庄内藩には勝てる気がしない
昨年くらいから脳内の祭り状態がどうにもならなくなりまして、『現場百遍』――とうとう行っちゃいました!
そもそも庄内藩に興味をもつきっかけとなったのは、
「なんで会津はコテンパンにされたうえ、斗南に一藩まるごと流刑になったのに、最後まで抵抗した庄内はほとんどお咎めなしなのはどうしてなのじゃ?」だったわけですが、行ってみてわかったのは、『庄内藩には勝てる気がしない』ちゅーことですわい。
●根拠 その1
「おい! 十五万石って本当か!? 実際はもっとあるんじゃないのか!?」疑惑
庄内平野。
見わたすかぎり360度青々とした水田。いまは住宅なんかもいっぱいあって、昔より水田も減ってるはずなので、江戸時代には絶対もっと取れたんじゃないのー!?
三方領地替えがらみでちょっと調べたとき、庄内は酒田港での商取引から生じる富で、表高以上にウハウハだったって聞いたけど、コメも十五万石より多かったんじゃないか?
それに加えて、海の幸と海運でザックザクだったら……無敵じゃん!
……やっぱ、会津には海がないのがイタかった。
●根拠 その2
「徳川四天王の末裔なのに、藩学は朱子学じゃない!」事実
寛政二年(1790)、老中・松平定信は『寛政異学の禁』を発し、学問統制に乗り出しました。
これは、数ある儒学の中で、農業重視・上下の身分秩序にうるさく、人々が道徳的修養を積めば、世の中が安定するという朱子学の教えが幕府にとって一番都合がよかったので、朱子学を正学(=官学)として奨励し、当時流行っていた古文辞学・古学を「異学」として規制したのです。
古文辞学は、荻生徂徠が興した儒教古学のひとつで、蘐園学派・徂徠学ともいわれるものです。
学問的には、「道徳と政治を安易に結びつけず、人々の善悪込みの多様な個性を認め、みんなで社会全体の仕組みを考えていこう!」な教えで、朱子学には批判的なものでした。
庄内藩校・致道館では徂徠学、つまり『異学』を藩士教育のベースとしており、徳川将軍の優等生・会津とはやはり根本からちがうみたいです。
ちなみに、戊辰戦争中も藩校では授業がつづけられていたそうです。
そのころ、会津日新館の生徒たちは……(うぐうぐ)……。
●根拠 その3
「他の藩に学んで特産品を作る」「いざとなれば、商人に財政を丸投げ」――武士なのに、名より実を取るしたたかさ。
江戸時代は魚貝類の養殖技術も飛躍的にのびた時代で、広島藩では牡蠣養殖もはじまり、越後村上藩では宝暦十二年(1762)ころから、鮭の養殖が盛んになりました。
村上藩と同じく日本海に面した領地をもつ庄内藩では、村上藩に教えを請い、鮭の養殖に乗り出しました。
で、すごいのは、村上では鮭を加工するとき、内臓を除去する際、腹を完全に割くのは『切腹』を連想させるので不吉だからと、途中を一部つなげた状態(『止め腹』というそうで)にしたのに対し、庄内では潔くパックリ完全に切り開いて処理し、塩引鮭を作ったのです。
(庄内に遡上してくる高級鮭『めじか』(シロサケ)を塩引加工したものを『しょんびき』と呼ぶらしゅうございます)
たしかに、内臓を処理するとき、全部開いている方が効率がいいとは思いますが……合理的っちゃー合理的だけど、武士として気分的にソレでいいのか?
また、藩財政の危機には、そろばん勘定が苦手なオサムライさんの中で何とかするのではなく、酒田の豪商・本間家に(いわばプロに)お任せして乗り切るなど、庄内藩はけっこう合理的かつ柔軟な考えができる藩風ぽいのです。
ま、そのへんの合理性が、戊辰戦争後、敵方の西郷隆盛と親密にお付き合いできる下地だったりするのかもしれませんが……。
(それにしても、つや姫・孟宗筍・だだ茶豆・庄内柿……庄内、うまいものありすぎですぅ! 誘惑に勝てる気がしません!)