恩返し
026年(令和8年)11月19日【火星北半球 アルテミュア大陸中央 シドニア地区 マルス・アカデミー地下研究施設『ヘル・シティ』】
美衣子が首からぶら下げていた携帯電話が振動したので通話モードで対応する。
『もしもし。ボンジュール、マドモアゼル・ミイコ!』
解放的で明るい声が受話器側から響く。
「……通報しました」
一瞬の間を置いて、携帯端末の通報ボタンに手を伸ばす美衣子。
『なんでよっ!ジャンヌだから!覚えているでしょっ!』
面くらいながらもカメラへ向けて必死に自己アピールするジャンヌ首相。ホログラム映像に映し出された涙目が可愛らしい。
縦長の瞳を僅かに細め、アピールに必死なジャンヌを見つめる美衣子。
これでもマルス人的には"微笑み"と形容できると満が言っていたのを思い出す美衣子。
「知ってるわ。久しぶりね。でも、今は忙しいから手短に頼むわ」
『此方も貴方達が忙しい理由については理解しているつもりよ。日本列島から脱出するのでしょう?だから、ここで"北欧救出作戦"の恩返しをさせてもらうわよ』
「足止めしてくれるのね?」
『ええ。こちらは陸で行動するよりも"空"の方が都合が良いのよ。詳しい時間と場所を教えてくれるかしら?』
「……今送ったわ。脱出する時だけど、上昇に精一杯だから攻撃されたらひとたまりもないわ。だから、そのタイミングのときだけサポートをお願いするわ」
『了解。任せなさい!それじゃ、良い航海を!』
ジャンヌが格好良くウインクして通話が終わる。
「……さて。いよいよ本番ね」
珍しく意気込む美衣子だった。
「美衣子。何か手伝える事、有るかな?」
右手をおずおずと上げながら手伝いを申し出る満。隣のひかりも腕まくりをしてやる気マンマンである。
「そうね……。お父さんとひかりはお昼ご飯をお願いするわ。しばらく新鮮なお魚が食べられなくなりそうだからちらし寿司プリーズよ」
両手を挙げて満とひかりにおねだりする美衣子。
「承りました!」
ガッツポーズで応えるひかり。
「お、おぅ……」
おにぎりを握る程度かと思っていた満が、ハードルの高い要望に腰の引けた様子で応える。
「……こんな事もあろうかと。お父さんは具材の調達だから、こっちよ」
見かねた結が満を作業中の船の中へと案内する。
「さあさあ!ここから一本釣りっス!」
甲板で待ち構えていた瑠奈が釣り竿を満に手渡す。
「え……。ここから釣るの?」
見渡す限り作業場である空間を見渡して首を傾げる満。
「こっち側に糸を垂らすっス!餌はちくわと魚肉ソーセージっス!」
お手本を見せるべく瑠奈が豪快に竿を振りかぶると、舷側から50m程離れた黒い床の作業場にちくわを付けた糸を垂らす。
「……床じゃん」
思わずジト目で瑠奈と結を見る満。
「違うわ。床を良く視て」
チッチッと人差し指を振る結。そんな仕草にイラッときた満だったが結に言われた通りに床の様子を見て唖然とする。
「床がうねっている……のか?」
瑠奈がちくわ付きの糸を垂らしていた床は、漆黒の空間となってちくわを呑み込んでいる。
「あそこの床の先は、NEWイワフネハウスの地下3階にある養殖研究プールに繋がっているのよ」
どや顔の結。
「ええっ!?でも、プールはNEWイワフネハウスの施設だから一緒に差し押さえられているんじゃないの?」
驚く満。
「プールで泳ぐ魚まで差し押さえられているとは聞いていないわ」
素知らぬ顔の結。
「うーん。限りなくグレーの様な気がする……けど、いっか」
今更心配したところで、マルス・アカデミー技術の粋を集めた三姉妹の地下研究フロアーを理解している者はいないだろうと思う満は、気持ちを切り替えて瑠奈の隣に座ると釣り糸を垂らすのだった。
満の奮闘した釣りによる釣果と、酢飯に根性を注いだひかりの合作であるお昼のちらし寿司は、格別に美味しかったと口々に褒めそやす美衣子達三姉妹は、お皿を手にひかりと満にお代わりをせがむのだった。
三姉妹の笑顔に、久し振りにやりきった思いの満とひかりだった……。
「……って、違うから!ここからが本場だからね!」
綺麗に纏めようとする一同の雰囲気に、自ら突っ込みを入れる満。
「「「「……お父さん。積極的!」」」」
心持が変わってきた満に内心微笑みながら、気を引き締めて火星日本列島から脱出の準備を進めるひかりや美衣子達三姉妹だった。
☨ ☨ ☨
2026年(令和8年)11月19日午後1時【東京都大田区田園調布一丁目 角紅社長 仁志野清嗣の自宅】
冷蔵庫から騒がしく"出かけて行った"大月家一行を見送った仁志野は、リビングで昼食後のコーヒーを一人啜りながら、これから起こる事を想像しながらニュースを視ていたが、伝えられたニュースに思わずコーヒーをブフォッと噴き出してしまう。
『―――会社の研究費を私的に流用したとしたとして、警視庁は今日までにミツル商事"元社員"の女2人に逮捕状を出して行方を追っています』
容疑者として、岬と琴乃羽の写真が公開されていた。
「あちゃー。何やっとんねんお嬢ちゃん達……」
思わず額に手を当てて天井を仰ぐ仁志野だったが、玄関のインターホンが鳴ったので応対する。
『ミスター仁志野のお宅でしょうか?私は英国連邦極東のソールズベリーと申します。主の依頼で伺いました』
モニターには、茶色いスーツを着た金髪の青年と、同じ茶色のワンピースを着た無表情な少女が映っていた。
「どうぞ、お入りください」
家の中へ招き入れる仁志野だった。
♰ ♰ ♰
「貴方にお会いするのは二度目となりますね。ミスター仁志野」
仁志野の許可を得て、助手のクリスがキッチンを使って淹れた紅茶に口を付けると挨拶をするソールズベリー。
「えーと、ソールズベリーさんかいな……。そうか!ひかりと満君の結婚式の時にビンゴ当てた人かいな!」
思い出して手を叩く仁志野。
「そうよ。そして私は売られていったの……」
ソールズベリーの後ろに控えていたクリスが、よよよとワザとらしく泣き崩れる。
「ひかり譲りのあざといリアクション……。さすが美衣子ちゃんとこのアンドロイドやなぁ」
大月家一行と暮らした中で"よく似た光景"を思い出した仁志野が指摘する。
「ご名答。クリスです」
嘘泣きを止めたクリスが、フンスと胸を張った後に、ワンピースの裾を軽く摘んでお辞儀をする。
「がはは。角紅社長の仁志野です。よろしゅう頼んますわ!」
にかっと笑うと軽く頭を下げる仁志野。
「ほな、お話を聴きましょか?」
ソールズベリーに用向きを促す仁志野。
「ありがとうございます。では、依頼主である英国連邦極東首相のケビンから仁志野清嗣様にご報告です。
ミツル商事社員だったミス・岬とミス・琴乃羽のお二人を、我妻政権による不当な政治的・人権的迫害を受けたとして英国連邦極東政府は保護する事といたしました。 ダウニングタウンから間もなく声明が出されるでしょう」
クリスからタブレット端末を受け取ったソールズベリーが、英国連邦極東政府声明が表示された画面を仁志野に見せる。
「おおきに、とケビン首相にお伝えください。これで満君やひかりも安心して旅立てるという事やな」
満足げな仁志野。
「ええ。我が英国連邦極東も、マルス・アカデミーの技術を日本の科学技術に融合させたお二人の活躍に期待しています。ミスター大月達が無事に日本列島から脱出出来る事を祈っております」
ソールズベリーが同意する。
「せやけど、ケビンさんとこはそれで大丈夫かいな?日本政府と関係悪くなるんちゃうか?」
気懸りな仁志野。
「多少の摩擦は有るでしょう。ですが、東京はイスラエル連邦との関係強化に躍起でしょうから、此方にまで注意を払わないだろうと政府は予測しています。ミスター大月達が日本列島から立ち去れば彼らの警戒心は更に薄まるでしょう」
思慮深い顔で答えるソールズベリー。
「そうか。それならええわ。用件はそれだけかいな?」
「いいえ。実はもう一つ用件があるのですが、私には理解出来ないのです……」
困惑した顔のソールズベリーが、ケビン首相の依頼内容が表示されたタブレット画面を仁志野に見せる。
そこには”仁志野宅の冷蔵庫に触れる事”と記載されていた。
タブレット画面を視た仁志野は、笑いを堪え切れずに噴き出したがコーヒーが気管に入ってしまい、ゲホゲホと激しくむせてしまう。
「ああっ、大丈夫ですか!?ミスター・仁志野!」
おろおろとするソールズベリー。
「マスター!冷蔵庫から水を持ってきて下さい!早く!」
血相を変えたクリスが、むせ返る仁志野の背中を擦りながらソールズベリーに向けて叫ぶ。
「わ、わかった!」
慌てたソールズベリーは、キッチンに飛び込むと冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出そうと扉に手を掛ける。
その瞬間、冷蔵庫の中からまばゆい白光が迸るとソールズベリーを包み込み、吸いこまれるように冷蔵庫の中へ消えて行く。
「……全く。なんてお約束な展開でしょう。……ミスター仁志野。名演技ご苦労様でした」
ケロッとした顔の仁志野にお辞儀をすると、冷蔵庫の扉に触れてソールズベリーの後を追うように光に吸い込まれて消えるクリスだった。
「ふぅ。これで岩崎さんとケビンさんの依頼は達成したで」
満足げに呟くと、キッチンから珈琲のお代わりを注ぎに行く仁志野だった。




