36話 埃まみれの音楽室
6時間目の授業後、クラスが離れている私と澪は中々出会う事ができず、我々は掃除を開始しなければならない時間になってしまった。椅子を上げた机の上に制服を置き、掃除場所である音楽室へ走る。解放された3階の渡り廊下を駆け抜け、北棟にある音楽室の扉を勢いよく開いた。
勢いよくなんて言っても、この学校ボロいもんだから慎重に。ボロい上に貧乏では、もうどうしようもない気がするが、実際にこの学校はそうなのである。
ちなみに、アレンは透明になって私の背後にいる。誰かさんによく似ている知らない少年が私の背後にいたら怖いが、透明だからまだ大丈夫。私以外の人間には、絶対に見えないはずだ。
頼むからいきなり呼び掛けないでおくれよ、アレン。
「無事到着ゥっ! 今日もしっかり掃除やるかぁ」
「……今朝の哀愁が嘘みたいだけど」
「ああああああ」
一矢を現実に突き落とした所で3班のメンバーが集まったので、それなりに静かな清掃活動を開始した。
私は、ボロ板の上に乗っかった黒板消しを手に取る。紺色の布からカビたようなスポンジが顔をのぞかせる、汚い汚い黒板消しだ。
黒板に書かれた文字を消し、一定の方向で消した跡を綺麗にしたら、黒板消しやチョークを置くところの粉を落としていく。そして、黒板消しを苔まみれのベランダでぺふぺふやったついでに、チョークを色別に並べ、最後に黒板消しを隅に揃えてシュッと置いた。
そう、これが私の仕事。
黒板の文字の量が少なければ、10分程度で終わる仕事だ。手がチョークの粉まみれになれば、手術前の手袋みたいになるのはお約束。
そのままだと手の感覚がおかしくなるので、教室まで行ったら錆びついた水道で腕ごと手を洗おう。
「掃除おわりー。ありがとうございましたー」
『ありがとうございましたー』
夕日の光が差し込むオレンジ色の音楽室に、単純な作業と化した挨拶の声が響く。今日の挨拶担当は勇助だった。
いつどこで誰に聞かれてもいいように、彼はそれなりにハリのある声を出す。もし音楽室の近くに教員がいたら、声が小さいとやり直しをさせられるうえに、少なくとも10分以上叱られてしまうのだ。しかも、帰りの会に遅れたら、また廊下の十字路あたりで止められるらしい。
音楽室の時計は微妙にずれているから、ただでさえ時間に気を使わなければいけないのに…… 直す気のない荒澤中学校のパッツパツなスケジュール、本当に何とかならないだろうか。
ここまで生徒達を急かす理由が、私には分からない。
挨拶した途端に音楽室を飛び出した一矢とルシアを見届け、私は音楽室の外にある水道で、手についたチョークの粉を洗い流していた。
丁度私が手を洗い終えた頃に、戸締りを確認した勇助が、音楽室から出て最後の鍵を閉める。
「そういえば…… ねぇ勇助、私には呼び捨てで呼んでくれって頼んだのに、どうして私のことは苗字にさん付けで呼んでるの?」
「えっ! ごめん、嫌だった?」
「ううん、そういう事じゃない。少し気になっただけ」
突然の質問に驚き、数秒だけもじもじしながら、勇助はそっと口を開く。私の絶妙な真顔におされたのか、彼の口元は少しだけ震えていた。
勇助は単純に、親しい友達が欲しかったらしい。まずは形から始めようというのが、彼の考えだ。
でも、自分が友達を呼び捨てで言おうとすると、どうしても喉の奥で声がつかえてしまう。それが、私やルシアのことをさん付けで呼んでしまう原因なんだとか。
勿論、一矢のような仲になれば、普通に呼び捨てにすることができるらしい。
ルシアも自分から話しかけにきてくれるから、少なくともファミリーネームの"セグレートさん"呼びではない。というか、それだと長くて呼びづらい。
ではなぜ私だけ、一番堅苦しい形式である、苗字にさん付けの"繋木さん"呼びなのか。どういうわけで、勇助とお隣の席である私が、そんなにビビられているのか、なんとなく見当はついていた。
「なんか、雰囲気が強そうだから…… 緊張しちゃうというか」
「あ、それ叔母さんにもよく言われる。父親似だからかな…… 勇助も、目つきが怖いって言われたことあるでしょ」
「あるある! じゃあ僕達、皆に怖がられる子供達だね」
「なにその子供達」
はにかむ勇助に水道の水をペッと飛ばした私は、足早に渡り廊下へ向かっていった。彼も私の背を追いかけ、春風から逃れるように北棟の中へ飛び込む。
勇助が私を追い越した後、私が強風で乱れた髪を雑に撫でつけていると、突然、背中に誰かの体が当たった。
「雪菜ー! 会いたかったよぉぉぉ!」
「ちょ、ちょっと澪、さすがに抱きついたらヤバイって! みんなが見てるでしょ……!」
「どーせ気にしないさっ! みんな遠くにいるから大丈夫~」
「いいわけないでしょーが、さっさと離れなさいっ」
北棟の別の場所で掃除をしていたらしい澪が、私を見つけた瞬間にびゅーんと飛んできた。彼女はその勢いに任せて私に抱きついたため、私がバランスを取り直すのと同時に、剥がれかけた廊下のタイルが僅かにずれる。
嬉しそうなキミには見えていないだろうけど、私のすぐそばにアレンがいるんだよ。
ちょっとアレン、苦笑いしないっ! もうあっち行ってていいから!
あぁ、恥ずかしい…… 出会って日数が少ない上に異性であるコイツには、私と澪の学校生活の風景を見られたくなかったのに。
アレン以外にも他の人の気配だって微妙に感じるし、早いとこ脱出したい。あぁそうだ、澪に黒猫の置物のことを聞かなくちゃ……!
そんなこんなで必死に抗っているうちに、気づけばその"他の人の気配"は消えていた。
「澪、ウェイト! 一旦落ち着こうか……」
「しょうがないなぁ、雪菜がそこまで言うなら離れてあげよう。それにしても、今日はいつも以上に暴れたねー、もしかして思春期?」
「澪がそう思うならそれで良いけど、とにかく今はそれどころじゃないっ! 今日はどうしても聞かなくちゃいけない事があるから、今からの質問をよーく思い出しながら答えて」
「うおぅ、なんか難しそうだなー」
質問という言葉を聞いた瞬間、冷や汗をかいて後退りを始める澪を引っ張り、私は彼女の家の黒猫のことについて質問攻めをした。
後ろから質問する内容を耳打ちするアレンに、多少の鬱陶しさを憶えながら、普段持ち歩いているメモ帳に彼女の返答を書き込む。両手を上げて降参のポーズをする澪に、感謝や謝罪の言葉を述べた後、私は透明なアレンと共に教室へ戻っていった。
澪は廊下のすみっちょで、まだ私に手を振っている。
そんな澪をチラチラと見ながら、小走りで6組へ向かう途中、テレパシーでアレンが私に話しかけた。
「ねぇ雪菜、やっぱりあの置物は生きてるかもしれないよ」
「実は私、今朝の登校中に黒猫と白猫がじゃれ合う様子を見たんだよね…… 澪の家の置物にそっくりなペンダントをつけた黒猫と、亜瑠斗さんの203号室の白猫が、私達の前を横切ったの。澪はさっき、その置物がたまに無くなる時があるって言ってたし、誰が買ってきたのかは知らないらしいから、生きている可能性は高そう」
「僕の知っている人が、あの置物に姿を変えているだけなのかも……」
203号室の白猫達と同じ疑問が、私達の頭の中で渦巻いた。とにかく彼には、早いとこあっちの世界の記憶を取り戻してもらわなければいけない。
その為にも、私は彼に色々な事を学ばせないと。
……そういえば、澪のやつ、私を見つけるまで何をしていたのだろうか。掃除が終わってから、私が勇助と話を終えるまでには、かなりの時間があったはずだ。
さっきは掃除をしていたと思っていたが、掃除が長引いたというなら、どうして他に人がいないんだ。あんな所にひとりだけなんて、どう考えてもおかしい。
澪はどうして、あそこで私を待っていたのだろうか。
帰りの会に間に合わなければ、こっ酷く叱られてしまうのに。
一緒に戻る友達がいなかったのは明らかだ。彼女は私と離れたあとも、すぐに教室へ戻らず、ずっとこちらに手を振り続けていた。
もしかして、教室に戻りたくなかったのかもしれない。
じゃあ、どうして教室に戻りたくないと思うんだ。澪は学級委員も進んで立候補するような優等生で、少なくとも教員からは気に入られているはず。
……でも、周りの生徒からどう思われているかは分からない。もし彼女がクラスで浮いていたというなら、教室の戻りたくないという想いもあるだろう。
信じたくないが、あり得なくもない話だ。
私が澪と別れた時の、名残惜しげに伏せられたまぶたが、脳裏にうっすらと浮かび上がった。




