熊本応援企画――『肥後の鳳凰』細川重賢
金も体力もなく……熊本・大分のみなさん、本当にすいません。
これぐらいしかできなくて……。
細川重賢は肥後熊本藩の第6代藩主で、かの上杉鷹山が自らの治世の手本とした名君です。
公は享保五年、第四代藩主・宣紀の五男として生まれ、はじめは長岡紀雄と名のっていました。
(※細川さん家は「細川」姓とともに「長岡」姓を併用することが多く、いま開催中の国立公文書館「家康展」関ヶ原配置図では、先祖の細川忠興も「長岡忠興」と表記されています)
五男ということでわかるように、重さまは、長らく部屋住みのビンボー生活を送っていました。
では、どれくらいビンボーだったかというと、重さまのお部屋はほとんどメンテナンスもしてもらえず、畳はいつもささくれ立ったりところどころ破れたまま数年放置。
おこずかいも満足になかったので、どうしても読みたい本があるときは袴を質入れして(!)金を工面し、本代に。
お腹がすくと庭の雀を取っ捕まえて、焼いてムシャムシャ。
「あら、しょうゆ切らしちゃった」なときは家来に借りる(……長屋のオバチャンじゃないんだから……)などなど、およそ肥後五十四万石の坊ちゃまとは思えない生活を送っていたのでした。
しかし、このビンボー生活は思わぬ形で終わりを告げます。
それは五歳年上の兄・宗孝が子どもを残さず急逝したためでした。
しかも、その死因が殺人っ!
ときは延享四年(1747年)八月十五日。
この日は月例拝賀――江戸在府大名・旗本の総登城日。
というわけで、肥後藩第五代・細川宗孝も家紋入り裃を着用し、いつものように登城。
お殿さま方は登城するとまず『殿席』というウェイティングルームに通され、将軍さまとの面会を待ちます。
そして、細川家の殿席は大広間。
すると……なんということでしょう!
宗孝は大広間近くのトイレで、いきなり背後から斬りつけられ、殺されてしまったのですっ!
犯人は六千石の大身旗本・板倉勝該。
勝該は日ごろからちょっとイッちゃってる人で、板倉本家内でも「あいつでホントにだいじょうぶなのか? やっていけるのか?」と話題になっていたようです。
(勝該は前年十二月、兄のあとをついで当主になったばかり)
というわけで、「板倉本家が勝該を隠居させ、本家の庶子を押しこもうとしている」というウワサがあったとかなかったとか。
それを聞きつけた勝該は「ざけんな、ぶっ殺してやる!」と、板倉本家の大名を襲撃――のつもりが人ちがいで、重さまの兄つぁま・宗孝さんを斬殺してしまったのです。
うわ、理不尽……(涙)
なぜこんなまちがいが起きたかというと、なんでも板倉家の家紋「九曜巴」と細川家の「九曜星」紋がよく似ており、とくにうす暗いトイレ内では見分けにくかったためといわれています。
ところが一説によると、これは人ちがいではなく最初から宗孝さんがねらわれていたという話も。
なんでも旗本板倉家と細川家のあいだにはいわゆるご近所トラブルがあって、その恨みがつのったあげく犯行におよんだとか。
いまとなっては真相はわかりませんが、すくなくとも宗孝さんは「江戸城のトイレで殺された大名」という残念なイメージで後世に名が残るハメになったのでした。
それはさておき、加害者側の板倉家は自業自得でさっくり取りつぶしでよいのですが、問題なのは細川家の方。
例の松の廊下刃傷事件とその後の赤穂浪士討ち入りにより、以後、殿中での刃傷事件はすべて喧嘩両成敗になっていました。
ってことは、当然、襲われた側の細川家も……。
しかも宗孝さにはまだ跡取りがおらず、無嗣断絶もまぬがれない。
と、そのとき、まったく関係ない仙台藩主・伊達宗村さんが、
「ちょいまて! まだ息があるぞ!」
「「「いやいやいや、脈ないし! 完全に逝っちゃってますよ!」」」
こと切れた細川さんを囲んでいたみなさんは、ダテっちのイミフ発言にビックリ仰天。
と、(バカ、生きてることにして、なんとかするに決まってんだろ?)なコワイ眼でにらまれ、やっと気づいた面々は、
「「「おお、なるほど~」」」と納得したあと、
「だれか熊本藩の駕籠を! 越中守殿が大けがを負われた!」
「傷は浅うございます! しっかりなされ!」
「これ、傷にさわる。もそっと丁寧にあつかわぬか」
「なんとか助かるとよいがのー(棒)」
などなど、クサい芝居をしつつ、中之口まで入れられた駕籠に死体を押しこみました。
そんなこんなで、殿中でとっくに死んでいた宗孝さんは翌日死亡したことにされ、その家督は急きょ末期養子手続がおこなわれた重さまが継ぐことになったのです。
さて、ビンボー部屋住みから一転、五十四万石の太守となった重さまですが、思うほどしあわせいっぱいではありませんでした。
なぜなら熊本藩は、先々代の重パパこと宣紀のときにすでに四十万両の借金、兄・宗孝時代には凶作による収入減と寛保二年の江戸洪水後に課せられたお手伝い普請などで、藩財政はすでに破たん状態だったのです。
それを示すエピソードとして、当時ちまたでは、
「鍋釜の金気を落とすに水はいらぬ。細川と書いた紙を貼ればよい」とプゲラされていたほど。
ということで、重さまは藩主就任早々、財政再建・藩政改革に取り組むことに。
まず最初にやったのは資金調達。
そこで奉行たちを大坂に派遣し、鴻池などの有名な豪商に借金の申しこみをしましたが、
「借金? 熊本藩絶対返せないでしょ。そんなヤバイところに貸せませんわ」と、門前払い。
しかたなくお奉行さまは、当時新興商人だった加島屋(「あさが来た」の浅ちゃんの嫁ぎ先・加野屋のモデル)と交渉し、どうにか資金を確保しました。
その一方で、「時代はすでに米から商品中心の経済にかわっている!」と悟った重さまは、楮(和紙の原料)・生糸・櫨(実は蝋の原料。樹皮は染料になる)など商品作物の生産を奨励し、藩主導で蝋の製造販売を手がけ、増収をはかりました。
また従来の米生産にも力を入れ、新田開発・用水路の整備・検地による年貢の見直しなどをおこないつつ、飢饉にそなえた備蓄も実施。
重さまの改革は目先の財政再建にとどまらず、将来を見越した人材育成にもおよび、藩校『時習館』を設立。
ここは身分に関係なく入校が許され(ただし特別な許可が必要)、身分制がきびしく藩校はおもに藩士の子弟、しかも藩によっては上士階級のみに限られていた当時としては、教育の機会を領民や藩外の青年にもゆるす画期的な方針で、さらに奨学金制度までもうけるといった手厚い施策。
また、わが国初の藩立医学校『再春館』(三十歳からのドモ●●●~じゃないよ)も開校。
こうした数々の改革の結果、まっ赤々だった財政は好転し、表高五十四万石の熊本藩は、幕末には実高百万石を誇る超リッチ藩に変身!
そして、重さまは天明五年十月、江戸でご逝去。
享年六十六歳――生涯ぜいたくとは無縁で、自ら率先して倹約につとめ、つましい生活をつらぬいた一生でした。(胸熱)