内閣官房執務室
――――――【火星某所】
『マスター。外の空気がこちらと同じ成分になった』
その存在がとある研究者に告げた。
「温度差は問題ないのかい?」
研究者が訊く。
『問題ない。マルスに転移して以来、生態環境保護育成システムに負荷がかかり過ぎている。一部機能を停止して、システムメンテナンスを実行する。大気圏、海水表面部の電磁フィールドを解除したい』
「……分かった。あくまで生態系維持の為ならば認めよう。マルス生態系との混合は不可だ」
『了解。マスター。今から解除する』
しばらく後、日本列島上空と周辺海域の電磁フィールドが弱まり、日本列島転移後に発生した惑星規模での地殻変動によって劇的なテラフォーミングを果たした新鮮な火星大気と海洋が、日本列島の空気や海水と混じり合っていく。
♰ ♰ ♰
その日早朝、茨城県沖の太平洋上空で定期的に大気観測を行っていた海上自衛隊P1哨戒機が、新しい気流と海水温の変化を伴う海流の変化を察知して直ちに市ヶ谷の防衛省本省へ緊急連絡を行った。
緊急連絡の数時間後には、沖縄や横田の在日極東米軍や英国連邦極東、ユーロピア自治区からも偵察機が発進して日本列島周辺において同様の現象を確認した。
東京の首相官邸と気象庁は正午に緊急合同記者会見を開き、日本列島の遥か上空及び沿岸において気圧及び気流、海流の変化が観測されたと発表したが、火星大気と海水の混合については引き続き調査中である事、この変化が日本列島の生命活動に何ら脅威となる事象ではないとして国民に平静を呼びかけるのだった。
♰ ♰ ♰
2021年9月1日午後5時【東京都千代田区永田町 首相官邸 内閣官房執務室】
「……もしもし。この番号は非常時しか使われない筈ですが?」
ひどく不機嫌な声音で自分の携帯電話をとる東山。
内閣官房秘書官 外交担当の東山龍太郎は、長崎県佐世保市でユーロピア自治区のジャンヌ代表と打ち合わせをして東京へ戻って来た後、休むことなく昼間の国立天文台で行われた歴史的な異星文明へのメッセージ発信に駆り出されて疲れた体を休めていたが、大学の同期生からかかって来た電話に対応していた。
『もしもしー、東ぃかなぁ?この前は素敵なパワースポット教えてくれてありがとうね!』
ハイテンションらしい西野が東山を"東ぃ"と変な略称で呼ぶと礼を言って来た。
ボッチな癖に寂しがり屋の西野が礼を言うことは滅多に無い。少々驚きながらも、常識人的な行動を取ろうとする同期に尊敬の念を持つ東山。
「どういたしまして。んで、どうだった?」
東山が、パワースポット巡りのデート結果を訊く。
『掴みはばっちしよー♪彼の意外な一面も見れたしぃ。もう胃袋まで落とした?みたいな?きゃっ』
西野はおのろけ全開のようだ。
「はいはい。そらようござんしたねー。こちとら絶賛残業中だよっ!じゃんじゃんばりばり仕事入ってウハウハだよっ!ちくしょーっ!」
思わず素で言い返す東山。
『あれあれ?なになにー?"俺達の時代"なんでしょ?しっかりしなさいよー』
火星転移直前に情報収集も兼ねた合コンで、東山が言い放っていた若気の至りを突く西野。
「うるせーっ。そっちこそ、楽しい情報教えてくれるんだろうな?」
防戦する東山。
商社勤めの西野にねだられて、ギリギリ国家公務員服務規程に抵触しない範囲で"独り言"を言ったりして、なにかと帰国子女でどこか醒めた性格でボッチな面倒くさい西野の援護射撃をしていた。そろそろ何かあるかも知れないな。西野は受けた恩は忘れないのだ。
『楽しい情報かぁ、大月さんとはラブラブだし、"トカゲの人"とも仲良しになったよー?』
一部意味不明な事を言う西野。
東山は西野が酔っぱらって電話を掛けたのかと思って切ろうとしたが、友人として、後で回収(介抱)する必要上、現在位置を聞くことにする。
「で?今どこよ?」
東山が訊いた。
『立山の尖山なんだけど』
真面目に答える西野。
「何だって!?」
まさか、本当に"あの場所"へ行っているとは思ってなかった東山は、頭が真っ白になって痺れたような感覚になる。ボッチ傾向のある西野は、数少ない話せる人の言う事は真に受けるタイプな為、ある程度予想はしていたのだが。
『どーしよー!?東ぃー!』
西野が泣き付いてくる。
まさか"特級機密案件"に来るとはなぁ。適当な事を言ってしまい頭を抱えて後悔する東山。しかし、やってしまったものは致し方ない。
開き直った東山は座席から立ち上ると、内閣官房執務室の全員にゼスチャーで注目を促すと、電話をスピーカーモードに切り替える。
岩崎を含めた全員が彼の電話に注目した。
東山の全身からは、国家公務員最終面接試験以来の冷や汗が大量に涌き出している。
「それで、今そこには西野、お前だけか?」
『大月さんだけだよ~。二人で山頂でご飯食べて石でピラミッドを積み上げたら"山の中の秘密基地"に入れたんだよー。あれ?入れられてしまった?どっちかな?』
「どっちでもいーよ。我が国にはそんな"秘密基地"なんて無いだろ?」
『やっぱりー!"トカゲの人”も自分達は月から来たって言ってたよー?』
「何で月から来た人が、そんなとこに基地作って居るんだよ?」
『えっとねー、月がどがーっと事故って仕方なく降りてきたんだって。それで助けが来るまで此処で寝ていたみたい。私達が来たから起こしちゃったみたい、てへぺろ?』
東山と西野の会話を聴いている内閣官房の職員達は、あまりの内容に絶句していた。
東山も途方に暮れていた。いや、宇宙人起こしててへぺろ?は無いだろ。普通。
気が付くと、傍らに官房長官の岩崎が立っていた。
「電話を替わりましょう」
岩崎が言った。
「―――もしもし、東山がお世話になっております。東山の上司の岩崎です」
『これはご丁寧に、はじめまして、岩崎官房長官』
声音を切り替えた西野は、凛とした声で真面目に返答する。岩崎の隣で会話を聴いていた東山が、あまりの変貌ぶりにキョトンとする。
岩崎は、西野の豪胆さと切り替えの早さに感心しながら話し掛けた。
「西野さん。"トカゲの人”と貴女は話せるのでしょうか?」
『はい。"日本語"で会話できます。所々、発音が日本語とは違う言い回しがあり、完全には理解出来ませんが、意思疏通は可能かと思われます』
西野が正確に答えた。
「西野さん、貴女はなかなか洞察力も優れていますね。お若いのに大したものです」
『いやぁ、それほどですよ?あははっ』
けたけたと西野が笑う。
「大月さんとはお話出来ますか?」
『はい。"あなた"電話ですよ?』
『西野が大変失礼いたしました。同僚の大月と申します』
受話器の後ろで西野が"妻"認定されて歓声を上げている。緊張している大月は、幻聴だと思うことにした。いや、したい?
「大月さん、"トカゲの人"は恐らくこの火星文明を築いた人類でしょう。『トカゲの人』は東京に来てくれますかねぇ?」
岩崎が訊く。
『難しいかと。彼らは覚醒した直後です。転送や激しい動作は、身体に負担がかかるようです』
大月も取引相手との折衝に慣れているのか、自然と相手の所作や状況を気にかける癖が身に着いていた。
「ふむ。こちらから"お邪魔"する事は可能かね?」
『その場合は、武器の携帯は不可能になります。彼らの施設を警備するAIが、自動的に武装した者を"遠くへ跳ばして"しまうようです。彼らのAIは非常に優秀です。常に各種レーザーやセンサーと思われる光線を駆使して施設周辺の警備巡回をしているようです。つい先日も我が国がお邪魔しようとした?様ですが?』
「"先日"ではないのだがね……」
35年前の出来事を思い出して苦笑する岩崎。
「彼らは友好的かね?」
『はい。私達は一切危害を加えられていません。彼らはこちらの気持ちに配慮してくれるようで意思の疎通はスムーズです』
大月は読心能力を彼らが使っている可能性を、遠回しに伝えた。
「成る程、大月さん。とても良いお話を聞かせてくれてありがとうございます。お二人はこれからどうされるのでしょうか?」
岩崎が大月達の今後を訊いた。
『"トカゲの人"から幾つか頼まれ事を受けましたので、1度東京へ戻るつもりです』
大月が話した後に、背後から金属的な甲高い声が聴こえた。
『えー、はい。差し支えなければ、首相官邸の座標を教えて頂ければ、"トカゲの人"が施設の機能で"転送"してくれる様です。……それと、しばらく尖山には入って欲しくないと要望されました』
「分かりました。こちらから"お邪魔"するのは控えましょう。座標ですか。少し待ってください」
職員が首相官邸の座標を記したメモを持ってくるまで、岩崎はどうしたものかと思考する。
首相官邸以外の安全な場所――、官邸しかないな。岩崎は決断した。
転送を断ったところで、我々の文明を凌駕しているであろう相手の前では逃げも隠れも出来ないだろうし、するべきではない。
「――これかね?ありがとう。大月さん、座標を言いますね、北緯※※※度、東経※※※度※※です」
『ありがとうございます。直ぐにそちらへ"お邪魔"します』
「お待ちしています」
電話が切れた。
途端に内閣官房執務室が蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれた。
警備の手配をする者、何らかの観測器材を最寄りの官庁から取り寄せようとする者、職員が動き回った。
騒然とした雰囲気の中、東山は自席で呆然と立ち尽くしたままだった。
間もなく岩崎官房長官に呼ばれた東山は、異星文明と大月達とのパイプ役として、日本国政府交渉団の一員に加わる事となる。
10分後、首相官邸正面玄関に大月と西野が何の前触れも無しに出現した。
呆気にとられているSPを余所に、二人は出迎えに来た東山と岩崎官房長官との対面を果たすのだった。