第十n二話 思惑
矢崎と2人きりで居酒屋に入った弘美。このチャンスを無駄にしてはいけない、と弘美はひそかに思っていた。
「ね、矢崎さん、瑤子は?」
弘美は白々しく矢崎に聞いた。
「彼女はライブさ。」
「え?じゃ、ここに来ないの?」
「ああ、そうだよ。」
初めからわかっていた。今日、弘美が矢崎と2人きりでこの居酒屋に来ることは。でも、弘美には、まだまだ自分の本心を矢崎に知られるわけにはいかない。
「何だ、瑤子さん、来ないの。じゃ、矢崎さん、悪かったわね、お誘いしちゃって・・。」
少し不機嫌そうに弘美が言うと、矢崎は、
「そんなことはないさ。」
ビールを一口飲みながら、にこっと笑って答えた。
「ありがとう、矢崎さん。でもね・・」
「え?なに?」
弘美はもったいぶって、というか、言いにくそうに、というか・・・恥ずかしそうに矢崎に言った。
「・・あんまり優しくしないでほしいの。」
「え?そうなの?またどうして?」
「ううん、なんでもないんだけど・・」
弘美は、演技ではあるが、それでも、もう矢崎に対してのほとんどの感情が抑えきれないでいた。(矢崎さん、私はあなたがが好きなのよ・・・)そんな彼女は、やはりお酒の勢いを借りなければ、まだ親友の恋人である矢崎に相対することが出来そうもなく、いつもよりも少しピッチが早かった。それを見ながら、矢崎は、失恋から立ち直れないであろう(と、勝手に矢崎が思っている)弘美のことをさらに心配していた。
「今の弘美を見てたらほっておけないさ。」
弘美は目が潤んだ。
「ありがとう、矢崎さん。」
矢崎は、弘美を支えなければいけない衝動に駆られた。
「・・矢崎さん、私・・」
「え?なに?」
「これ以上優しくされると、もしかしたらあなたを好きになってしまうかもしれないわ。」「え・・?」
突然の弘美の告白に、矢崎は胸が高鳴るのを感じた。
弘美は、矢崎の様子を伺いながら、ゆっくりと口を開いた。
「お願いがあるんだけど。」
「なに?」
「今日だけ恋人になってくれない?」
「・・・それって、僕を誘惑してるの?」
「そう、めちゃめちゃ誘惑してる・・・」
2人とも、かなりその気になっていた。(今日だけ、そう今日だけなら・・。)
人間というのは弱いものだ。寂しい心の隙間に、ふっと入り込んでくる。今日の彼らには、高まる感情をとめることが出来そうもなかった。
「恋人同士のように歩いて、恋人同士のようにデートしましょうよ。」
嬉しそうな弘美を見て、矢崎は(それから・・・?)とそんなことを心の中で反復しながら、そんな妄想を振り払った。(何を考えているんだ・・。)またもや自己嫌悪に陥る矢崎だった。
先に伝票を持って、弘美が店を出る。慌てて矢崎が追いかけた。2人は、これからどうなっていくのか。すべては弘美の手の中にある。(私って悪い女かもしれない。)そう思いながらも、弘美はとても嬉しかった。
弘美の思惑とわかっていながら、矢崎は誘われるままに・・・。いよいよ次回がクライマックスです。