41話 湖面の共鳴
足元が浮つく感覚の中、静かに目を開く私の前に広がったのは、見覚えのある小さな蓮の湖。確かここは、亜瑠斗さんに出会った喫茶店の夕霧や、一矢の家の近くにある、大きな敷地の寺の中だ。この寺には水峰寺という名前が付いており、近所のお年寄りや子供達はよくここに訪れている。特に遊具と言えるものはなく、趣のある石畳や植物達、敷居の奥にある謎の石垣くらいしかないのだが、それがいつの間にか子供達の遊び場になっていた。私もよく、澪達とあの石垣によじ登ったものだ。
西の空の僅かな橙色を見る限り、恐らくこの夢の中の時刻は夕暮れ。本来蓮の花が咲くのは夏頃の早朝だけなのだが、この白い花は夢だからこそ見られるものなのか。春風に揺れる蓮の花をぼーっと眺めていると、靄のかかった頭の奥で、もうひとりの私の声が聞こえた。
『そっちに行っちゃいけないよ』
優しそうな口調の奥に滲み出た、氷のように冷たい背後の視線。自分の頭上に鋭い氷柱が落ちてきそうな、そんなどうしようもない胸騒ぎがして、私の身体はぴくりとも動かなくなる。でも、このままでは背後の"何か"に殺されてしまう、永遠の闇に葬られてしまう。ならその声の言うことに従わず、目の前の湖へ飛び込めば救われるかもしれない。金縛りの恐怖に怯える中、こんな不思議な案を考えついた私。今の私はその考えを疑うことなく、冷たい地面を蹴り上げて、静かな湖面に大きな水紋をつくった。
同時に上がった僅かな水飛沫に、うっすらと映るのはもうひとりの私の顔。彼女の漆黒の瞳に光はなく、腰まである長い黒髪は風になびいて、レースのワンピをより白く際立たせていた。目と目があったその一瞬、彼女はそっと顔を伏せ、陶器のように白い頬には一筋の涙が流れる。その滴が乾いた地面に弾かれ、私を取り込もうとする大きな氷牙に変貌した時、私の意識は既に湖の中だった。
彼女の言葉を聞き入れられず、悲しい思いをさせてしまったことに、勿論申し訳ないという気持ちはある。でも、私はこの湖の向こうへ行かなければならなかった。私が生きている世界とは違う、恐らくアレンの故郷であろう"あっちの世界"へ、今なら行けると知っていた。それは夢の中の特権、私達が手に入れることができた魔法のように、ぐっすり眠っているうちは私の思いどおり。だから私は、彼女に「ごめんね」とつぶやいて、ゆっくりと瞼を開く。
するりと入り込んだ碧色の中には、先程まであったはずの蓮の葉や花が見当たらない。水の上の方に茎が伸びることは知っていたが、何処を探しても蓮そのものが見つけられないのだ。それに、蓮は泥水の方が美しく咲ける花なのに、湖の底はそれらしきものがあるとは到底思えない程、眩しく光り輝いている。私はその光に手を伸ばし、水中に散った碧い宝石を掬い上げた。
両手に覆われたその宝石は、シュガーローフカットという滑らかな形をしている。その美しさにしばらく気を取られていると、突然宝石の下から銀の液体が溢れ出し、次第に見覚えのある装飾を作り上げていく。
「あの御守り…… どうして?」
疑問に思ったのもつかの間、私の目の前に映し出されたのは、あの勿忘草の丘の景色だった。月夜にそよぐのは碧の花畑、そしてその丘の後ろにそびえるのは大きな氷山。映像はどんどん丘から離れていき、ついには丘の下に広がる小さな街にまで来てしまった。丘のすぐ下にある、他の家よりは比較的大きめの家の玄関前には、あの丘に立っていた黒ワンピの少女と、ボロボロの黒いローブを羽織った灰髪の誰か…… そしてその玄関の隙間からちらつく、いくつかの人影。
でも、顔はよく見えない。
次第に夢の感覚は薄れ、私の意識は現実に戻されていく。あの夢の記憶はどうしても、覚えていなければいけない気がした。
「雪菜、朝だよー!」
おぼろげな光の中、少年の無邪気な声が部屋に響いた。




