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例題2:1/1 母親に育児放棄された乳児の話 (※産後鬱注意)

!この話には育児放棄、乳児虐待を含みます。要注意!

キャロルはぺちゃんこになったお腹を触って、不思議な感触を味わっていた。さきほどまで、キャロルのお腹の中には赤ちゃんがいたのだった。半日にもなる大仕事の後、赤ん坊は無事に取り出されて、放心状態のキャロルだけが寂しく横たわってるのだ。


「ああ、キャロル。僕の愛しい人。かわいい女の子だよ」


夫がでれでれした顔で小さな命を抱きかかえてきたとき、キャロルはやっぱり不思議な思いだった。


(そこにいるのがわたしの赤ちゃん?)


部屋の奥で水音がするのは、村からはるばるやってきた産婆が仕事を終えた後の片付けに入っているのだろうか。


「あなた…」

「この子の名前は何にしようか。僕と君の子供だ、きっとかわいく育つに違いないよ」


キャロルの腕に、そっとそっと小さな赤ちゃんが寝かされた。


「***、****」


赤ちゃんは呼吸にむせながらも、泣き続けている。


「きっとかわいらしく育つわ…ああ、ごめんなさい、ちょっと気分が…」

「ん? あぁ、そうだね。大仕事だったからね。ゆっくりお休み」


部屋の外から、夫を呼ぶ声がした。

夫はキャロルの頬にに優しく口づけをし、赤子を取り上げると、キャロルに薄手のシーツをかけ、赤子とともに部屋を出て行った。


(あぁ、かわいいわたしの赤ちゃん。わたしはお母さんになったんだもの、しっかりしなければ。赤ちゃんのお手本になるような立派なお母さんに…)


キャロルが目を閉じると、感じていた以上の疲労が体中にたまっていることに気がついた。襲ってくる脱力感にしたがって、キャロルは意識を落とした。



  * * * * *



(ああ、また泣いてる)


出産から数日たった夜、誰も起きていないような時間に、キャロルは赤ん坊の泣き声で目が覚めた。まだ痛む体を起こすと、その横では夫がのんびりと眠っているのが目に留まり、不愉快な気分になる。


(どうして夫は起きないの?)


少しくらい起きてくれてもいいんじゃないかと、隣に向かってイライラがつのる。今日の夜だけでもう4回目になるのに、夫は一度も起きてはこないのだ。きっとこの先も起きないだろう。


(ああ。いらいらする。だいたい、コレはなんなの。どうしてわたしが世話をしているの? ゆっくり眠らせてくれたらいいのに。夫が起きてくれたら良いのに。そうしたら1人じゃないってわかるのに。あぁ、どうして)


ぽろぽろと、キャロルの瞳から涙がこぼれる。


(あぁ、どうして助けてくれないの? わたしは1人ぼっちなの? 夫も…夫はどうして赤ちゃんを見ないの。1人で笑っているの。わたしがこんなに苦労しているのに、眠れないのに、泣いているのに)


最近のキャロルの悩みは、この不安感と慢性的な頭痛だった。


何をしていても、急に不安になることがある。この世界にたった1人しか存在しないような孤独感があり、周りの全てが敵であるかのような錯覚。全てを悪いように悪いようにと考えてしまい、何もできなくなってしまうのだ。昨日などは、夕飯の献立を考えることができず、体調不良と偽って早々に寝てしまった。こうなると、少しの楽しみも感じなくなってしまうのだが、困ったことに時間をおけば不安感は薄れてくるのだ。不安が薄れてしまったときに、夫に相談しても相手をしてくれないのだ。

「今は大丈夫なんだろ?」

これが、相談した時の彼の返答だ。毎日相談しているためか、最近は話をまともに聞いてもくれない。話しかけようとすると逃げ出してしまう。


そして、頭痛。後頭部をガンガンと揺すられるような強い痛みや、こめかみを針で刺されるような鋭い痛みがずっと続いているのだ。原因の1部は乳児の世話にあるだろう。夜通しおこなわれる授乳のせいで、寝不足となり、それが頭痛を引き起こしているのは簡単に想像できる。他にも、落ち込んだ時に酷くなるため、頭痛の強弱は気分によるのかもしれなかった。


こんなに不安なのに。本当に頭が痛くてどうしようもないのに。

のほほんと眠っている夫や、夜中にたたき起してくれる赤子に不快感が生まれる。


(いつまでなのかしら…)


頭が痛い、と立ち上がりながらキャロルは思案する。いつの間にか涙は止まっていた。


(いつまでこんな日々が続くのかしら)


ふらふらした足取りで赤ん坊の近くまで近寄り、泣き続けるソレを冷たく見下ろした。


(いつまで? 今日? 明日? 明後日? …それとも、一生? 一生って何年? 10年? 20年? 30年? 生きている間、ずっと??)


「ずっと、コレが続くの?」


赤ん坊の声は少しかすれていて、しゃっくりのように小さなからだを震わせていた。

その様子を憎々しげにみるキャロルには、赤ん坊を産み落とした時の幸福感は消えていた。



  * * * * *



「じゃぁ、いってくるな。かわいい子、留守番をたのむよ」


朝になり、ゆっくり体を休めた夫が、勤めに出て行った。

彼は猟師であり山師である。山中に罠をしかけながら、村の山師たちと協力して木を切り、鉱脈を追っている。

そのため、彼の服はけものの返り血やら、草の汁やら、腐った水の匂いがすることすらある。

それが、キャロルを悩ませていた。


(血が落ちない。きれいに洗っても、また汚して帰る。どうしてそんなに汚れるの。もっと気をつけてくれたらいいのに。草の汁なんて、何をしていたら汚すのか理解できない。どうして、どうして汚して帰るの。そんなに汚すような何をしてるの)


家の扉を閉め、その外側でキャロルは溜息をついた。


(どうしよう、どうしよう。きれいにヨゴレを落とすにはどうしたらいいのかしら。水…? お湯…? ああ、どうしよう。どうしたらいいの)


扉の奥で赤ん坊の鳴き声がしたけれど、キャロルには聞こえなかった。



  * * * * *



「ただいま~。今日は大量だったぞ」

「あぁ…おかえりなさい…」


夕暮れになって、獲物を抱えた夫が戻ってきたのを、キャロルは家の外で迎えた。

1日中ずっとそこにいたのだと、キャロルは声を掛けられて気がついた。

お昼を食べていなかったため、ひどくお腹がすいていて、口も渇いていた。


「こんな大きなウサギ久しぶりね。…さばいてきてくれる? 中で準備しておくわ」

「あぁ、まかせろ。これは毛皮も良いものだぞ。楽しみだ」


家に入って水を飲もう、とキャロルは家に入ろうと体を反転させ、扉の取っ手を握ろうとした。

だが、キャロルの体は、まるで重石でも乗っているかのようだった。その体の重心は狂い、まっすぐ立つことができなくなっていた。足は痙攣(けいれん)し、手も小刻みに動いていた。

それなのに、キャロルは何事もないかのように手を上げて――腕が震えた。


(あら…?)


キャロルは自分の手が震えていることに、ようやく気がついた。

震える手では、扉の取っ手をつかむことができなかったのだ。


(こんなこともできないなんて。どうしたの、なにがあったの? …ちょっと調子が良くないんだわ。だって赤ちゃんの世話で疲れているんだもの)


体ごと扉に押し付けることで無理やり扉を開けて、室内に転がり込む。文字通り転がったのは、足が重心移動についていけなかったからだ。


(あぁ、嫌だ。どうして、どうして。歩くこともできないの? わたしは本当にどうしてしまったの。怖い…何が起こってるのか怖い。わたしの体がわたしのものじゃないみたい。…病気かしら、悪い病気かしら。治らない病気だったらどうすればいいの? きっと治らない病気なんだわ。死んでしまうかもしれないの? …死んでしまうんだわ)


キャロルは転がったまま震えた。

そこに夫が顔をのぞかせて、キャロルに駆け寄った。


「どうした? 何か大きな音が…、キャロル! どうした!?」

「あぁ、あなた…」


夫の汚れた服が触れた場所が気持ち悪かった。


「ちょっと眩暈がして…大丈夫よ」

「ああ、よし。今日の料理は僕が作るよ。もう休んでおいで」

「ありがとう、あなた」

「それにしてもお姫様は静かだね。寝てしまったのかな」

「…そうね、今日はずっと元気だったわ。もう寝てしまったのね」

「君の手を煩わせない、いい娘だね」


夫は明るく笑い、キャロルの額にキスを落とす。できるだけ早く夕飯にするよ、と作業途中の獲物の解体に向かう。

キャロルは自由にならない体で床を這い、なんとか靴を脱ぐと部屋の片隅に横になった。

その近くに赤ん坊の寝床が用意されていたが、すでに寝てしまった赤ん坊の声は聞こえなかった。



  * * * * *



赤ん坊の夜泣きで起こされることがない夜だった。

すっきりした頭で目が覚めたキャロルは、ここ最近ずっと感じていた頭痛がなくなっていることに気がついてほっとする。

昨日の体の震えも少し残ってはいるものの、指先まで自分の意思で動ける事を確認した。


(なんだったのかしら? やっぱり良くない病気だったのかしら)


体を起して、隣の夫を確認する。


(相変わらずよく寝ているわね。赤ん坊が泣いても起きやしないんだから、あきれるわよ。でも、赤ちゃんは寝てくれる方がありがたいわ。わたしもゆっくりできるし。そう…本当に久しぶりにゆっくり寝たわね)


体を起こして身繕いをすませると、朝食の準備に取り掛かる。


(昨日の肉が残っているなら、それで粥にしましょう。たしか野菜類を収穫していたような…)


収穫されただけで調理されなかった野菜が、調理場の片隅で干からびていた。


(…だめね。じゃぁ…)


「キャロル!」

「え、あら…」


目を覚ました夫が、後ろからキャロルを抱きしめた。


「キャロル! 起きたんだな、起きてくれたんだな! あぁ、よかった。どうなるかと…子供にキミまで失うんじゃないかって、心配していたんだ」

「え?」


夫は泣いていた。


「どういう、こと? 何がどうしたの…?」

「キミは2日間も目が覚めなかったんだよ。もう…どうしていいかわからなくて。娘は、赤ちゃんは衰弱がひどくて、助けられなかった…ごめん」

「え?」


「赤ちゃんは助からなかったんだ」

出産後ホルモンバランスの崩れにより、うつ病などになる可能性があります。軽い症状を加えると、3~4割になる統計もあります。実は身近な産後うつ病の想像話でした。


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