NGワード注意報
アレに気がついたのは一昨年の夏頃だった。
それまで平々凡々な高校生をやっていた俺は、その異常な現象に大層驚いた。
おはようと声をかけてきた妹の頭上に文字が見えたのだ。
利き手じゃない方の手で書き殴ったみたいなその文字は大きさもチグハグだった。そこに浮いているかのような真っ赤な文字をしばらく見つめていると、そのうち空気に滲み、溶けるように消えていった。
なんだ今の……ついに俺も摩訶不思議なパウワァーを手に入れてしまったか……罪深い……。
ハッ! と気づいた時に、俺を見ていた妹の怪訝な顔つきは忘れられない。よっぽど間抜けな面だったのだろう。あの目つきには、間違いなく、少なくない軽蔑が込められていた。
あれほどまでに蔑まれたのは初めてだったので、その夜に悲哀の涙で枕を濡らしたことも含めて非常に印象深い出来事だった。
その不思議な文字の意味に気づいたのは、それから数ヶ月後のことだった。
街を歩いていたら、すれ違った不良っぽい男性グループのうち一人の頭上に、例の文字があったのだ。
妹の時は何の意味もない文字列で、なんと書いてあったか忘れてしまったが、彼の頭上に浮いていた文字列は「ばくない」だった。はっきりと覚えている。
なぜなら――。
「つかこの前さ、スロで3万稼いでやったわ」
「え、やばくない? メシ奢れよ」
「ぎゃはは、もう使っちまったよ」
リーダー風の男のしょうもない自慢に相槌を打った彼は、頭上の文字を口にしてしまったのだ。
あっ、と思ったのはほんの束の間。その文字はぐらりと揺れて青色に変わり、そのまま煙のように虚空に消えた。
そしてその夜、ニュースをぼんやりと眺めていた俺は、彼の顔を不幸な事故の被害者としてもう一度見ることになったのだ。その時の心境たるや、もうそれはそれは筆舌に尽くしがたい。強いて言うならちょっとチビった。
あれから俺は、その頭上の不気味な文字のことを“NGワード”と呼んでいる。ランダムに人の頭上に現れては、数秒から数分で消えるその文字は、必ず似たような字体で、読み上げられると青くなってその人に不幸をもたらす。
大体は意味のない文字列で、そうタイミングよく言葉になることはないのだが、これまで見てきたいくつかの例によれば、その不幸とはすなわち死を指すと見て間違いないだろう。
さて本題だ。何故俺がそんなことを考えているのかというと……。
「どうしたの? 調子悪いの?」
俺の正面にいる彼女――向井優子の頭上に見えてしまっているからだ。
「い、いや。大丈夫だよ」
「でも何か顔色悪いし……」
「本当に大丈夫だから!」
「よく分からないけど、本調子じゃなさそうなのに私のワガママに付き合ってくれて、あり」
「うわっとおおおう!」
「え?」
「本当に……大丈夫だから!」
お分かり頂けただろうか。聡明な方なら既に気づいたことであろう。
そう、彼女の頭上には「りがとう」の文字が浮いてるのだ。
なんてこった。汎用性が異様に高いぞ。
おまけに彼女は、大学生活も折り返したのに彼女いない歴を年々更新し続けていることで有名な俺が絶賛片思い中のサークル仲間なのだ。
うっかり「あ“りがとう”」されて三途の川まで特急券とあっちゃ夢見が悪いどころの騒ぎではない。たぶんそうなれば俺は、泉のように湧き出る罪悪感に溺れて線路にジャンピンしてしまう。
「あ、あの……」
「ん?」
彼女はわたわたとしながら喋り始めた。
この手をパタつかせる小動物チックな仕草。たまらん。このシーンだけエンドレスリピートして10時間くらい見ていられる。
NGワードのことで気を張っていることをうっかり忘れてしまいそうにすらなる。
「この前の飲み会……介抱してくれてたんだって聞いたんだけど……」
「ああ、うん。寝てたけど辛そうにしてたから」
あ、まずいこれ。
「そ、そうなんだ……あの、その時はどうもあ」
「わっしょおおおい!!」
「えっ……」
「いや、えーと……まあそれはいいってことで……」
危ない。我ながらキレ、タイミング共に満点のナイスわっしょいであった。
しかしこの感じは良くない。せっかくたまたま道端で片思いの相手に出会って、一緒にお茶をしばくというオシャレシチュエーションなのに、こうもわっしょいわっしょいしてたら台無しだ。ドン引きされてしまう。
休日の午後はわっしょいわっしょいして過ごしている哀れなわっしょい男だと思われてしまう。
良くない。非常に良くない。
ここはNGワードが消えるまで当たり障りのない(わっしょいもない)会話でお茶を濁しつつ、うまいこと感謝されないようにするしかない。
「優子ちゃん、今日は何してたの?」
「ちょっと佳奈ちゃんとショッピングした帰りなの」
「え、でも何も買ってないみたいだけど……?」
「小物だけ買ってバックの中に入れてあるの」
そう言って彼女はあどけない笑みを浮かべた。ああ、天使か。柔らかそうな頬に控えめな笑窪がたまらん。語彙力が溶かし尽くされそうだ。
よし、いい感じだ。この調子で話を進めて、あとはあの文字が消えれば……!
「いいな、どんなの買ったの?」
「ピアス買ったよ」
「どんなピアス?」
「えっと、ハートの形なんだけど左右で色が違くて……右がピンクで、左がと」
「そいやああああああ!?」
完全に気を抜いていた。これファインプレーだろう。実況解説がついてたら絶賛されてたに違いない。
お気づきだろうか。彼女は今おそらく「左が透明」と言おうとしたのだ。
そう、がっつりNGワードが混じっている。
危なかった。普通「りがとう」なんてNGワードが与えられたら「ありがとう」しか警戒しない。誰だってそうだろう。
こういうパターンもあるのか……。っていうかNGワード長いよ! いつまで浮いてんだよ! 最長記録だよ!
「えっと……どうしたの?」
「はっ! 今のは……えーと、あ、新手の健康法……かな! 唐突な奇声健康法」
「ええ……」
もうこれ以上にないくらい引いてる。こころなしか椅子が遠ざかってすらいる。もう泣きたいが、ここで泣きだしたら俺は“昼下がりの喫茶店でツレがいるにも関わらず幾度となく奇声をあげ、遂に泣き始めたスーパーサイコ野郎”になってしまう。
そうなってくると優子ちゃんはおろか、サークル内、いや大学内でまで除け者にされてしまい、終いには見知らぬ後輩にすらクレイジー奇声野郎、略してCKYと呼ばれてしまうことに違いない。
見知らぬ後輩のかわい子ちゃんに罵られるとか、ちょっと興奮しない訳でもないが、流石に不健全極まりないので遠慮したい。
「あ」
突として、俺は気づいた。
彼女の頭上に浮かぶ例の文字が段々薄くなってきているのだ。
いける。いけるぞ俺! あと少しだ! わっしょい!
この際彼女にどれだけドン引きされようと構わない! 彼女の命が救えるならそれでいいだろう!
「どうかした?」
「い、いや。なんでもない……」
「えっと……やっぱり具合良くなさそうだし、帰ろっか」
そう言うと彼女はそそくさと荷物をまとめ始めた。その間にも、彼女のNGワードはどんどん薄まっていく。
このまま終われば、あまり傷もないまま……いや、傷はかなり深いが、小動物系かわいい女子である優子ちゃんより与えられし尊大なる癒しで回復が間に合う範疇だ。
むしろちょっとお釣りがくる。
だって片思い中の女の子と休日の午後を過ごせたわけですよ? しかも向こうからのお誘いで。
ちょっと興奮してきた。
「お会計どうしようか」
「ああ、コーヒーくらいなら俺が出すよ」
「え、いいの?」
「いいよいいよ」
「じゃあ……お言葉に甘えて……ありが」
「ふぁいやっは!!!」
まずいまずい、危ないところだった。調子に乗ってしまっていた。女の子にコーヒーを奢るシャレオツな大学生を気取って危うく彼女を殺めてしまうところだった。
どんなシチュエーションだよ。「シャレオツコーヒー奢り殺人事件」とか、なんとかクリスティもビックリだわ。
俺は引き攣った営業スマイルの店員さんを見ないようにしながら会計を済ませて、店の外で待つ彼女の元へと向かった。
「えっと、ごちそうさまでした」
「いえいえ。いいってことよ」
「やっぱり体調悪いんだよね……変に連れ回してごめんね」
「大丈夫大丈夫。また誘って」
「うん……ありがと」
「ほいさっさあああああ!!」
「……えっと……えっと……じゃあまた!」
遂に彼女は逃げるように走り去ってしまった。その頭上にあった文字は、ちょうど今掻き消えた。
俺は何とも清々しい気分になった。やり切った。やり切ったのだ。
尊厳とか評判とかそういう社会的な生活に必要なたくさんのものを失い、その代わりに彼女の命を救ったのだ。勇者となったのだ。同時に魔法使いにも近づいた訳だが。
やり切った……。すごいことをしたんだ……。あれ、なんか視界が滲むな……やっぱり本当に体調悪いのかな……。
今日はもう帰って寝よう……。
その頃、彼の視界から外れる場所まで辿り着いた向井優子は、誰にも聞こえない声量で呟いた。
「せっかく"ういたし"だったのに……」
露骨に舌打ちをする彼女の冷たい表情には、先程までのようなあざとさは微塵も感じられなかった。