86話 悲しい思い出
安全な水峰寺に戻った後も、紗羅が泣きやむことはなかった。
彼女にとって、それほど辛く悲しい過去があったのだろう。
こんな時、私はどうすればいい?
そっと温かい言葉をかけてやるべきか? それとも、肩を抱き寄せて温もりを分けてやるべきかか? でも、私達は彼女の過去を知らないんだから、何もせずに見守ればいいのか?
頭脳の歯車をフル回転して、私は最善の選択を探し出そうとするが、どうしてもいい答えは見つからない。どうしても炎の海が目の裏側に貼り付いて、頭から離れない。
一矢達はさっきの光景をほんの少ししか見ていなかったので、紗羅が泣いている理由が全く分からず、慌てふためいている。彼らには、まだあの事を言わない方がいいだろう。
結局何もすることができないまま、私は立ち竦んでいた。今日はそのまま家に帰って、静かに魔法の練習を始める。世羅は炎の中へ飛び込んで行ったから、ひとりでは練習ができないという一矢とも一緒。気分を紛らわすために、明日も普通に生活できるように、私達は指先に魔力を集中させていた。
叔母さんが遠巻きで心配する中、お通夜ムードで魔法の訓練を続ける私達。さっきから世羅の事が心配で仕方なかった私は、一矢の魔法をくらって怯むアレンに、そっと耳元で問いかけた。
「ねぇアレン、世羅は無事に帰ってくるかな」
「心配しないで雪菜、師匠ならあんな事じゃ死なないよ。もしもあの魔物達が"奴"の軍でなければ、ボロボロになって帰ってくることもないはず」
「その"奴"って、世羅が言ってた"ヴァイス"って人?」
「"そいつ"は人間じゃないさ、満さんの体を乗っ取った悪魔だ! その身体で霊奈とか桜さんとか、とにかく沢山の人を殺していったんだぞ? 生き残った人々の心さえも傷つけて、"アイツ"が消滅した後でも許せないんだよ……!」
「ら、雷華さん、落ち着いてくださいよ」
「え? あ、あぁ、ごめん。ついカッとなって……」
魔法の練習中、私は世羅の安否と"ヴァイス"という名前の人が気になってアレンに色々と聞いていた。紗羅はまだ部屋の隅で泣いているので小声になりながら。
私が"奴"の事を聞き始めた途端、雷華さんは怒りのこもった声でその事をつぶやいていた。それほどに許せない、酷い奴だったんだろう。だって、あの雷華さんを怒らせてるんだもの。それでもすぐに気持ちを切り替えられる雷華さんは、場の空気を和ませるのが得意なのか……
ちなみに、雷華さんが"ヴァイス"の事を悪魔だと言っていたが、それは単なる例えであり、本来の悪魔は世界征服よりも、人の絶望の魂を喰らう望みの方が大きいらしい。そういうことで、"ヴァイス"は悪霊と言った方が正しいと考えられる。まぁ、どっちにしろタチが悪いが…… 玄関前に塩でも置いておこうか。
それにしても、明日まともに人と接する事ができるだろうか。今日の事が気になりすぎて、ルシア達を軽くあしらう事がないようにしないと。
……気をつけないといけないな。




