禁門の変
活動報告から流れてまいりました。佐幕派応援キャンペーン第一弾です。
本日のお題【禁門の変】
2007年小学館発行・山本博文氏監修の『江戸時代年表』によりますれば、
《元治元年(1864年) チョーシュー藩兵が復権をもとめて入京。会津・薩摩などの幕府軍に敗れ、久坂玄瑞らが自害》という事件です。
このときの市街戦で千年の都・京都の大部分が焼け、そのため会津をはじめとする幕府方や新撰組が都人に憎悪されるきっかけとなった騒乱なのですが……。
しかーし!
これ、そもそもの発端ってなんでしたっけ?
そう、池田屋で多くのチョーシュー浪士らが新撰組に殺され、チョーシューさんはそのクレームつけるために上京したんでしたね?
じゃあ、新撰組はなんで池田屋に踏みこんだんでしょうか?
攘夷浪士たちは、のんびり俳句や狂歌つくって、まったり宴会開いてたんすか?
いんや、ちがいますよね?
やつらは「風の強い日に京のあちこちに放火して、その混乱にまぎれ、帝を拉致る」計画を話し合ってたんでしょ?
なら、ふつう取り締まるでしょ?
「悪質なストーカーにつきまとわれてるんです! コワイんです!」と訴えても、
「でも、まだなにもされてないんでしょ? じゃあ、なんか被害が出たら、また来てください」なんておっしゃるイマドキのオマワリさんだって、
「うちの近所でサリン作ってる困った教団があるんです!」とチクったら、速攻踏みこみませんか?
それともなんですか、「あー、ジョーイさんたち、まだ、なんもしてないんでしょ? じゃあ、火をつけるところ見かけたら、また通報してもらえますぅ?」と言えばよかったの?
ようするに、池田屋でジョーイさんたちパクらなかったら、都は焼けてた可能性が高いんです。
さらに言うと、禁門の変で出火したのは、逃走するチョーシュー兵が追っ手を攪乱するため放火したらしいんですけど!
ま、どっちに転んでもチョーシュー → ファイアーだったわけです。
(そういえばチョーシューって、なにかっちゃー放火するのがデフォなどこかの民族に似てるよね? ちょっとしたことでキレやすいし、なんか日本人ぽくないつーか……あわわわ)
そして、そのころの新撰組はまだ会津藩預で、つよい警察権などは持たされておらず、不逞浪士がいても基本生け捕り路線だったんですが、あちらさんが刀を抜いて抵抗してきたのでやむなく刃を交わしたということも忘れないでいただきたいですな。
なのに……なのに……京都の人たちったら、
「うちらの家が燃えたんわ、幕府の大砲のせいや! チョーシューは朝敵なんかじゃあらへん! 町敵は会津と桑名や!」だとー!?
(出典『江戸時代年表』)
っざけんなーーー!!!
ということで、そろそろお開きにしたいと思います。
では、本日のシメのひとことは、日本が誇るFW・MFの本多圭●氏から。
「逆にお聞きしたいですけど、目の前にテロ計画があって、京都守護職がスルーできますかーっ!?」
―おそまつさまでした―