南町商店街は残念ながら手遅れです ――時雨と夏希の場合――
『4月18日の午後9時頃、南町小学校前を歩く下着姿で不審な男性が目撃されました。男性は30代前半、身長は180cm前後で女性物のレース地の下着を着用していた模様です』
そんな張り紙が、南町商店街の掲示板に張り出されたのは、ある穏やかな春の日のこと。
祖母の営む店で店番をしていた夏希は、「やばい張り紙がある!」と騒ぎ出した近所の人々の声に導かれ、その張り紙の前に祖母と一緒にやってきた。
そこには多くの人々が詰めかけており、彼らはみな一人の男の名を口にしている。
「これ、時雨さんじゃないのかい?」
「でも時雨さん、露出は趣味じゃないって言ってたじゃないかい」
「いやいや時雨は本物の変態だ。いつ一線を越えてもおかしくないよ」
騒いでいるのは、南町商店街に店を構える者や訪れる客達。その間を縫って夏希が掲示板を眺めていると、それに気づいた周りが彼女に目を向けてきた。
「ねえなっちゃん、これ時雨さんじゃないわよね」
「時雨さん、最近なっちゃんのお店で白いレース地の下着とか買ってない?」
夏希に声をかけてくるのは主におばちゃん達で、その勢いに夏希は思わず苦笑した。
「年齢と背格好は時雨さんっぽいけど、たぶん違うと思うよ」
それから張り紙を丹念に読み直し、夏希は2度、小さく頷く。
「うん、やっぱり違うよ。だって時雨さん、白いパンティー嫌いだもん」
好みは黒。紫でも可。水色は割と好きでピンクはまあ許せる。
そう豪語していた男の顔を思い出して頷くと、不意に夏希の背後に立っていたおばちゃん達がさっと退いた。
どうしたのだろうかと振り返り、そして夏希は不機嫌な男の顔に視線を絡め取られた。
「人の好みを公衆の面前でバラすな」
そう言って腕を組むのは、不満げな顔でさえ絵になる、息をのむほどの美丈夫だ。
仕立てのいいスーツを嫌みなく着こなす長身も相まって、夏希を除いた周囲の女性達の視線を、彼は次々に奪っていく。
「好みの色ぐらいどうってことないじゃない。もっとバレちゃいけないこと、この商店街の人たちはみんな知ってるし」
「だとしてもだ」
それから男は夏希から掲示板へと視線を移し、整った顔に嫌悪の表情を貼り付ける。
「下着一枚でうろつくなんて無粋な男だな」
「と言うことは、これは時雨さんじゃないんだ」
夏希が尋ねると、男……時雨は、どこか拗ねたように夏希からぷいと顔をそらす。
「俺をこんな変質者と一緒にするな」
「いやでも、時雨さんはすでに完全なる変態だし」
「俺に露出の趣味はない。下着は服の下に身につけるべき物だし、それを目にするのは恋人と家族に限定すべきだ」
「とか格好良く言ってるけど、今日もそのスーツの下はいつもの奴なんでしょう」
「ああ、先週お前に勧められたサルートの薔薇のTショーツだ」
これはなかなかいい。
と頷く時雨の声に、今まで彼に見とれていたおばちゃん達がはっと我に返る。
「相変わらず、時雨さんはよどみないね」
「イケメンなのに、本当にもったいないよねえ」
しみじみとうなずき合うおばちゃん達。
まったくだと夏希も思うが、当の本人はそれにひるむことも憤ることもなく、ただたださわやかな笑顔をうかべている。
「むしろもったいないのはこのショーツの方だ。本来ならば女性の肌に触れるはずが、俺のような男にはかれてかわいそうに」
でも脱がないけどな。と言いきる時雨に小さくため息をつき、夏希は彼を見上げる。
「そういえば、品切れだったブラの方も届いたけど試着してく?」
「いいのか!」
「それで外を歩かなければ」
「何度も言わせるな。俺は下着で徘徊する趣味はない」
「でも私の家ではうろうろするじゃない」
「だってお前は下着屋だろう」
下着屋で下着を試着して何が悪い。
そう言い切る時雨に、下着は恋人にしか見せないんじゃないのかと夏希は心の中でつっこんだ。
【南町商店街は残念ながら手遅れです ――時雨と夏希の場合――】
鷺宮時雨。
初めてそう名乗ったときも、彼は下着姿だった。
夏希が時雨と初めて会ったのは、夏希の家の居間で、彼が祖母と真剣な顔を突き合わせ、下着の試着をしていた時のことだった。
最初に目がとまったのは、男らしさと優美さを兼ね備えた彼の整った顔立ち。それから鍛え上げられた腹筋に目をとめ、そのままさらに視線を下に向けて、そして夏希は後悔することとなる。
「ねえなっちゃん、男の人にはやっぱりTバックの方がいいわよねえ」
とのほほんと尋ねてきた祖母に思わず目を見張り、それからこちらをじっと見ている時雨の顔にもう一度見とれてから、夏希の頭はようやく状況を理解した。
「お客さん……?」
尋ねた夏希の顔は思いの外冷静で、むしろ時雨の方が少し驚いた顔をした。
それをみて夏希がさらなる落ち着きを取り戻したのは、彼女にとってこのような珍事は日常茶飯事だからだ。
彼女の家である『ランジェリーショップ柳』がある南町商店街。
東京の下町にある、少しレトロなこの商店街には、少々変わった一面がある。
それは、商店街に店を構える者達の殆どが「変わった趣味、もしくは性癖」を持っていると言うかなり特殊な一面だった。
もちろん誰かが集めたわけでもないし、彼らの営む店も表向きは普通の物。
八百屋、肉屋、魚屋、婦人服や祖母のような下着を扱う服飾店、そしておもちゃ屋、本屋、金物屋などなど置かれている商品も店の趣も、ちょっと古びてはいるが、ごく普通である。
ただし、それを営む人々はちょっと……いやかなり普通ではないのである。そしてその奇妙な点は、夏希が生まれるずっと前から商店街の裏のトレードマークになっているようで、そのことに頓着する者は今では誰もいないという有様だ。
しかしその趣味は多岐にわたり、中にはちょっと危ない物もある。
たとえば八百屋の親父さんはスクール水着を着るのが趣味で、肉屋のおばあちゃんはもう78歳だが現役のSMの女王様。
金物屋の奥さんは他人の爪を集めるのが好きで、靴屋の夫婦はUFO観測に日々熱を入れている。オモチャ屋のおじさんは自称悪の天才科学者で、暇さえあれば店の裏手の空き地で謎のロボットを組み立てているし、その隣の本屋の亭主はオカルトマニアが行きすぎて、ネットで買ったカッパのミイラを毎晩抱いて寝ているらしい。
といった、多種多様で少々変質的な趣味趣向を持つ者達が、なぜだかこの南町商店街には集まってしまっているのだ。
そんなところ25年も住んでいるのだから、女性の下着姿の男を見てもさほど驚くことはない。
故に夏希はものの数分で、この状況を受け入れてしまったのである。
「っていうか、パンティの試着はだめじゃなかった? それに試着ならお店でやりなよ。こんな寒い所じゃ、お客さん風邪引いちゃうよ」
そんな事をうっかり祖母に進言すれば、なぜだか客の方がしんみりした顔をする。
「すみません。履いてみないとわからないというおばあさんの言葉についつい甘えてしまって……。それに自分は体格がいいので、お店の試着室だとかなり窮屈で」
だから上げて貰ったのだという時雨に、夏希は店の奥にぽつんと置かれた小さな試着室を思い出し、考えを改める。
祖母の店で扱っているの下着の殆どは女性物で、そもそも店の自体もとても小さいため、試着室は女性用のひどく手狭な物のだ。
彼のような体格では、試着はおろか物色さえ困難だったのだろうなと考えて、夏希は思わず笑ってしまう。
こんな格好のいい人が、体を小さくしてブラやパンティを物色する姿はなかなかに滑稽だ。
「じゃあせめて温かいお茶でも入れてあげなよ」
それから来客用の湯飲みと茶菓子を用意して戻ると、彼は先ほどとは違うパンティをはいていた。
まじまじと見るとはやり滑稽だが、相手はお客様だし、他人の趣味趣向を鼻で笑うような無粋なまねだけはするなと、夏希は小さい頃から繰り返し教えられてきた。
それに八百屋のおじいちゃんのスクール水着姿を毎日のように見せつけられている夏希としては、むしろ彼の姿は目の保養の域だ。
やはり裸と筋肉は若い男に限る、なんて事を思いながらお茶を出したとき、彼は静かに礼を言い、そして夏希に微笑んだ。
「鷺宮時雨です。以後よろしくお願いします」
以後と言うことは、これからも店に顔を出すと言うことだろう。そんな事を考えながら、夏希も頭を下げる。
「こちらこそ、ごひいきのほどよろしくお願いします」
お金も持ってそうだし、彼はいい上客になるだろう。
夏希が最初に抱いたのはそんな感想だったが、まさかそれからほぼ毎日、彼がこの店に来るとはさすがの彼女も思っていなかった。
■■■
そんな出会いから早1年。
堅苦しい口調もとれ、すっかり気さくな間柄となった二人は、今日も下着の試着に精を出していた。
「うん、やはり少しきついな」
「そもそも女性物だからね。時雨さんの厚い胸板にそうそうフィットはしないよ」
時雨がこの店に顔を出すようになったあと、彼のためにと改装された広めの試着室。
その中で夏希はブラを片手に、見慣れた下着姿の時雨を眺めていた。
今日はブラだけなので下はスーツのままだが、それでも見た目のインパクトは相当な物だ。
けれど夏希は大して驚くことも笑うこともなく、彼が外すのに苦労しているホックに手をかける。
「もう一つ大きいサイズにしようか。カップにボリュームがあるから服の下に着ると目立っちゃうけど、つけ心地はたぶんそっちの方がいいと思う」
背伸びをしながら時雨のブラを外し、そしてもう一つ大きなサイズのブラを彼女は手渡す。
「たしかに、これだと膨らみが目立つな」
「そもそも、ブラって膨らみを目立たせる物だからね」
「しかし会社に着けて行くには少し……。だがやはり、このデザインは可愛いし……」
形のいい眉をひそめて悩む時雨に、夏希はどうでもいいけど早く決めてくれと内心思う。
掲示板の前で彼に遭遇してから、もう1時間はたっている。
けれど時雨はこの悩んでいる時間が何より楽しいらしく、毎度の事ながら物色はなかなか終わらない。
現にブラを真剣に見つめる時雨はそれはもう嬉しそうな顔で、それに水を差すのは忍びないと夏希は毎回思ってしまうのだ。
そして仕方なく試着室の角に置かれた丸イスに腰を下ろした夏希は、嬉々としてブラを選ぶ時雨をボンヤリ眺めて、ただひたすらに待つ。
それからきっかり35分後、ついに時雨は心を決めたらしい。
「うん、やっぱり少しきついが小さい物にしよう」
女物のブラをつけているとは思えないさわやかな笑顔で夏希を振り返り、時雨はそう宣言する。
「お買い上げありがとうございます」
「これ、つけていってもいいか?」
「じゃあ、ヒモの長さを調節してあげる」
あたり前のように彼の笑顔を受け入れて、夏希は時雨のブラヒモに手を伸ばす。
だがそのとき、突然彼が夏希の指先をつかんだ。
「そうだ夏希、お前このあと時間あるか?」
「ないよ。店番あるし」
「そのあとは?」
「寝る」
「なら、問題ないな」
嬉しそうに微笑む時雨に何事かと眉をひそめていると、彼は脱ぎ捨てたジャケットから野球のチケットを引っ張り出す。
「一緒に行こう」
「だから、店番が」
「美智子さんに許可は貰ってる」
「でも、眠いし」
「帰りは俺の車で送る。眠くなったら好きなだけ寝てもいい」
だから行こう。
と、ブラ一枚で詰め寄る時雨に、夏希はうっかりたじろぎ、そして頷いてしまう。
すると時雨は嬉しそうに笑い、もう一度夏希に背を向けた。
「じゃあ、ヒモを調節してくれ。あ、少しゆるめに頼むぞ」
「つけたまま野球観戦するの?」
「問題あるか?」
「服は脱がないよね?」
「何度も言わせるな。俺は変態だが変質者じゃない」
そう豪語する時雨に、夏希は黙って彼の肩紐を調節するほかなかった。
■■■
たとえ履いているのが女性物のパンティでも。
白いシャツの下にはパツパツのブラをつけていたとしても。
それを服で隠した時雨は異性どころか同性の目も引くイケメンなのだと、彼と出かける度に夏希は痛感する。
少女漫画やドラマでよくある「あのひと格好良くない?」「ホントホント、声かけてみようよ!」的なやり取りは真面目に存在するのだと、夏希は彼と出会って初めて知った。
「時雨さんって、なんか存在が異次元だよね」
多くの視線を交わしながらたどり着いた東京ドーム。そのバックネット裏の席に腰を下ろした夏希は、途中で購入したビールとホットドッグを抱えている時雨をボンヤリと見上げ、そんな言葉を口からこぼした。
こうしていれば……、というか下着を服で隠していれば、彼は本当にいい男だ。
夏希も年頃の、そしてごく普通の女子なので、彼とこうして出かけられるのが少し誇らしいくらいでもある。もちろん、そんな事はおくびにも出さないが。
「俺からしたら、お前の方がよっぽど異次元な存在だけどな」
「私、南町商店街では数少ない無趣味な常識人だよ」
「だからよけいに、スク水姿のじいさんや、俺の下着を見てああも平然としていられるその神経がわからん」
「見慣れてるしね」
「見慣れてても普通驚くだろ」
「でも、スクール水着でしょ。私だって昔着てたし」
「お前が着てても問題はないだろう」
「そういえばそうか」
でもやっぱり、小さい頃から見慣れたその光景はきっと今後も夏希の日常で、驚いたり困惑したりすることはない気がする。
「あれだね、人間ってどんなことにも慣れる生き物なんだね」
「そんなしみじみ言うことか?」
「うん。今だって、高橋がホームラン打つことより、時雨さんのブラのヒモがきつくないかどうかの方が気になってるくらいだし、そんな自分にしみじみする以外どうすればいいかわかんないし」
「一応言っておくが、お前のおかげでかなり快適だ」
「ならよかった」
そう言って、夏希は時雨が買ってくれたホットドッグを食べる。
有り体な味だが、場の雰囲気のせいかまずくはなかった。
それに気をよくして口を動かしていると、不意に時雨が彼女の方に身を寄せる。
「なあ夏希」
「ん?」
「明日も、店に行っていいか?」
突然そんな事を言い出す時雨に、夏希はホットドッグを軽くのどに詰まらせる。
「構わないけど、何で今更そんな事聞くの?」
「さっきの会話でふと思ったんだ。お前は、変態に慣れてるんじゃなくて、変態への不快感に慣れてるんじゃないかって」
どういうことだろうかと時雨を見上げると、彼はドームにひしめく観客達に目を向けている。
「こんなに沢山人がいるのに、よりにもよって自分の隣に座る男がシャツの下にブラジャーしてる変態とか、普通嫌だろうなと今更思った」
本当に今更だなと思いながら夏希がさらにじっと時雨を見ていると、彼は彼女をちらりと伺う。
「でもお前はそんな事をおくびにも出さないし、我慢している風もない。だからもしかして、本当は嫌だけど、日頃の慣れのせいでその嫌な気持ちに気づけてないんじゃないかと思ってな」
柄にもない真面目な口調に、夏希も彼の言葉を真摯に受け止める。
だがしかし、改めて考えても不快感や嫌悪感はやっぱり感じない。確かに幼い頃は風変わりな人々に驚いたこともあったけど、商店街の人は皆優しかったし、隣に座る時雨も、こうして夏希を外に連れ出したり、一緒に買い物をしてくれたりととても良くしてくれている。
その優しさは、彼らの性癖と天秤に乗せる物ではないというのが小さい頃からの夏希の信条で、それも今は変わらない。
「やっぱりそんな事はないと思うよ。今も、結構楽しいし」
「けど俺は、変質者の張り紙が出たら一番に疑われるような男だぞ」
拗ねた口調に、夏希は時雨が柄にもないことを言い出した理由に気づく。
たぶん時雨は、あの張り紙の男と間違われたことが地味にショックだったのだろう。商店街の人達も、ああ言いつつ彼が犯人だとは思っていなかっただろうが、それでも少なからず彼は傷ついたのかもしれない。
拗ねた口調と視線からそれを感じ取った夏希は、大丈夫だよと彼の肩を叩く。
それでも意固地になってうつむいている彼に、夏希は思わず苦笑し、そして彼を励ますために少々乱暴な手に出た。
彼女はさりげなく時雨の襟元に手を突っ込み、突然彼のブラのヒモを思い切り引っ張ったのである。
「時雨さんは今のままでいいよ。だって見かけ通りの真人間だったら、こんな事もできないでしょ?」
そのまま勢いよく手を放せば、パチンという小気味いい音と、イテッと呟く時雨の声が響く。
「私、時雨さんのそういう顔好きなんだよね」
「そういう顔?」
「ブラヒモを、パチンッてしたときの顔」
「もしかして、お前には加虐的な性癖があるのか?」
「ないと思うよ。だって、いいなって思うのは時雨さんだけだし」
「そういうことを言うと、誤解するぞ」
「しないよ。だって時雨さん、女の子嫌いじゃない」
見た目はさわやかだし人当たりもいいが、彼は常に人との間に壁を作っている。
特に女性に対する壁は高く、その分厚さを夏希がそれとなく示唆し、そして時雨がその理由をぽつりとこぼしたのはもうずいぶんと前のことだ。
できすぎた容姿故に、時雨は幼い頃から多くの人に性的な目を向けられ、襲われたことも一度や二度ではないらしい。
それは小さな頃から彼の日常で、実の親にさえその手の行為を強要されたことがあったらしく、彼はずっと人を恐れて生きてきたのだ
ちなみに下着好きになったのも、その切ない過去が理由らしい。
『服をはぎ取られても、これをつけていれば萎えてくれるかなって思ったんだ』
という理由で下着を着けたのは時雨が16の頃。
そしてその効果はてきめんで、気をよくして毎日身につけていたところ、今度は女性用下着特有の心地よさが、クセになってしまったらしい。
それから更に15年、彼は人目を忍んで下着を買いあさる生活を続け、そしてたどり着いたのが夏希の祖母の店だったのだ。
彼の目立ちすぎる容姿では、普通は試着はおろか店に入るのも難しい。
けれど自分の趣味を打ち明け、つきあってくれるような彼女にも出会えずにいたとき、彼は寂れた商店街の小さな下着屋に目をつけたのだ。
ここならば断られても大した痛手はないと思い、半ば追い出される覚悟で試着をしたいと申し出て、そして快くどうぞと言われたときは天にも昇る気持ちだったらしい。
以来彼は店の常連となり、親交を深めて行くにつれてぽつぽつとだが自分のことを話し出した。
それは正直夏希には重すぎる話だったが、自分のことを語るにつれて少しずつ解れていく時雨の表情に、いつしか彼女は率先して彼の話の聞き手に回るようになっていたのだ。
「確かにお前の言う通り苦手意識はまだある。だが最近はだいぶマシになったんだぞ。お前や、あの商店街の人は好きだし」
「時雨さんはもの好きだね」
「だって、みんなは俺を変態だって言ってくれるし……」
と続いた理由には思わず吹き出したが、時雨的にはかなり真面目な言葉だったらしい。
「変態だって言われるのは、結構気持ちがいい」
「でも、張り紙の男に間違われるのは嫌なんでしょう?」
「俺は変質者ではなく変態だ。そこは間違えないでほしい」
「その主張、あんまり大きな声で言わない方がいいよ」
「だからこうして小さな声で主張しているんだろう」
時雨の唇が耳に近づいていたのは配慮のせいだったのかと納得し、夏希は鼓膜を振るわせる無駄にいい声にくすぐったさを覚える。
「そういえば、会社でばれそうになったりしない?」
「常にスーツを着ているから問題ない。まあ、正直バラしたいと思うときもあるがな」
僅かに曇った顔を見た限り、たぶん色々と苦労も多いのだろう。彼が働いているのは大手商社だし、下着にかける金額の多さから察するに、給料もそれなりに貰っているはずだ。
その上この容姿である。若い頃よりは人あしらいが上手くなったと彼は言うが、それでも言い寄られることは多いに違いない。
「モテモテなんだね」
「全く嬉しくないけどな」
全く、と言う部分に強く置かれたアクセントから彼の苦労を感じ、夏希はそれ以上は尋ねなかった。
代わりに食べかけていたホットドックにかぶりつき、それからいつの間にかピンチに陥っていた、巨人軍の名も知らぬ投手を見つめる。
別に巨人ファンではないけれど、東京在住だしと言う理由だけで何気なく応援していると、突然肩の辺りに視界を感じた。
何だろうかと横を向くと、時雨が妙に真剣な顔で夏希を見つめている。
「こんな時に言うべきでないのは百も承知なのだが……」
先ほどよりさらに声を潜めて、時雨は形のいい唇を再び夏希の耳に近づける。
他意はないとわかっていても思わずどきりと弾む胸を抑え、夏希は努めて冷静な声で「何?」と聞き返す。
「先ほどから、それがきになっているんだ」
「それ?」
「……お前のブラだ。そして今、俺は猛烈にそのブラの全容が見たい」
声音は震えるほど真剣で、熱のこもった言い方はまるで愛の告白でもしているかのようだ。
だがいかんせん、言っていることは変態のそれである。
「……その青い肩紐の先が、気になってしかたがないんだ」
熱っぽい視線にため息ををかえし、夏希はジト目で時雨を見つめる。
「ワコールの、普通の奴だよ」
「でも肩口のお花が凄く可愛い。だから色々見たい、というか触りたい」
時雨の視線をたどり、夏希は白いシャツの合間からちらりと見えている、自分のブラの肩紐に目をとめた。
「女の子と2人きりなのに、時雨さんは肩紐しか見てないの?」
「夏希だって、俺のことろくに見ないじゃないか」
「だって見に来たのは野球だし」
時雨さんも見るなら選手にしなよと言うと、彼はブラをつけない人種に興味はないと言い切る。
「じゃあ何で、野球に誘ったの?」
「そりゃあ、お前と出かけたかったからだ」
「私と出かけたいっていうか、出かけた先で私の肩紐が見たかったんでしょ?」
「誰の肩紐でもいいわけじゃない。俺はお前の……お前の肩紐にしか興味ないし」
なぜか今更のように照れて、時雨は三十路過ぎの男とは思えないモジモジした動きで頬を赤らめている。
「乙女か」
思わずツッコんで、それから夏希はもう一度時雨の肩紐をパチンとはじく。
イテッといつものように眉根を寄せて、それから時雨は物欲しそうな顔で夏希を見つめた。
「なあ、俺もそれをやってみたいんだが」
「私にやったら、もうブラ選んであげない」
「じゃあ他の誰にやれって言うんだ」
「探しなよ」
「さっきも言ったけど、俺が興味あるのも引っ張りたいのも、夏希のブラだけなんだ」
「じゃああとでこのブラかしてあげるから、自分でつけてパチパチしなよ」
そう返したとき、眺めていた巨人軍の投手が物の見事にホームランを打たれた。
とたんに場内はどよめきと落胆に支配される。
夏希達の周りからもため息が次々とこぼれ、それに重なるように、ひときわ大きな吐息が夏希のそばではき出された。
ちらりと横をうかがえば、拗ねたような視線が夏希をとらえている。
「……駄目か?」
「こういうときだけ自分の美貌を武器にしないでよ」
「武器にするのはお前にだけだ」
「時雨さんの下着姿を散々見てきた私に、通用すると思う?」
「それでもやってみたくなる俺の気持ちがわからないのか?」
「拗ねた声を出しても駄目」
「たのむ」
「駄目」
「俺のもパチパチしていい」
「不意打ちでするのがいいの」
「何でもする」
ひときわ真剣な声で言われ、夏希は一瞬だけ考えた。
「何でも?」
「何でもいい」
「どんなことでも?」
「お前のブラを見せてくれるなら」
向けられたまなざしに、夏希は僅かな沈黙を返す。
それから僅かなためらいの後、夏希がこぼしたのは小さな告白だった。
「じゃあ、彼氏になってくれる?」
夏希の声に、時雨が大きな目をさらに見開く。
そんなに開けたら目玉がこぼれてしまうのでは、とうっかり場違いなことを夏希が考えていると、突然時雨が彼女の手を取った。
「わかった、では行こう」
「行こうって、まだゲームは2回表なんだけど」
「野球なんてどうでもいい」
「じゃあ何で誘ったの?」
「すべてはお前とお前のブラのためだ。つまり口実だ。巨人が勝とうと中日が勝とうとあの名も知らない外国人投手が打たれようと全くどうでもいい。あわよくばお前とお前のブラを好きにしようと言う魂胆しか俺にはない」
「ぶっちゃけすぎじゃない?」
「いいんだ。俺は変態だし、今更お前に隠すことはない」
だからいこう。今すぐ行こう。
と言うなり夏希を立たせ、時雨は長い足で階段をずんずん上っていく。
そのあとに続いて階段を三分の二ほど上ったところで、夏希ははっと我に返り、それからおもむろに時雨の尻に手で触れた。
さすがの彼もこれにぎょっとしたが、触れる夏希は真剣だった。
「時雨さん、今日パンツ何色?」
「………黒だ」
「あー」
「あーとはなんだ。と言うかこの場で何を言い出すんだ。まさか日和ったのか?」
たたみかけるように言われ、夏希はかもしれないと頷く。
「私、まさかこうなると思ってなかったんだよね。さっきのも、なんて言うか半分ジョーク?」
「ジョークはないだろう!! お前まさか、俺の気持ちをもてあそんだのか!!」
「あそんでたわけじゃないよ。……まあ、ここ3ヶ月くらい時雨さんアプローチが凄いから、ああこいつ私に惚れてるなとは思ってたけど」
「なんだその上から目線は! ってか、気づいているならこたえろよ」
「だってこたえようとする度、ブラがブラがって言うんだもの。もしうっかりこっちから迫って、ブラしか興味ないとかなったら嫌じゃない」
さすがに自覚があったのか、時雨はうっと言葉を詰まらせる。
「でもブラ単体じゃなくて、ちゃんと一緒でいいんだね。よかった」
本当に良かったとしみじみ言う夏希に対し、時雨は苦虫をかみつぶした顔でうめく。
「良かったなら、なんでここで日和るんだ」
「ああ、それはものすごく個人的でちっちゃな理由で……」
「ともかく言え」
真顔で迫られ、夏希は渋々口を開く。
「まさかこうなると思ってなかったから、今日下着の上下そろえてないんだよね。一応私にも乙女心とかあるからさ、だらしないの嫌だなって不意に」
我ながら妙なところに引っかかったなと思いつつ、夏希はまじまじと時雨を見上げる。
「なんかさ、男の方はばっちりそろってるのに私だけちぐはぐとか嫌じゃん」
「なら俺の家に来ればいい。どれでも好きなのをつけさせてやる」
「使用済みって萎えない?」
「なら買うか。途中で」
「いや、どうせすぐ脱がされるだろうしいいや」
と言うと、時雨がそれはないと豪語する。
「可能なら、下着は着けたままでやりたい」
「ちなみに聞くけど、時雨さんもつけたままなの?」
「……やはり駄目か」
「わかんない。そもそもこういうことするの、はじめてだし」
夏希がぽろりとこぼせば、時雨はこれまでにないほど嬉しそうに夏希を見つめる。
「安心しろ。主にやられる立場だったが、こういう経験が沢山あるからやさしく教えてやろう」
「あのさ、時雨さんの壮絶な過去的に、普通ここは『俺の汚い体で、可愛い彼女の処女を散らすなんてできない!』とか言う所じゃない?」
「お前はドラマの見過ぎだ。そんな事を思っていたら、そもそもお前にブラなんてつけて貰っていない」
それもそうかと納得し、今度は夏希が腕を引く形で残りの階段を上がる。
絡んだ指を愛おしそうにさすりながら、時雨はそこでぽつりとこぼす。
「それに、お前は俺が触れたくらいで汚れるような女じゃない。……だから、惚れた」
唐突な言葉に思わず顔を上げる夏希の唇を、時雨が少し乱暴に奪う。
「淡々と俺にブラを手渡す所とか、俺がブラへの愛を叫んでも表情一つ変えずにあしらうところとか、変態に囲まれても笑っていられるところとか、とにかくお前のたくましさが俺は好きだ」
「……それは、あの商店街の人ならみんなそうだと思うけど」
「そんなことはない。お前はとびきり俺に冷たいし、それでいて優しい」
だから一緒に下着になろうと、最後に付け加えられた告白には思わずがくっと力が抜けたが、それでも夏希は時雨の手を放さなかった。
「何か色々馬鹿らしくなってきた。それにさっきから時雨さんの声が大きいせいで周りの視線も痛いし、そろそろ行こうか」
「しまった、うれしさのあまり声が……」
「今の、うっかり知り合いに聞かれてたらちょっと面白いよね」
「ちなみに言うと、俺はそこで『面白い』と言いきるお前の感性も好きだ」
「なにそれ」
「知人がいたら気まずい、と言うのが普通の感覚だろう」
「気まずいの?」
「たとえば、友達に自分のつきあっている男が女性物の下着を着けていると知られたら気まずいだろう」
頭をよぎった何人かの顔を浮かべて、彼女たちに女性のパンティとブラを装着した時雨を紹介するシーンを夏希は想像する。
「……いや、やっぱりその絵面は面白いよ」
「どこがだ。むしろどん引きされて、お前が嫌な思いをするに決まっている」
「実害があるとしたら、むしろ変態扱いされて、冷たい視線を向けられる時雨さんの方じゃない?」
それに比べたら、自分の方はせいぜい別れろとかやかましく言われるくらいだと告げれば、時雨は不思議そうな顔をする。
「それが、嫌だとは思わないのか」
「煩わしいのは嫌いだけど、でも時雨さんの顔なら『イケメンだから仕方がない』ってきっと思ってもらえるよ」
「そういうものか」
「そういうものだよ」
「……正直、俺が言うのもアレだがお前は変わり者だな」
「変わり者じゃなかったら、時雨さんとこれから家に行って下着姿で抱き合おうとか考えないと思う」
「……変わり者、万歳」
小さなガッツポーズ付きでそんな事を口走り、時雨ははっと我に返る。
「ともかく、お前に異論はないんだな」
「下着の上下があっていないこと以外は問題ないよ」
「ちなみに外泊は?」
「大丈夫だよ。おばあちゃんにも、そろそろあんたらつきあっちゃいなさいよとか言われてたし」
「じゃあ、お前のブラをあれこれしても何の問題もないわけだ」
「うん、むしろ明日はお赤飯だろうね」
だから大丈夫だと繰り返すと、時雨が嬉しそうに絡めた指に力を込めた。
「じゃあ。今夜はブラごとお前を放さない」
「あのさ、さっきも言ったけど、せめて甘い台詞の時くらいは、ブラって単語挟むのやめない?」
「すまない、言っているつもりはなのに無意識にくっついてくるんだ」
「重傷だね」
「でも、気持ちは伝わっただろう?」
「伝わるけど、伝え方もやっぱり大事だと思う」
だからそのうち、ブラって単語は抜いてねと夏希が言えば、時雨は不安げながらも善処すると頷いた。
南町商店街は残念ながら手遅れです ――時雨と夏希の場合――【END】