは次々と氷面に激突し、後方から迫るセイレーンの視界を奪う。
「散開!」ナターシャが叫ぶ。一号機クロトが右、二号機ラケシスが左に旋回したその時、爆煙を突き破ってシームルグが出現した。クロイケンがアンタークティック・ドームから呼び戻した攻撃型シームルグである。シームルグは嘴を開き、雄叫びとともに粒子ビームを発射した。
「ちっ、読まれていたか」その時すでに二機のセイレーンはすでに大きく迂回し、左右からクロイケンを挟撃する体勢を取りつつあった。クロイケンは呼び戻したシームルグを二派にわけて要撃に送り込む。キャロルは視線でターゲットをポインティングし、レーザーバルカンをシームルグに叩き込んだ。
「違う。違いすぎるわ」キャロルの脳裏に二年前の記憶が蘇る。F-22と異星人のテクノロジーの注ぎ込まれたセイレーンの間の性能差はあまりにも大きい。あの時、この機体があれば‥‥。
前方、真っ白い氷の大地の上を滑るように飛ぶ機影をキャロルの瞳が捉えた。次の瞬間赤い輝線が残像のように視野を切り裂く。ナターシャが反対側からシームルグを狙って発射したレーザーバルカンの光跡である。回避機動をとるシームルグ。コックピットが太陽光を反射する。
「まさか、そんな」キャロルを再びフラッシュバックが襲う。有人シームルグ。
「キャロル!」ナターシャはキャロルの一瞬の心のスキを見逃さない。現実に引き戻されたキャロルはアキュリスを発射、すかさずレーザーバルカンを連射した。
左右からのレーザー砲による挟撃。対地ミサイルを満載したシームルグは悲鳴をあげつつ回避する。後方警戒システムはその間、ミサイルの接近に対し警報を発し続けている。これはあの時と同じ‥‥。
「キャロル・ランバート!」クロイケンの記憶が呼び起こされた。
クロイケンはミサイルを引き付けるために高度を上げつつ反応フレアを左右に発射した。視界を奪われるナターシャとキャロル。その間にクロイケンはエンジン出力を一時的に過負荷をかけるブーストモードにしてセイレーンを引き離す。周囲を固める自律シームルグ編隊。シームルグ達は身を挺してセイレーンの攻撃からクロイケンを護る。セイレーンが致命弾を命中させることができないでいる間に、グラウンド・ゼロが目前に迫る。クロイケンはあらかじめ設定された目標に向けて全ミサイルを発射した。
「後方から巡航ミサイル!」キャロルが叫ぶ。増援の攻撃艦が発射した巡航ミサイル・ディーヴがアンタークティック・ドーム目指して、シームルグとセイレーンを追い越していった。
「バカなことを!」クロイケンはシームルグを反転させながら叫んだ。
「手を出しちゃだめ!」巡航ミサイルを追撃しようとしたキャロルをナターシャが引き止めた。キャロルはトリガーを握る力を緩める。
クロイケンの放った空対地ミサイルに一歩先んじてディーヴがグラウンド・ゼロに到達した。ディーヴが巻き上げる爆煙と水蒸気が空対地ミサイルの照準システムを撹乱し、アンタークティック・ドーム内に突入するはずであった対地貫通弾頭と非核熱反応炸薬は穿たれた穴の直径を広げたにすぎなかった。クロイケンが決死の単独行で切り開きかけた勝利への道は、味方の妨害によって閉ざされてしまった。
クロイケンに悔やんでいる暇は無かった。シームルグは不要になったランチャーを投棄すると、反転してグラウンド・ゼロからの退避を試みる。立ちはだかる二機のセイレーン。
「ナターシャ!こいつを逃がさないで!」
「キャロル、あなた‥‥」激情に我を失う氷の女神。出会って二年、ナターシャが初めて見る姿である。
「あいつなのよ!あいつ!」キャロルの声は震えている。ラケシスと有人シームルグはすでにシザース状態に突入していた。
「落ち着きなさい!感情に流されて勝てる相手じゃないわ!」
返事は無かった。翼をいっぱいに広げて急旋回するシームルグ。最小回転半径では有機体であるシームルグに分があった。キャロルはいったん上昇してオーバーシュートを回避すると、反転して追いすがる。連射されるレーザーバルカン。砕け散る氷。
セイレーン一号機は体勢を立て直すと、二号機の援護に向かおうとする。自律シームルグ四機がセイレーンの進路に割って入った。
「邪魔しないで!」
レーザーバルカンで引き裂かれる先頭の二機。後続の二機が発射した粒子ビームがセイレーンをかすめる。ブレイク。ナターシャの視界からキャロルが消えた。
「キャロル!」
7
「攻撃が止んだ‥‥」マーカス副司令が間接照明と空調装置の並ぶ中央司令室の天井を見上げた。
「被害状況は?」アンダーソン司令が尋ねた。
「最後の攻撃でドーム外殻に亀裂が入りました。極めて危険な状況です」
「エフセス艦隊は?」
「潜水空母五隻、潜水攻撃艦四隻が沈没もしくは行動不能、シームルグの七〇%が撃墜されました」
アンダーソンの背後でマーカスが小さく口笛を吹いた。
「たった一小隊、戦闘機三機でか‥‥噂には聞いていたがこれほどとは‥‥」アンダーソンも驚きを隠しえない。
「レーザー発振器の最終調整が完了しました。ジェネレーター出力八〇%」アンダーソンが待ち望んだ報告が機関担当オペレーターよりもたらされた。
「その言葉、待っていたぞ。レーザー照射開始!」
「さあ。一発で点火してくれよ」マーカスが言った。
ケイ素ー炭素ファイバーによって強化されたバナジウム合金炉内の重水素ペレットに、十六基の発振器で生み出された出力七京ワットのエキシマレーザーが四方から照射された。六億五千万度の高熱でプラズマ化した重水素ペレットは爆縮し、中心部のプラズマ密度が急上昇する。その圧力は重水素原子間核力がクーロン力を凌駕するまでになり、重水素原子が融合して三重水素原子とヘリウム3原子が生み出された。さらにその三重水素とヘリウム3は重水素と連鎖的に反応し、最終生成物のヘリウムとなる。膨大なエネルギーという副産物とともに。
「一番核融合炉臨界です!出力二ギガワット、変動率二パーセントで安定しています!」中央司令室内に歓声とハイタッチの音が響き渡った。
「よくやった!外部電力を遮断、ドームを基盤から離床させる」そう言いながらアンダーソンも右手を差し上げて背後のマーカスと握手を交わした。
ルーズベルト島上に固定されたアンタークティックドームは、ロス海に向かって年間約五百メートル移動する氷床中でその位置を維持するため、外殻に発熱素子が埋め込まれ、ドーム周囲の氷を溶かす構造になっていた。今、そのルーズベルト島とのジョイントが爆発ボルトによって切断され、巨大なアンタークティックドームはそれ自身の浮力と上部と底部の水圧差によってゆっくりと氷床内部を上昇しはじめた。
「氷床面まで四分三十秒」
「反重力リアクター始動準備。余剰電力で二番炉の臨界を急げ」アンダーソンはそう言うと、タッチパネルを操作して外部との通信回線を開いた。
「アレクサンドルフです」呼び出しにナターシャが応答した。
「アンダーソンだ。フェイツの諸君、よくやってくれた。これよりアストリアは浮上する。すみやかに上空より退避してくれたまえ」
「了解」
ナターシャの前方で、セイレーン・ラケシスとクロイケンのシームルグの航跡が交錯する。それは一見無秩序なドッグファイトの様相を呈していたが、ナターシャはその裏のクロイケンの作戦を見抜いた。レーダーの探索レンジを最大にするナターシャ。ラケシスを包囲するように接近する増援のシームルグ編隊。
「クロトよりラケシス、追撃を即座に中止。キャロル!戻りなさい!」
応答は無かった。
「キャロル!」
ナターシャは二機を引き裂くようにレーザーバルカンを発射した。キャロルはそれを無視して執拗にクロイケンを追う。すでに対空ミサイルは撃ち尽くし、レーザーバルカンのカートリッジも残り少ない。キャロルはHMDの視線追従ターゲットにシームルグを捉え、トリガーを絞る。シームルグの翼端をかすめるレーザー光。その時、セイレーン・ラケシスの警戒システムが警報を発した。
キャロルは我に返った。四方から接近する対空ミサイル。すでにラケシスはシームルグたちに包囲されていた。キャロルはエンジン出力を最大にして回避機動をとる。フレア散布。それでもなお四発のミサイルがロックオンを堅持してセイレーンに追いすがる。ナターシャは後方から回り込むとそのうちの二発を掃討する。残ったミサイルとラケシスの距離がぐんぐん縮まる。キャロルは最後の瞬間まで回避機動をあきらめなかった。ナターシャの視界のなかでセイレーンとミサイルの噴射炎が重なる。
爆発。
「ちょっと私がいないとこれだから、年寄りは世話がやけるわね」
「マリィ?」ナターシャが聞くまでもなかった。太陽を背にしてセイレーン・アトロポスがクロトとラケシスをかすめていく。背後でシームルグが二機血祭りになった。
「他に誰がいるってゆーのよ?」
「あなた機動艦隊の方は?」
「五隻も沈めたのよ。とっくにミサイル切れだわ。鬼の隊長殿もまさかレーザーバルカンで空母を沈めろなんて言わないでしょ」
「やってできないことはないと思うけど。まあいいわ、ご苦労さま」
マリオンは声を出さずに悪態をつくと、コックピットの奥深くで右手の中指をつきあげた。ナターシャはマリオンの無言の抗議を無視すると、キャロルのセイレーンに注意を向けた。すでに有人シームルグの姿は肉眼でもレーダーでも捉えられない。他のシームルグも撤退を開始していた。目標を失って茫然とする二号機ラケシス、そしてキャロル・ランバート。
ナターシャとマリオンは左右からラケシスを挟む位置に機体を誘導した。コックピットの外からも肩を落とすキャロルの姿が見て取れた。
「キャロル、大丈夫なの?」
返事はない。見たところ機体の損傷は無さそうであった。
「アストリアが浮上するわ。退避するわよ」
一号機クロトが左にバンクし、旋回を始める。キャロルはウィングマンとしての本能で無言のまま隊長機に追従した。
8
度重なる爆撃によって穿たれた巨大な氷穴を中心として、ぶ厚いロス氷棚に亀裂が入った。大地が崩れるような重低音と低周波振動を発しながら亀裂は南北方向にどんどん広がっていく。さらに氷穴から無数の小さな亀裂が放射状に発生し、やがてその中心に銀白色のドームが姿を現した。ドーム上部の構造骨格を繋ぐ爆発ボルトが点火し、高張力複合ファイバー樹脂製のドーム外殻が無数の破片となって舞い散った。
「上空クリアーです」外部の状況を映す司令室前方の巨大なメインディスプレイに南極の青空が広がった。
「反重力リアクター出力百パーセント」一瞬、かすかな振動とともにアンダーソン達を浮遊感が襲う。核融合炉から供給される二ギガワットの電力が高次テスラ超電導コイルに注ぎこまれ、重力場共振によって重力子と反重力子が誘導される。反重力子は艦体下部の反重力場発生装置によって反重力場に変換されて、七十二万トンの重量を中和した。
「鉛直方向重力ニュートラル、重力遮蔽に成功」一方の重力子は重力場に転換され、重力遮蔽された艦内に一Gの人工重力を供給した。アンダーソンはその事実を確認するかのように足下を見つめた。自分は今、地球の重力ではなくアストリア内の人工重力場に引かれている‥‥。
「出力百十パーセント、浮上開始」
アストリア計画が開始されて三年余り、今、アンダーソンが待ちに待った瞬間が訪れようとしていた。艦体下部に形成された反重力場と地球重力の反発力により、巨大な空中要塞が静かに、空に舞い上がる熱気球のようにゆっくりと上昇を始めた。理論上重量の制約なく反重力場を形成できる反重力リアクターは、その代償として莫大な電力の供給を要求する。二つの要因から導き出された最良の妥協点が、全長千二百六十三メートル、総重量七十二万トンという途方もない大きさであった。無数のパネルで構成された鯨を思わせる中央構造体の中心部では、アストリアの心臓とでも言うべき三基の核融合炉が、反重力リアクターのテスラコイルにエネルギーを供給し続ける。さらに中央構造体は、戦闘機にして九十機以上が格納可能な広大な密閉式甲板と、五百人を超える乗組員たちの居住施設までもその腹部に内包し、補給なしで三十日以上の軌道上哨戒が可能であった。中央構造体の左右には斜め下方に張り出すような形で扁平なトンネル状の発着甲板が張り出している。長さ九百メートルの発着甲板は中央構造体周囲の空気乱流を避けるため、艦載機用のエレベーターシャフトを兼ねた三本のアームで固定されている。甲板は着艦用と発艦用、上下二層に分離され、緊急時に際しては比類無き艦載機の展開・収容能力を発揮する。中央構造体の上部最後方、艦体のすべてを見渡せる位置には、高さにして四十五メートル、十二層構造の艦橋があり、その下から三層目、アストリア全体では下から五十二層目にアンダーソンたちのいる中央司令室が置かれていた。
艦橋の右側をセイレーンがかすめるように通過する。単調な南極の空と大地の中で、フェイツの三人は自分たちの駆るセイレーンと較べることで初めてアストリアの大きさを実感することができた。
「ほえーーー」声をあげたのはマリオン。あとの二人はその想像をはるかに超えた威容に言葉もない。
「状況報告」
マーリクの格納甲板から発令所に駈け上がってきたクロイケンが息一つ乱さずに尋ねた。
「現在アストリアは高度千フィート、艦首をこちらに向け上昇中。上昇角七十二度、こちらに接近中です」言い終えてからクフル・アデンがディスプレイから目を上げた。
「潜航可能な艦艇はすぐに潜航しロス海から脱出。生存者の救出は?」
「ほぼ完了しています。潜航不能艦の乗員の移乗も完了しました。破棄艦船は二十五分後に自爆します」
「よくやった。完璧なフォローアップだ、アデン艦長」
「ありがとうございます」
「無人偵察機を発艦させろ。アストリアに関する集められる限りの情報を収集する」
クロイケンはディスプレイに映し出されたアストリアの巨大な姿に目をやった。
「本艦も撤退する」超望遠画像のゆらめきを通してクロイケンはアストリアの艦体底部のハッチが開くのを見て取った。即座にクロイケンはそれが意味するものを悟った。
「急速潜航!」
クロイケンが叫んだ。
「急速潜航、バラストタンク注水、ダウントリム最大!」アデン艦長が指示を出し、潜航士官と操舵士官が復唱する。各バラストタンクのベントが開かれおびただしい量の海水が注ぎ込まれる。マーリクは艦首を海底へ向け、最大潜航角度二十五度で潜航を開始した。
「三番炉臨界です」
アストリアの三つの心臓すべてに火がはいった。七.五ギガワットの電力を手に入れた女神は翼を広げ、剣を振りかざす。
「三番炉出力をポジトロンチャンバーへ。敵残存艦隊をポジトロン・キャノンで掃討する」アンダーソンが言った。三番核融合炉の全出力が注ぎ込まれた円環加速器で亜光速まで加速された電子ビームが超伝導ウィグラーで強制的に蛇行され、ギガ電子ボルト級のエックス線が発生した。タンタル・ターゲットに入射したエックス線は超高エネルギー光子となり、陽電子発生装置中で電子・陽電子対が生成される。
「ポジトロン・キャノン発射準備完了」
「照準、ターゲット・アルファ」正面のディスプレイにはロス海の残存エフセス機動艦隊の状況が表示されていた。最も南、すなわちアストリアに最も近い艦のシンボルが赤く点滅する。小さく表示される艦名識別コード、SC01マーリク。
「照準、ターゲット・アルファ、ロックオン」
「発射!」
「発射!」
真空チャンバー内に蓄積された陽電子が直線加速器で加速され、直径2.3メートルの砲口から、収束ビームとして大気中に放たれた。瞬時にビーム表層の陽電子は大気中の電子と接触し対消滅反応を引き起こす。その結果放出されるエネルギーがすさまじい発光となってビームの光跡を空中に描き出した。
それはマーリクの頭上から巨大な鉄槌が振り落とされたかのようであった。クロイケンは突然、宙に浮いたかと思うと、次の瞬間、発令所の床に叩き付けられた。轟音の中、艦はきしみ、電気回路のスパークと、内殻接合部より噴出する海水がクロイケンに降り注ぐ。「深度維持!メインタンクブロー1」アデン艦長の怒声が響く。クロイケンは潜望鏡シャフトにしがみつくようにして立ち上がった。血の海で泳いでいるような錯覚を覚えさせる非常灯の光の中、クロイケンは自分の足下を確かめる。艦は水平を維持している。なんとか沈没は避けられそうだ。
「状況報告!」クロイケンが言った。
「深度一〇〇で浮力は維持されています。航行に支障はありません」
「浸水は止まりつつあります。原子炉および機関部も無事です」その言葉を裏付けるかのように発令所の照明が回復した。
「格納甲板でシームルグたちがパニックをおこしています」
「催眠ガスで眠らせろ」クロイケンが絞り出すような声を出した。間を置いてクロイケンの全身を衝撃による痛みが駆け巡っていた。
「今の攻撃はなんだ?荷電粒子砲か?」クロイケンが技術士官に尋ねる。
「いえ、対消滅反応を示す高強度のガンマ線が検出されています。ビーム主成分は陽電子と思われます」
「陽電子砲?」GSFは艦載陽電子砲を開発したのか。エフセスは戦略的な優位だけでなく技術的な優位さえも失おうとしている。
「脱出するぞ、アデン艦長。戦略を考え直す時が来たようだ」
「エフセス艦隊の残存艦はすべて潜航しました」
「潜られるとさすがのポジトロン・キャノンも、効果半減どころか無効ですからな」マーカスが言った。
「攻撃を中止。出力一〇〇、高度を維持」アンダーソンの命令で、アストリアの上昇が一時的に停止された。「さあ、マーカス、われらが女神をお迎えしよう」
「左舷着艦甲板を開け。フェイツを収容する」マーカスはニヤリと白い歯を見せると、中央指令室に響き渡る声で指示を出した。アンダーソンは受話器を取り上げ、タッチパネルを叩いてフェイツ全員との通信回線を開いた。
「諸君、ご苦労だった。艦内に収容する。左舷着艦甲板に後方より進入してくれたまえ」
「了解」三人のハーモニー。
「大丈夫ですかね」マーカスが言った。航空母艦の着艦に準ずる操縦を要求するアストリアへの着艦である。いずれも空軍出身のフェイツを、海軍出身のマーカスが不安に感じても無理はない。
「ご心配なく、マーカス副司令。シミュレーションを何度も繰り返しましたから」ナターシャのクールな声が返ってきた。マーカスは苦笑とともに肩をすくめた。
「セイレーン、フェイト1、ボール」着艦用光学誘導システムの灯火を視認したナターシャがコールした。空中に静止したアストリアの後方から完璧な飛行経路でセイレーン一号機が接近する。翼は後退角九十度の最大揚力ポジションとなり、着艦に備えて対気速度を百五十ノットまで落とした。
「ラジャー、ボール。OK、クロト、グライド・パスに乗りました」艦載機の着艦の最終誘導を担当するアプローチ・オフィサーが緊張した声で告げる。彼ら発着艦要員にとっても、艦載機の誘導は、ぶっつけ本番、初めての体験である。
ナターシャの前方で巨大な二層構造のトンネルがしだいにその大きさを増す。HMD上では仮想のグライド・パスがその光景にオーバーレイされ、セイレーン・クロトを上層の着艦甲板に誘導する。
「あと〇・五マイル、そのまま進入してください。重力境界線まであと五秒」
「ありがとう」ベテランパイロットの範疇にはいるナターシャですら、グローブの中が汗で滲むのが感じられた。一瞬、セイレーンの機体が浮かび上がる。ナターシャは反射的に着艦姿勢を維持しようとする自分を必死で押さえ込んだ。これは地球重力からアストリアの人工重力に移行する重力境界線を通過する際の錯覚であり、実際には機体は浮かび上がったりはしていない。ナターシャの右頬を照らし続けていた朝の太陽がアストリア中央構造体で遮られた瞬間、セイレーン・クロトは着艦甲板の長大なトンネルに飛び込んだ。主脚が甲板に接触するのを待って、ナターシャはスラストリバーサーを開き、スロットルをミリタリーパワーに入れた。非接触式の電磁拘束装置と逆噴射によって、クロトは約三百メートルで静止する。ナターシャは前輪を操舵して機体を中央エレベーターへと誘導した。
斜行エレベーターが三つの大気圧障壁を抜けてセイレーン・クロトを三十二秒で与圧された中央構造体の格納甲板へと運び上げる。ナターシャは、がらんとした格納甲板の中を、艦載機誘導システムの表示にしたがって自機をタキシングさせ、クロトの機体コードFS101がマーキングされた駐機ブースに機体を格納する。ブースで待つ誘導員のハンドシグナルに従ってナターシャは、T字形の駐機ポイントに前車輪を数センチの狂いもなく重ね合わせた。誘導員が右手で自分の喉を切るしぐさをし、ナターシャはエンジンを停止させた。すぐさまセイレーンのAIが自己診断プラグラムを起動させ、機体各部に異常が無いかをチェックし始める。ナターシャが射出座席の安全ピンを差し込み、ECSのケーブルを抜いてヘルメットを脱いでいると、ラケシスとアトロポスが後を追うようにそれぞれエアターボ・スクラムジェットエンジンの甲高いエンジン音とともに102、103駐機ブースに滑り込んできた。ナターシャはラケシスとアトロポスのエンジンが停止するのを待って、おもむろにキャノピーのロックを解除し、ハンドルを軽く押し上げた。キャノピーが開くと同時に歓声の渦がナターシャを襲う。
「!」
ナターシャは驚いてあたりを見回した。格納甲板に突き出たテラスとキャットウォークを埋め尽くす甲板要員たちが、拍手と歓声で三人を出迎えていた。ナターシャは右手をあげて歓声に答えると、コックピットの左側、カナード翼の前部に格納されているラダーを展開し、甲板に降り立った。なぜか一瞬遅れてどっと沸き上がる歓声と口笛。不信に思ったナターシャが振り返ると、そこには満面の笑みで投げキッスを連発するマリオンの姿があった。その前をこわばった表情でうつむき加減で歩くキャロル。この時の対照的な姿が、以後の乗組員たちの間での二人のイメージを決定づけることになる。氷の女神キャロル・ランバートと、アストリアのアイドル、マリオン・ブライトマイヤー。
9
格納甲板に隣接するブリーフィングルームに乾いた音が響いた。キャロルの表情が一瞬、苦痛にゆがむ。衝撃でたれさがった前髪を通して見える真っ白な左頬がみるみる紅潮し、ナターシャの右手の形がくっきりと浮かび上がった。
「さっきのは一体何のマネ?説明して頂戴!」その表情はまさしく味方も畏れるフランカーの女王そのものであった。キャロルは唇を真一文字に結んで、じっとナターシャの背後を見据えている。さすがのマリオンも何も言えずただじっと二人の様子を見つめているだけである。
「答えなさい!」
「‥‥ごめんなさい」キャロルが絞り出すような声で答えた。
「私は恨みをはらせとは言ったけど、命令を無視して勝手な行動をとっていいなんて言ってないわ。そんなことは軍人として言うまでもないことよ!」
「‥‥」キャロルは何も答えなかった。うつむき、唇を噛みしめている。
次の瞬間、さらに二発の平手打ちが飛んだ。粘膜が切れたのか、キャロルの唇に血が滲む。
「ナターシャ!」たまらずマリオンが叫ぶ。
「あなたはひっこんでなさい!」
「はい」マリオンは言われた通り、手近の椅子に腰をおろした。
「黙っていたら済むと思ったら大間違いよ。反省なんかいらないわ」
「‥‥責任をとるわ」
「責任?」それを聞いたナターシャの表情がさらに険しくなった。「やめるとでも言うつもり?」
「‥‥」答えはない。
「甘えてもらっちゃ困るわ。私たちにやめるという選択肢なんかないのよ。セイレーンを操縦できるのは世界で私たち三人だけ。何があっても続けてもらうわよ」ナターシャは戦闘で乱れた髪をたくしあげた。「自分から死ににいったりすることなんか絶対に許さないから。必ず生き残って戦い続ける、それが私たちの使命なのよ」
ナターシャの視線がマリオンにも注がれた。マリオンは即座に背筋をのばし、ごくりとたまった唾液を飲み込んだ。ナターシャは再びキャロルに視線を戻す。キャロルは何も言わない。その目は前髪に隠れて見えなかったが、腫れた頬を涙がつたうのは見て取れた。
「座りなさい」ナターシャが静かに言った。
キャロルはうつむいたまま静かに腰をおろした。ナターシャはデスクに腰をかけ、ラップトップ端末を引き寄せて開くと、名前とPINコードを打ち込んだ。ブリーフィングルーム正面のスクリーンに灯が入る。
「まだあなたには見せるつもりはなかったんだけど‥‥仕方がないわね」ナターシャは自分の個人フォルダにアクセスすると、階層の下の方に隠されたファイルを開いた。
うつろにスクリーンを見やるキャロルだったが、そこに投影された顔写真を見た瞬間、眼を見開き、弾かれたように立ち上がった。マリオンはキャロルの反応から、その銀色の長髪の男の写真の意味するところを察した。
「レスター・アデム・クロイケン、またの名をバルカンの虎。コソヴォ独立戦線の勇士」ナターシャが淡々と続ける。「セルビアとマケドニア、そしてNATOを相手に独立戦争を戦い抜き、ついにコソヴォの独立を勝ち取った英雄。コソヴォの鉱物資源を狙うダハーブの支援があったとはいえ、侮りがたい敵であることは間違いないわ」
キャロルは何も言わない。じっとスクリーンを見つめている。
「どう?仇の正体がわかって少しは落ち着いた?」遠慮のない言葉がキャロルに浴びせられる。「怒りや復讐心で勝てる相手じゃないことはわかったでしょ」
キャロルが前髪をかき上げた。眼も頬も真っ赤に充血している。鼻をすすり、小さくうなずいた。
「キャロル」マリオンが絶妙のタイミングで声をかけた。自分のハンカチを玉にしてキャロルにむかって投げる。
「ありがと」
キャロルは涙を拭いた。笑顔がこぼれる。
「私が悪かったわ。あなたたちを危ない目に合わせて本当にごめんなさい。もう二度とこんなことはしないわ。約束する」
ナターシャも微笑んだ。キャロルは繊細だ。この繊細さ故に彼女は強い。この才能を生かすも殺すも上官の腕次第だということを、ネリス空軍基地の病院以来ナターシャは感じていた。
「オーケー、話は終わり」ナターシャはスクリーンを消し、ラップトップを閉じた。「エフセスの追撃がくるわ。用意しときましょ」
マリオンが大きな目をさらに見開いた。
「冗談!あんなにコテンパンにやってやったのに!」
「今のアストリア、艦載機はセイレーン三機だけ。チャンスよ。並の指揮官ならこっちが体勢を整える前に攻撃してくるはずだわ」
「クロイケンは並じゃないんでしょ」マリオンが食い下がる。頭はすでにシャワー室に飛んでいた。
「エフセスの指令系統は一枚岩じゃない。さっきのちぐはぐな攻撃をみればわかるわ。クロイケンは敗走中、別動隊がくるわよ」そう言いながらナターシャは装具の点検を始めた。マリオンは両手を頬にあて、唇を突き出す。不服のポーズ。
「そうそう、それにこの艦、内装工事がまだ途中だから、シャワーは出ないわよ」
ナターシャが言った。真っ赤なウソである。
「慎んで四文字言葉を隊長殿に捧げるわ」マリオンが言った。
ロッカールームには彼女たちがセイレーンに積んできた最小限の身の回り品を入れたバッグが届けられていた。三人は汗でぐっしょりと濡れた下着を取り換えると、再び格納甲板へと降りていった。