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敵ながらアッパレ! 硬骨漢・大原重徳

 大原重徳おおはらしげとみ……っていわれてもー?、と思ったあなた。


 ほら、あの人ですよ、あの人!


 文久二年の島津久光(ニックネームは『芋』)プレゼンツ対幕府クレームツアーに京都から合流したあのお公家さんですよ!


 ということで、今回は、めずらしく筋金入りバリバリ攘夷派公家さんを取りあげてみたいと思います。




「筋金入りバリバリ攘夷派」……当然、ガチガチ佐幕派のワタクシとは水と油のような関係。


 なので、本音をいえば「マジ勘弁」なお方なのですが、一方では裏切り御三家・ヘタレ譜代連中などより、よほど好感をもっているのです。


 それはなぜかといいますと、

「大原はブレないっ!」からです。


 というわけで、まずブレない公家・大原重徳とはどのような人か、おさらいしてみましょう。



 生まれたのは、享和元年(1801)。出生地は当然、京都。


 パパは、権中納言権大原重尹さんという方で、悪相・岩倉具視トモちんと同格の家柄だそうです。


 で、重徳さん自身ですが、まずは光格天皇(孝明天皇祖父)の侍童からスタートし、文化十二年(1815)には昇殿をゆるされ、以後、第百二十一代天皇孝明天皇に引きたてられ、重く用いられることとなります。


 そして、安政五年(1858)、いよいよバリバリの攘夷派人生がはじまります。


 この年、幕府は日米修好通商条約調印の勅許を得るため、老中の堀田正睦、川路聖謨、岩瀬忠震を京に派遣します。


 それに対し、大原重徳は岩倉トモちんら公卿八十八人とデモ活動をおこない(『廷臣八十八卿列参事件』)処分されてしまいます。


 その後、桜田門外の変(万延元年・1860)で対朝廷強硬派の井伊さまがアボンなさって復権。


 文久二年、島津久光くんといっしょに江戸へ下向し、薩摩の軍事力をバックに「攘夷決行」「一橋慶喜(あだ名は「豚一」)を将軍後見職に、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に!」を要求し、承諾させました。


 帰京したあとは、国事御用掛こくじごようがかりに就任。


 文久三年、こんどは長州藩による薩摩藩ディスり勅書を改竄し、辞職。


 元治元年(1864)赦免。


 慶応二年(1866)親幕派の中川宮(久邇宮朝彦親王くにのみやあさひこしんのう、しょっちゅう名前を変えるのでホント迷惑な人)・二条斉敬(日本史上最後の関白。人臣最後の摂政。ちなみに今のところ最後の摂政は、大正天皇皇太子裕仁親王・のちの昭和天皇でございます)らの追放を試み、失敗して幽門されるも、のちに赦免。


 明治元年(1868)従二位・権中納言に。


 参与・議定など新政府の役職を務めた後、明治十二年(1879)薨去(享年七十九歳)


(以上、ウィキペディア「大原重徳」より)


 という徹底したジョーイ派人生を歩んだ大原さん。


 一見、ガチ佐幕派とは決して相容れないような為人ですが、じつはこの方が倒幕後におっしゃっていた言葉に、ワタクシは深く胸をうたれたのです。


 その言葉が載っていたのは「幕末の将軍」(講談社選書メチエ、著・久住真也)という本で、これによると、大原さんは、


「薩長は、かつて孝明天皇が主張した鎖国方針によって幕府を倒したくせに、倒幕直後の慶応四年(=明治元年・1868)二月と三月、イギリス・フランス・オランダ三公使の御所への参内をゆるし、明治天皇に謁見させた」ことにブチ切れ、新政府議定職の松平春嶽に涙ながらに抗議したというのです。


いわく、


「ただただ徳川氏へ対せられ御不都合と存じ候」


 意訳:「いままでさんざん徳川を「ジョーイ!」「ジョーイ!」言ってイビっておきながら、倒幕したとたんに何? こんなマネして朝廷(=新政府)は徳川さんに顔むけできるの!?」


 ジーーーン。


 な、なんという正論っ!


 こんな真っ当なことを、攘夷派の公家さんがー!?


(うっうっ……めちゃくちゃうれしい……)


 そう、大原さんのいうとおり、薩長はじめ朝廷はことあるごとに「攘夷決行っ!」を迫り、また、何をどう説明しても聞く耳をもたず、二言目には「で、いつ攘夷すんの?」攻撃でとことん幕府を追いつめたんですから!


 とくに、十四代将軍・家茂くんは執拗に繰り返されるこのメンタル攻撃に、泣きながら「もうこれ以上ムリ! 将軍やめます! なんで、あとはもう好きにして!」と、辞表をたたきつけたんです。

(でも、認められなかったけどね……グスン……)


 結局、家茂くんはこのストレスでボロボロにされ、二十一歳という若さでアボン(哀)


 つぎの十五代将軍、あのふてぶてしい慶喜くんでさえ、朝廷側のしつこいイヤガラセに相当メンタルをやられ、ついには不眠症となり、松本良順先生にアヘン(!)を処方してもらって、久しぶりにぐっすり眠ったというエピソードがあるくらい、朝廷の「攘夷イジメ」はすさまじいものでした。



 それなのに、慶応四年二月・三月に外国公使を引見?


 二月・三月といえば、まだ江戸城開城してないだろ!?


 会津も東北諸藩もまだ蹂躙されるまえですよ!


 それが、よくもまぁこんな恥知らずなことをーっ!



倒幕派おまえらには、1ミリの羞恥心もないのかー!!!」



 その後の日本のたどった道を考えると、大原さんのようなブレない忠臣がいなくなったことで、今日の絶望的な状況――2600年つづいた皇統断絶の危機――が生まれたような気がします。


「重さーんっ! カムバーック!!!」

大原家の家格等につき、五反田猫さまより貴重なご指摘をいただきました。

あらためて御礼申しあげます。

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