前代未聞、脱藩大名っ!【壱】
ずいぶんごぶさたしていた佐幕派応援キャンペーン第五弾です!
(……けっして本編から逃避してるわけじゃ……ごにょごにょ……ほら、「四」で終わると縁起が悪いし……ごにょごにょ……ノリとか気分とかも大事にしなくちゃ……ごにょごにょ……)
本日のお題【脱藩大名】
なんというインパクト無限大なひびき!
で、それはだれなのかといいますと、上総請西藩一万石の林忠崇というお殿さまです。
忠崇は嘉永元年(1848年)、初代請西藩主・忠旭の五男として生まれました。
嘉永七年(1854年)四月、パパがなぜか突然隠居。
このとき忠崇の兄はすでに亡く、忠崇もまだオコチャマだったので、叔父が家督を相続しました。
ところが、この叔父ちゃんも慶応三年(1867年)伏見奉行として上方に単身赴任中、任地でポックリ。
まだ二十三歳という若さでした。
そして、その遺児がオコチャマだったので、今度は甥の忠崇が家督を相続することとなったのです。
さて、そもそもこの林家は江戸時代後期まではずっと番方をつとめる旗本でした。
それが忠崇の祖父にあたる林忠英が時の将軍家斉に気に入られ、加増につぐ加増で三千石→一万石超え。
イコール大名入り!
てなことで、上総貝淵藩がさくっと成立。
このおじいちゃん、最終的には一万八千石までいったのですが、オットセイが亡くなったとたん、家慶と水野忠邦に「三佞人」のひとりと決めつけられ、若年寄罷免・八千石没収という憂き目に。
プラス「もう年なんだからどうぞごゆっくり」と強制隠居のおまけまで。
そんなこんなで、藩主の座は忠崇のパパ忠旭に移ったというイキサツがありました。
そして、この忠旭の代に陣屋が貝淵から請西に移ったことで「請西藩」と称されるようになり、幕末を迎えるのです。
つまり、林さんちはけっこうピカピカの新興大名だったわけですな。
とはいうものの、この林家は徳川将軍家にとって、由緒ある大切な一族でありました。
それは、幕末からさかのぼることかれこれ五百年ほど前の室町時代初期、三河の国に松平親氏という武将がおりました。
はい、名前を見ておわかりのとおり、「このオッサンこそ徳川家のご先祖さま!」と家康などは主張しているのですが、どうやらフカシらしく……本当は……。
(この先はご想像にお任せします)
ところで、みなさん、お時間があったらウィキの「松平親氏」をのぞいてみてください。
「え!? これが(盛った方の)ご先祖!? いやいやいや、仕官前の木下藤吉郎だろ!?」とのけぞるような画像が貼ってありますぞ。
(……すいません、横道にそれました)
で、この親氏がパパの有親とともに乱を避け、信州の知り合いのもとに逃れたことがあったのです。
ふたりが訪ねていったのが、例の林さんのご先祖宅。
ときは十二月末――もうすぐお正月というころ。
でも、じつは林さんのお宅も苦しい生活をしており、遠方から来た客をもてなす用意ができない状況でした。
すると、この林さん(光政)、雪山に分け入り、どうにかこうにかウサギを一匹ゲット!
なので、さっそくこれで雑煮を作り(吸い物仕立てであったそうな)、ふたりにふるまったのでした(ああ、なんてハートフルなお話♡)
その後、松平の家運は妙にアゲアゲに転じ、
「もしかして林っちのウサギ汁が、松平のラッキーフードだったんじゃね?」
ということになり、代々徳川家では林家から献上されたウサギの羹(吸い物)を喫することで一年がスタートするようになったのです。
そして、この将軍さまのお下がりを一番最初に賜る誉れは、ウサギを献上した林家当主に与えられるのが恒例になったのです。
(「ええ!? 他人が口つけたものをー!?」などと言ってはなりません。
将軍さま御流れを最初にいただけるなんて、江戸期の武士にとってはとんでもない名誉なんですっ!)
これは旗本時代から大名にランクアップしてからもかわらぬ、林家だけに与えられた特権でした。
というファミリーヒストリーがあったためなのか、忠崇は脱藩大名という茨の道を選択するのでした。
――つづく――