名無しの猫の怪
一匹の猫が電信柱の陰から現れ、道を横切って消えていった。
わたしはそれを眺めるともなく眺めながら、道の先にあるあの人の家をじいっと見ていた。
夏の日差しがじりじりと肌を焼き、もうそれほど若くもないわたしはそのことを気にしなければならなかったのだろうけど、でもそのときは、そんなことよりもずっと大事なものを視線の先の尖端に乗せていた。
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ……
あのひとは今、わたしと別の女を抱いている。
あのわたしも何度も入ったおんぼろアパートで、わたしと彼の汗がまじりあってしみこんだ布団の上で、見も知らぬ女とまぐわっている。
彼の部屋、10メートル。
約、10メートル。
本気で走れば5秒もしない距離。
わたしは全力疾走しそうな自分を抑えながら、ひたすら目線に力を込める。
そして念を込める。夏の日差し。セミの鳴き声。わたしの怨念。
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ……
彼の部屋のカーテンが揺れている。アパートの住民が階段を降りている。雲がゆっくりと流れている……。
わたしはこみ上げる涙を必死で押さえながら、胸に湧き上がる感情に気が狂いそうになって、それでも気丈に眼前をねめつけて直立している。
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ……
ふわっ
足首のくすぐったい感覚に我に帰る。
思わず目を向けるとそこには、先程の猫がいた。
猫はわたしに話しかけた。
「お嬢さん。あなたが今どんな気持ちでそこに立っているのか、御察しします。どうかここはわたくしめに任せてみませんか?なあに、決して悪いようにはいたしません」
猫の口はディズニーのアニメーションのような滑らかかつ不自然な動きで言葉を紡いだ。
しかしわたしはその異様な光景に疑問を挟むより先に、わたしの呪いが届いたのだと思い、頷いた。
しかしわたしはすぐに、そのような呪いなどあるわけない、さっきの猫の言葉も幻聴だ、と思い直したのだったが、そのころには猫はてくてくと彼のアパート目指してしっぽふりふり歩きはじめていた。
わたしはなすすべもなくてくてく歩いていく猫を眺めていた。そして猫が視界から消えると、ふっと力が抜けたのだった。
何だったのだろう、あの猫は。
いや、わかってる。わたしがおかしかったのだ。
でも。わたしは思う。
わたしがおかしかったからと言って、それがなんなのだ。
こんなところに立ちつくして、自分の男が他の女を抱いているのをただ眺めている女がおかしくないなんて、そんなわけないではないか。
そんなこと初めから分かっていた。だけど、そんな私だからこそ、あの人を信じて、愛したのだ。
たとえそれがわたしを深く傷つけることになろうとも、わたしは彼を愛することに決めたのだ。
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ
アイシテルアイシテルアイシテルシネシネシネ……
ふと、わたしは時計を見た。
あれからもういい時間がたっている。いつもの彼からすれば、そろそろ終わるころだ。
あれの後、彼はいつも窓際に掛けてタバコを燻らす。
うぶなわたしはそれをかっこいいなんて見つめていたっけ。
けだるげな彼の目が、何も見ていない様な空虚な色をたたえるたびに、わたしは彼にかまって欲しくて、甘えたくて、そう、まるで猫のようにすり寄ったものだった……。
そのとき、突然のめまいがわたしを襲った。
視界がぐるぐると回り出す。地震が起きたように足元は覚束ず。母の胎内のように上下もなく。
気づけば彼の部屋に横たわっていた。あの人は、案の定見知らぬ女とつながっていた。
女の嬌声がやけに耳に障る。
それはただ強烈な嫌悪感がなせるものというわけでなく、なにか生理的、物理的なものに思えた。
思わず顔をそむける。視線の縁にふさふさした毛が覆っているのに気づいた。
知らずわたしは歩きだしていた。自分の意志ではない。前足と後ろ足が勝手に動き、どこかを目指す。
これは、もしや。
わたしは自分が何者かと視線を共有しているのだと直感した。そして、言うまでもなく、その相手は先程の猫だと思われた。
なるほど、あいつがわたしのために何かしてくれるというのか。
理解はしきれなかったがひとまず納得して、視界に集中することにする。
猫はてててと駆け、ぴょんと跳ねたかと思うと、キッチンのガス台の脇に立った。
そしてチューブをがじがじと噛むと、そこにちいさな穴が開いた。
ガスの臭いが猫の敏感な嗅覚を刺激する。
耐えきれず、ぴょんととび下りて部屋から立ち去った。
目の端に時計が見えた。それはちょうどわたしが時間を確認した時間と全く同じだった。
視界が元に戻る。
彼のアパートが火を吹いた。
爆発は丸い煙を無ワット膨らませると、内側から溢れた赤い炎が爆ぜて辺りに火炎をぶちまけた。
そして大音響。
そんなことがゆっくりと再生される。
わたしは彼の部屋が爆破するのを、不思議な快感とともに見ていた。
木っ端みじんに弾けた彼の身体が頭に浮かんだ。胸がすぅっとして涙が出そうなほどだった。
次の瞬間、わたしは視線の端にプロパンガスのボンベが立っているのに気づいた。
それは爆発とわたしのちょうど中間だった。そして、それだけでなく、そのボンベのチューブには、まるで猫が噛んだような小さな穴が開いていた。
すっと息を吸うと、ああ、確かにガス臭いな。
思うが早いかわたしは爆発に巻き込まれてはじけ飛んでいた。