インターバル
インターバル
燃え盛るような紅葉で秋一色に染まったシュール・プロクレティヤの峰々を越えてきた冷たい空気が、ミトロビッツアの町に冬の気配をもたらす。空が高い晴天の土曜日、レスター少年は朝からイバル川の北側のセルビア人街で暮らす父方の祖父母の家でリンゴの収穫の手伝いだった。自転車のカゴでは祖母自慢のアップルパイ、母への土産が道の凹凸にあわせて踊っている。
橋にさしかかった。ミトロビッツアのセルビア人街とアルバニア人街を南北に分断するイバル川にかかる橋は、コソヴォの民族対立の象徴であった。一九九九年五月のNATOによる空爆停止以来、橋はKFOR(コソヴォ国際安全保障部隊)の名のもとに国連軍の兵士たちが警備していたが、世紀を越えて、両民族の間に内戦以前の共存の心が戻りつつある今、彼らにも以前のような緊張感はなかった。レスターは兵士たちに右手をあげて、今日二回目の挨拶をする。もう顔見知りの間柄だ。彼らが肩から下げる自動小銃も気にならなくなった。なんにせよ平和が戻るのは良いことだとレスターは思う。レスターの父親、セルビア人のステファンがKLA(コソヴォ解放軍)のゲリラに惨殺されたのは五年前。決してそのことを忘れたわけではない。ただ、残されたアルバニア人の母サーシカと混血児レスターに対する人々の冷たい迫害と暖かい援助は、単純な怨念の図式を越えた概念をレスターに植え付けていた。
橋を渡るとアルバニア人街だ。モスクの塔からはいつものようにコーランの朗読が聞こえてくる。バザールにも活気が戻ってきた。だが、人々をさらに活気づかせているのは一ヶ月後にせまったエフセス教団のドゥーサン師の来訪だ。レスターには宗教のことはよくわからなかった。確かに母親といっしょに一日五回の礼拝はするし、年に一度は断食もする。だが、半分はセルビア正教の血の流れるレスターにサーシカはイスラムの生活を無理強いすることはなかった。聞けばエフセスというのは、キリスト教とかイスラム教とかをひとまとめにしたすごい宗教らしい。二つの宗教が交じり合い対立するコソヴォのために、そしてアルバニア人とセルビア人の間に生まれたレスターのためにあるような宗教じゃないか。レスターの回りにもややこしいことが厭でエフセスに改宗した人間が結構いる。みんながエフセスになったら戦争がなくなるのかな。ドゥーサンという人がやってきたらぜひ会いに行こう、話を聞きに行こう、とレスターはひそかに心に決めていた。
石畳を自転車は駆け降りる。サドルに響く小刻みな振動が心地よい。角を右に曲がるとレスターの家だ。大好物のアップルパイを見た時の母の表情が目に浮かぶ。みんながサーシカを美人だという。レスターもそう思っていた。友だちのお母さんでサーシカほど綺麗なひとは他にいない。その綺麗な顔がアップルパイでもっと綺麗になる。ペダルをこぐ足に力がはいった。
家の前に車が停っていた。白い四輪駆動車、ランドクルーザー。確か日本製だったと思う。どんな国かは知らないけれど、戦争とは無縁の国だそうだ。レスターにはそんな国があることが信じられなかった。ドアにUNと大きな字で書かれている。国連軍の車だ。僕の家に何の用だろう。いつまでも偉そうに人々を指図する国連の人間がレスターは嫌いだった。コソヴォには平和が戻りつつあるんだ。でもそれは国連なんかのおかげじゃない。僕たちが自分でつかむ平和だ。少しはエフセスのおかげかもしれないけれど、
車はレスターの家の門の前にぴったりと横付けされていた。まるで人の出入りを拒んでいるかのように。自転車なんて通れるわけもない。仕方がないのでレスターは銃弾の痕が残る煉瓦の塀に自転車をもたれかけさせると、パイの入った箱を両手で頭の上にかざし、体を横にしてバンパーのすき間から家に入った。
静かだ。国連の連中はどこにいるんだ。うちに用があるんじゃなかったのか。お母さんはどこだろう。そろそろ夕食の支度を始めてるころだ。リビングの窓が開いていた。声が聞こえる。お母さんの声だ。なんだか苦しそう、うめき声みたいだ。病気かな。今晩のごはんは僕が作ろう。僕だってパスタぐらい作れる。
レスターは窓から室内を覗き込んだ。最初に眼に飛び込んできたのは、真っ白な臀部。母のふくよかなお尻なんかじゃない。筋肉質な男の尻。上下に律動する尻。その両脇に天井にむかってまっすぐ伸びる細い足、ピンクの靴下、去年の冬にレスターがサーシカにプレゼントした靴下だ。つま先が男の動きに合わせて震える。男がサーシカの背中に手を回し、上半身を起こす。グリーンの国連軍の軍服、下半身は裸だ。母の顔が見えた。口に詰め込まれた白い下着。泣いている。母が泣いている。
母が泣いている。
レスターの頭の中が真っ白になった。
「お母さん!」
男が振り返った。アメリカ人? フランス人? どうでもいい。レスターは窓を飛び越えた。目標はソファーの上、男の脱いだズボン、ベルト。男がこっちに向かってきた。下半身で男根が上下に脈打つ。間抜けな姿だ。レスターはベルトのホルスターから拳銃を抜いた。プラスチックの感触。グロックだ。戦争の中で育った少年、拳銃の種類や撃ち方くらい熟知している。スライドを引く。男が覆いかぶさってきた。レスターはトリガーを絞った。もう一回、さらにもう一回。軍事教練で教わった通りだ。男が背中から床に崩れ落ちる。絨毯が赤く染まっていく。
レスター・クロイケンの耳に母のすすり泣く声が聞こえてきたのは、それから一分以上たってからのことだった。