第五話 ライブハウス
瑤子はライブハウスに来ていた。自分が最も自分らしくなれる場所。この場所でどんな出来事が起こるのか、そんな素敵な予感に、瑤子はわくわくしていた。
瑤子が東京、青山のライブハウスに着いたのは、5時半だった。もう既に16番目。いつもの事だ。これ以上早く並ぶことは物理的に不可能なので、まあ、大体こんなものだ。
6時開場まで、あと30分ある。テイク・アウトのコーヒーを飲みながら、時間がくるまで待つ。これもいつもの事だ。
常連客が、やっぱり前のほうに並んでいる。いつも見る顔だ。前回のツアーの時にラリーと英語で親しそうに話している人も、前のほうに並んでいる。確か、あれは横浜のライブハウスでのことだった。毎年、東京が終わると横浜で、その後が大阪、福岡という具合にツアーを組んでいる。さすがの瑤子も、大阪や福岡までは行けないが、東京と横浜はほとんど参加しているので、もう常連客の一人といってもいいかもしれない。それくらいファンなのだ。
矢崎とは一度だけ一緒に来たことがある。そのとき、彼はそれなりに感動したらしいが、でも2度目になるとさすがに、お一人でどうぞ、という具合だ。彼と瑤子の趣味は少し違うかも知れない。
瑤子の後ろに駆け込んできた男性がいた。走ってきたらしい。息を切らしている。スーツを着て、ビジネスバッグを持っているところを見ると、どうやらサラリーマンらしかった。しきりに時計を気にしていた。
「コーヒーか、賢いですね。」
突然瑤子に話しかけてきた。
「ええ、まあ。」
そう答えながら瑤子は微笑んだ。
「6時半からでしたよね。」
「そうですよ。」
「楽しみですね。また去年と同じバンドでしょうか?」
「ええ、多分そうですよ、夕べネットで調べてみたら、ブルースバンドってありましたから。」
「そうですか、じゃ、ますます楽しみだな。教えてくれてありがとう。」
「どういたしまして。」
ふと見ると、どんどん後ろに長い列ができていた。瑤子がもう一度前から数えてみると、確かに自分は16番目だった。16番目ということは、果たしてどの辺の席でみることができるだろうか。もっぱら瑤子の頭の中は、どこの席に座れるのかということでいっぱいになっていた。
そんな時、携帯メールが入ってきた。矢崎だった。
『もうすぐ居酒屋に着くよ。どう?楽しんでる?』
『お疲れ様。弘美の事よろしくね。』
そんなやり取りをしているうちに、丁度6時半になって、次々と番号が呼ばれていく。瑤子はわくわくしてきた。前の人に連なり、店内に案内されていく。おもったよりも2ndステージの人が多く、瑤子のように1stステージで並んでいる人が少なかったのか、今までで一番前の席をゲットできた。前から2列目のテーブル。ステージに向かってやや左方向、もう、すぐ目の前でラリーの演奏を見ることができる。去年と同じバンドであれば、右側のほうにホーンセクション、左がキーボードのはずなので、この席が丁度いい席だった。
ふと見ると、さっき後ろに並んでいたサラリーマン風の男性が、瑤子の向かい側の席に合席となった。
「あら」
「どうも、ここいいですか?」
「ええ、どうぞ。」
一人で来ると、必ず合席になる。もう慣れている。ここは大人の空間。大人の社交場。ほんのり薄暗くて、とても素敵な雰囲気だ。集っている客層もみんな紳士的で、おいしいお酒と食事、それにお気に入りのミュージシャンの生の演奏が聴ける。瑤子の一番のお気に入りの場所だった。
「なかなかいい席でしたね。」
「そうですね、よかったです。」
瑤子も、目の前の彼も、とても上機嫌だった。
瑤子はハイネケンのビールを一つ注文すると、開演を待った。携帯を見てみると、もう圏外の表示が出ていた。地下に位置するこの空間では、携帯電話は使えないのだろう。一瞬矢崎たちのことが気にはなったが、もうその時点ですっかり忘れてしまった。 それくらい瑤子の心は、この大きな箱のライブハウスの中に、どっぷりと浸っていた。
このステージは、もしかしたら瑤子のこれからの人生を大きく変えてしまうのかもしれない。矢崎との関係はどう変わっていくのか?そして弘美は・・・?