江戸っ子は会津に期待していた!
(以下グチ:軽~い気持ちで書きはじめたはずなのに、気づいたら卒論の時の何倍も参考文献探しやら現地調査やら……なんかおかしくないか?……ブツブツ……)
てなことで、南柯で使えるかもしれないネタを求めて、日々あちこちをウロウロしているわけですが、昨年末、ネタ探しの一環として、『彰義隊の上野戦争~明治百五十年に考える』というシンポジウムに行ってきました。
このシンポジウムでは、幕末に大量に発行された諷刺錦絵について、ある大学教授(思想史学者)いわく、
・政治的出版物はご法度な時代、戊辰戦争を伝える諷刺絵は慶応4年2月頃から非合法で約150種も作られた(初期30万部も売れた)
・それからわかるのは、庶民はこの戦争を会津vs.新政府と見ていた。
・天皇を擁している薩長は有利と知っていた。
・2月くらいから慶喜にはヤル気がないのを庶民側は察していた。
・彰義隊=義を彰かにする――「義」は武士道最大の徳目「心の清らかさ」。
薩長にはそれがないと庶民も批判的
・上野戦争の帰結は、江戸の庶民にはすごい衝撃だった
・庶民は彰義隊=赤穂浪士と同一視していたため、新政府にとっては脅威だった。
西南戦争で逆賊となった西郷は、明治22年大日本帝国憲法発布の恩赦によって名誉回復がなされたが、彰義隊は明治45年に設置した慰霊碑の文面にも政府が厳しい検閲を加えたほど、新政府は名誉回復を阻みつづけた。
(明治6年まで遺族が仮墓所にもお参りができなかった。明治14年にできた墓には彰義隊の名がない)
――とのことだったのですが、これにはちょっとショックを受けました。
だって、何度も断ったのにムリムリ押しつけられた京都守護職のせいで長州に逆恨みされた会津が、将軍家おひざ元の江戸っ子に「戊辰戦争は会津vs.新政府」と思われていたなんてひどすぎるじゃないですか!?
「ふざけんな!!!」ですよ。
頭にきたので、諷刺錦絵についてちょいと調べてみたら…………あら、案外そうでもないような……?
(参考資料:奈倉哲三先生(跡見学園女子大学名誉教授)著「幕末諷刺画と天皇」)
この本を読んでみると、現代のような自由な取材・報道等が許されなかった幕末期、庶民は当時の情勢をけっこう正確に把握してたっぽいことがわかったのです。
特にすばらしいのが、元治元年七月に起きた禁門の変について、江戸で流行った浮世噺では、
『禁門の変の原因について、「もとは京屋の金公(=孝明帝)があっちへべったり、こっちへべったりからおこったとさ」「全体を言えば京屋の金公が悪いわな」と腰の定まらなかった天皇を批判。あげくに、「ぶばった出来そこねへ」「世間知らずのおさきまっくらの、ふところそだちのはぬもん(はぬもん=跳ね者、軽率者)」と、まったく無遠慮言いたい放題に評していた』(P14より引用)だって!
当時は攘夷=反幕府、開国=佐幕(親幕府)なのに、孝明さんは佐幕攘夷という「どっちなの!?」なワケわからん主張をしていたため事態を混乱させていると、江戸の庶民は気づいていたのです。
さて、諷刺錦絵は、幕末期だけでなく、その前からちょいちょい発行されていました。
有名なところでは、歌川国芳の『源頼光公館土蜘作妖怪図』で、これでは水野忠邦の天保の改革を強烈に諷刺しています。
ところが、将軍や幕閣を諷刺したものはよく目にしますが、天皇・朝廷・新政府に対するものはあまり見たことがありません。
これは明治以降の政府が圧力をかけて秘匿していたからで、実は結構な数の天皇諷刺画があったらしいのです。
(うわ~、やっぱそうだったんだ~!)
で、本日のテーマ『江戸っ子は会津に期待していた!』です。
江戸では、鳥羽伏見直後から会津降伏までおびただしい数の諷刺錦絵が発行されましたが、そのほとんどは旧幕府側・奥羽越列藩同盟側の勝利を期待するものばかり。
とはいえ、江戸っ子=幕府贔屓・保守的だったからではなく、むしろ東征軍・新政府への拒否感がそういう絵を描かせたようです。
この感情のもととなったのは、薩摩御用盗――西郷が指示してやらせたといわれるテロ活動に対する江戸町人たちの激しい憎悪でした。
江戸っ子たちは、強盗らの根城だった薩摩屋敷を焼いた庄内藩や、上方で薩長と戦った会津、それを支援する列藩同盟軍を熱烈に支持し、同盟軍が新政府軍を追い払ってくれることを期待していたのです。
それは会津鶴ヶ城が落城した後も、同盟軍が優勢な絵を発行しつづけるほど切実でした。
つまり、「庶民はこの戦争を会津vs.新政府と見ていた」というのは、ちょっと違うんじゃないかと。
でも、このシンポジウムのおかげで、諷刺錦絵について調べるきっかけになったので行ってよかった~ ♡
ちなみに、この時のパネリストには山口県在住の大村益次郎研究家もいらっしゃって、その方によると、
「大村の好物は豚鍋で、豆腐好きというのは昭和19年に捏造されたウソ」!!!
これは、国民に節約を強いていた太平洋戦争当時、質素な軍神というイメージで大衆の好感度をアップさせるために作られたエピソードなんだとか。
司馬遼太郎はこの捏造された逸話を『花神』で使い、それがバカみたいに浸透してしまったため、「大村=豆腐」になったそうな。
ですから、全国の大村益次郎ファンのみなさん、お墓参りに行くときは、豆腐ではなくて、豚鍋をご持参ください。
そうしていただければ、うちの村田監督も喜ぶはずです ♡
(でも、お供え物はちゃんと持ち帰ってね。昔、知りあいがお墓参りに行った時には、墓所のまわりに豆腐パックが散乱してたんだって)
参照:奈倉哲三先生著「幕末諷刺画と天皇」(柏書房)