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塔の上の『緑の鍵持ち』皇女 ー 植物とハミングで国を救う ー

作者: 空丘ジル
掲載日:2026/05/19

「フローリア殿下は『緑の鍵』をお持ちです。その魂に、神の祝福を授かりしお方」


 フローリアが十二歳を迎えた誕生日。聖堂の奥深くで行われた儀式『泉の鍵』にて、聖人アルーシアは中央に湧き立つ清泉を覗き込み、厳かにそう宣言した。


『泉の鍵』――それは、国の命運を握る異能『鍵』を持って生まれた者を見定める、神聖な儀式である。


 皇族であっても極稀にしか発現しない奇跡の力。フローリア以前の最後の鍵持ちは、八代前のクオーツレスト帝まで遡る。


 彼は『白の鍵』を有し、その圧倒的な力をもって、一介の小国に過ぎなかったこの国を、多くの国々を従える強大な「ヒューラス帝国」へと押し上げた傑物だった。


 儀式を終えて間もなく、フローリアの身には明確な兆候が現れ始めた。


 彼女が可憐な声を響かせて歌うと、蕾はまたたく間に花開き、果実は甘美に熟れ、大地は豊かな野菜を実らせる。まさに『緑の鍵』の奇跡そのものだった。


 皇帝は至宝を得たかのように歓喜したが、その輝きを苦々しく睨みつける者がいた。

 第一皇妃ガブリエラと、その息子である第一皇子ギデオンである。


 ヒューラス帝国第一皇女――それがフローリアの身分だ。帝国に籍を置く皇子女は、ギデオンと彼女の二人しかいない。

 フローリアは、皇帝が最も深く愛した第二皇妃マリーヌの忘れ形見だった。しかし悲しいことに、マリーヌはフローリアが一歳になる前にこの世を去っている。


 後ろ盾となる母親を持たない少女を、ガブリエラ母子は日頃から徹底して見下し、蔑んできた。

 それなのに、その娘が『鍵』を授かったのだ。歪んだ嫉妬が二人を焼き、同時に「皇位継承権がフローリアに移るのではないか」という激しい焦燥が彼らを突き動かし始めた。


 不穏な空気が皇宮を包むなか、ある日のこと。


 フローリアが回廊を歩いていると、一本の萎れた黄色い薔薇がぽつんと床に落ちていた。大方、侍女が花瓶を生け替える際に落としていったのだろう。


 フローリアはそれを拾い上げると、少し首を傾げて考え、そのまま庭園へと足を向けた。そして、花壇の隅の柔らかな土にそっと薔薇を挿した。

「元気をお出し。大きくなあれ……」

 愛おしげに、小さな声で歌を添えながら。


 翌朝、いつもと違う奇妙な騒がしさにフローリアは目を覚ました。

「何かあったの?」

 尋ねられた侍女は、興奮と混乱の入り混じった顔で答える。

「フローリア様、お目覚めですか! 大変なのです、皇宮が……! ひとまず、ご自身の目でお確かめいただくのが一番かと存じます!」

「え……? ええ、分かったわ」

 急かされるように簡単な身支度を済ませ、フローリアは戸外へと一歩を踏み出した。


 その瞬間、彼女は息を呑んだ。


 視界を埋め尽くしていたのは、気高く咲き誇る、おびただしい数の黄色い薔薇。それらは壁を伝い、柱を巡り、広大な宮殿のすべてを包み込むように覆い尽くしていた。


(まあ……なんて綺麗なのかしら)

 己が引き起こした奇跡の規模の大きさに、フローリアはしばらくの間、言葉を失って立ち尽くすばかりだった。


 翌日、咲き誇る黄金の花々の宮殿を目にしたガブリエラとギデオンは、激しい嫌悪を隠そうともせず、好機とばかりに皇帝の元へと詰め寄った。


「陛下、あの娘の力は危険すぎます! 皇宮をこれほど侵食するなど異常事態です。今すぐ塔へ幽閉すべきです!」

「ええ、母上の仰る通りです! しかも、よりによって黄色い薔薇とは! 嫉妬や不貞、薄情といった忌み嫌われる花言葉を持つ不吉な花。それが皇宮にまとわりつくなど、呪い以外の何物でもありません!」


 二人の醜い言い分に、皇帝は怒りで全身を打ち震わせた。

「黙れ! 何を言うか! フローリアは『鍵持ち』なのだぞ。我が国の至宝であり、最も尊く、大切に保護されるべき存在だ!」


 皇帝の凄まじい剣幕に、ガブリエラとギデオンは一瞬だけお互いを一瞥し、冷酷な計算を込めて深く頷き合った。そして、まるで取り憑かれたように態度を一変させる。


「……失礼いたしました。私どもの思慮が浅うございましたわ」

「左様でございますね。私も、これからはもっと妹を可愛がってやるべきでした」


 あまりにも急な態度の変化に、皇帝の胸にぬぐいきれない不信感が宿る。フローリアに信頼できる専属の護衛をつけねば――そう決意した、まさにその時だった。

 突如として、皇帝は激しい目眩に襲われ、そのまま崩れ落ちるように意識を失ってしまった。


 これを待っていたとばかりに、ガブリエラ母子は直ちにフローリアを捕らえ、皇宮の奥深くにそびえる孤高の塔へと幽閉した。


 与えられたのは、命を繋ぐことすらままならない、冷え切った部屋と過酷な飢え。差し入れられた皿の上には、たった三粒の葡萄が転がっているだけだった。


 しかし、フローリアは絶望しなかった。

 彼女はゆっくりと愛おしそうに一粒を口に含むと、可憐な歌声を響かせながら、その種を窓から塔の外へと投げた。


 ――その夜。


 月光を浴びて、ニョキニョキと驚異的な速さで伸びてきた葡萄の蔓が、窓を伝って部屋へと侵入してきた。フローリアは優しく歌いかける。

「私を塔の外へ出して……」


 すると、意思を持つかのように蔓がくるりと彼女の体に巻き付き、その華奢な身をそっと持ち上げて、夜の闇へと連れ出した。


 優しく地面に下ろされたフローリアは、一目散に宮殿へと走った。だが、正面から入ろうとすれば、たちまち兵士に見つかり連れ戻されるだろう。


 そこで彼女は、ポケットに忍ばせていたもう一粒の葡萄を口にし、その種を、皇帝の寝室の真下にあたる地面へと植えた。


「お願い、私をお父様の元へ連れて行って」


 再び、歌声に応じて太い蔓がニョキニョキと天へ伸びる。それはフローリアを包み込むように抱き上げ、目指す皇帝の部屋のバルコニーへと一気に送り届けた。


「お父様……!」

 寝台へと駆け寄り、眠る父の枕元に寄り添ったフローリアの目から涙がこぼれ落ちる。皇帝の顔は、かつての威厳を失い、痛々しい土気色に変わっていた。


「なぜ、あんなにお元気だったのに、急にこんなお体に……」


 フローリアは父の回復をただひたすらに願い、祈るように歌を捧げた。

 すると、枕元に飾られていた赤い百日草ジニアの花が、意思を持ったようにモゾモゾと動き始めた。緑の葉を伸ばし、傍らに置かれた吸飲み(水差し)をツンツンと小突いて指し示す。


「え……?」

 フローリアは吸飲みの水を覗き込み、そっと鼻を近づけてみた。

 微かに、甘く不穏な香りが鼻腔をくすぐる。どこかで聞いたことのある、記憶の底にある既視感。妙な胸騒ぎを覚え、彼女がその水をじっと凝視した、その時だった。


 百日草の花が、花瓶からぴょんと軽快に飛び出してきた。驚くフローリアの足元まで歩いてくると、小さな声でささやいたのだ。

「この水にはダチュラの花が漬けてあったんだよ。強い幻覚と麻痺を引き起こす、恐ろしい毒性を持つ花だ。毒消しを作るにはね……」


 百日草が教えてくれる知識に、フローリアは深く頷いた。

 まずは吸飲みの毒水をきれいな水へと取り替え、フローリアは愛する父を見つめる。

「お父様、待っていてください。すぐに毒消しを持って戻ってきますから」


 居室を出るため、再びバルコニーの葡萄の蔓に身を委ねようとした瞬間、足元から百日草の花がぴょんと跳ねて、一緒に蔓へと巻き付いてきた。

「あなたも、一緒に来てくれるの?」

「うん!」

「ふふ、ありがとう。あなたにお名前はある?」

「まだないんだ。きみがつけてくれる?」

「そうね……百日草(ジニア)。ジニーって呼んでもいいかしら?」

 百日草のジニーは、嬉しそうに一対の葉をパタパタと羽ばたかせた。


 その時、宮殿の壁を覆う黄色い薔薇たちが、夜風に揺れながらフローリアの心に直接語りかけてきた。

『皇帝陛下は、決して死なせはしないわ』

『私たちがついているもの』


 皇帝に盛られた毒は、本来なら即死してもおかしくない致死量を遥かに超えるものだった。しかし、皇宮を埋め尽くした薔薇たちが即座に強固な結界を張り、かろうじて彼の命をこの世に繋ぎ止めていたのだ。


「みんな、本当にありがとう……!」

 フローリアが感謝を込めてうたうと、花たちは嬉しそうに夜の闇の中でユラユラと揺れ、彼女の旅路を祝福するのだった。


 *


 草木たちの囁きに導かれるまま、フローリアは夜の静寂に沈む皇宮の南東へと向かった。たどり着いたのは、普段は誰も近づかないような古びた一棟の小屋だった。


 木製の扉を恐る恐る押し開けて中へと足を踏み入れる。埃の舞う暗がりの奥に、それは鎮座していた。


 白く滑らかな、子牛ほどもある大きな丸い岩。


 これまでに見たこともない奇妙な岩のはずなのに、なぜかフローリアの胸には、じんわりとした懐かしさが込み上げてくる。吸い寄せられるように歩み寄り、彼女はその表面にそっと両手を乗せてみた。


 その瞬間、頭の中に温かく重厚な声が直接流れ込んできた。


『……愛しい我が子孫、フローリアよ。そなたが濁りのない、美しい心を持つ身なればこそ、その魂に鍵が授けられた。願うがよい。いま、己が行くべき場所を』


 フローリアは直感した。この声の主こそが、あの偉大なる先祖――クオーツレスト皇帝だと。


「陛下……どうか私を連れて行ってください。お父様を蝕む、ダチュラの毒を消し去る力を持つ花の元へ!」


 強く願うと同時に、眩い光が弾けた。フローリアの身体は、吸い込まれるようにして白い岩の向こう側へと消えていった。


 *


 ふっと次に目を開けたとき、フローリアは見たこともない深い森の中に立ち尽くしていた。木々の隙間から差し込む月光が、幻想的に地面を照らしている。


(どれが、お父様を救ってくれる毒消しの花かしら……)


 あたりを懸命に見回すと、一際あざやかな光を放つ植物が目に飛び込んできた。それは、幾重にも重なった八重の花びらが美しい、神秘的な青い花だった。


(もしかして、あの花……?)


 近づいてそっと手を伸ばすと、花びらが呼応するようにキラリと煌めいた。

 フローリアの肩に乗った百日草のジニーが、小さな声でアドバイスをくれる。


「フローリア、あの花に歌を歌ってあげて!」


 頷いたフローリアは、胸に手を当てて、祈るように透き通った歌声を響かせた。


「教えてちょうだい、美しいお花さん。お父様がダチュラの毒に冒されて、いまにも死にそうなの。あなたの力で、どうかその毒を消してくれないかしら……?」


 すると、青い花が風もないのに優しく揺れ、チリンと鈴の鳴るような小さな声で囁き返した。


『……そうだよ。僕らはすべての毒を浄化する、毒消しの花。愛しき緑の鍵持ちよ、僕らの花びらを三枚あげよう。毎日一枚ずつ、その方の口に含ませておくれ』


 ハラハラと、青く輝く三枚の花びらが宙を舞い、フローリアの小さな手のひらの上へと静かに落ちてきた。

「ありがとう、お花さん……!」


 花びらを大切にポケットにしまうと、フローリアは心の中で再びクオーツレスト帝の岩へと願った。次の瞬間、視界がぐにゃりと歪み、気づけば彼女は元の古い小屋へと戻っていた。


 一刻の猶予もない。フローリアは息を切らして皇帝の寝室へと急ぎ、父の固く結ばれた唇をそっと割り、青い花びらを一枚、優しく含ませた。


 そして、その手を握りしめながら、小さな声で慈しむように歌う。

「お花よ、お花。どうかお父様の身体の毒を、きれいに消し去ってくださいな……」


 するとどうだろう。先ほどまで生気を失い土気色だった皇帝の肌に、ほんのりと赤みが差し、微かな生気が戻ってきたのだ。

 苦しげに喘いでいた呼吸も、深く、穏やかなものへと落ち着いていく。


(良かった……! 少し、快方に向かっているみたい!)

 フローリアは感極まり、寝台に横たわる皇帝の頬へと自分の額をそっと寄せた。あふれそうになる涙を堪えながら、愛おしげに呟く。

「お父様、大好きです。絶対に、私が元通りに治してみせますからね……」


 ひとまずの危機を脱したことに安堵しながらも、彼女はガブリエラたちに疑われないよう、植物たちの力を借りて、再び静かにあの冷たい塔の部屋へと戻っていくのだった。


 *


 その頃、薄暗い一室で、ガブリエラとギデオンは人目を忍んで不吉な密談を交わしていた。


「母上、なぜ父上をもっと強い毒で一気に片付けてしまわないのです?」


 ギデオンは、ガブリエラが毎夜、皇帝の就寝時を狙って毒を少量ずつその口に注ぎ込んでいるのを知っていた。じれったそうに詰め寄る息子に、ガブリエラはふっと冷酷な笑みを漏らす。


「まあ、ギデオンったら相変わらずせっかちなのね。……実はね、とっくに死に至る量を盛っているのよ。それなのに、あの人は忌々しいほどしぶとくて、なぜだか死なないの。それに、考え直したの。少しの間は生かしておいたほうが都合がいいかもしれないと。けれど、心配はいらないわ。あなたが玉座に就く日は、もう間もなくよ」


 ガブリエラはワイングラスを弄びながら、声音を一段と低くした。


「いま無理に息の根を止めないのは、完璧な時期を見計らっているからよ。あれほど壮健だった陛下が急死すれば、私たちはたちまち猜疑の目に晒されるわ。それ以上に恐ろしいのは、急な政変で帝国の足元が揺らいだと見なされ、近隣諸国に攻め込まれること。すべてが私たちの手中に収まるまで、陛下には『病床の身』でいてもらわねば困るの」


 母親の冷徹な知略に、ギデオンはなるほどと深く頷いた。


「では……あの塔の娘はどうするのです?」


「殺すのはいつでもできるわ。ただ、せっかくの『緑の鍵持ち』という異能だもの、骨の髄まで利用してやらなくては。あの娘を囲っておくだけで、我が国の豊作は約束されたようなものよ。もし使い道がなくなったら、どこかの大国へ法外な値で売り飛ばしてもいいわね。……あるいは、戦が起きたら最前線に放り出してみるのも面白いわ。『緑の鍵』の力が戦場でどこまで通用するか、見物じゃない?」


 暗がりのなか、二人の醜悪な笑い声が静かに響いていた。


 *


 翌日、ガブリエラたちの陰謀など知る由もないフローリアは、再び草木の力を借りて、塔を抜け出し皇帝の寝室を訪れていた。


 愛する父の元へ駆け寄り、二枚目となる青い花びらを、その乾いた唇の隙間へとそっと滑り込ませる。そして、祈るように父の手を両手で包み込み、澄んだ声を響かせた。


「お花よ、お花。どうかお父様の身体に、生きる力を与えてくださいな……」


 歌声が部屋を満たすと、奇跡はさらに色濃く現れた。皇帝の顔色は劇的に改善し、青白かった頬が、まるで生気を取り戻したかのように淡い薔薇色へと染まっていく。


 そして――皇帝の睫毛が微かに震え、ゆっくりと、その瞼が開かれた。


「お父様……!」

 皇帝の瞳が、最愛の娘の姿を捉える。その目尻から、一筋の涙が静かに溢れ落ちた。


 まだ毒の麻痺が残っているのか、身体を動かすことも、言葉を発することもできない。それでも、父の意識が確かに戻ったのだ。

 フローリアは胸がいっぱいになり、嬉しさのあまり時間を忘れて、お父様に語りかけ続けた。今日あったこと、植物たちが助けてくれたこと……。


 やがて、肩に乗った百日草のジニーが、フローリアの頬を小さな葉先でツンツンと突いた。窓の外を見ると、夜空の端がうっすらと白み始めている。


「いけない……! お父様、もう行かなくては。……今晩も、必ずまた来ますからね!」


 フローリアは名残惜しそうに父の手を離すと、急いで部屋を後にした。


 夜明けの迫る皇宮を駆け抜け、幽閉されている塔の真下まで戻ってきたフローリアは、再び精いっぱいの歌を歌った。呼応した葡萄の蔓が彼女の身体を優しく包み込み、高い塔の窓へと引き上げていく。


 だが、フローリアは気づいていなかった。


 その幻想的で、あり得べからざる光景を――塔の陰に隠れていた一人の門番が、息を潜めて、ぎょっとした目で凝視していたことに。


 門番からの報告を受けたガブリエラは、激しい怒りに燃えて自ら塔へと乗り込んできた。


「不届きな葡萄の蔓など、今すぐ叩き切っておしまい!」


 金切り声を上げるガブリエラの命令で、兵士たちの剣が容赦なく蔓を切り刻んでいく。


 ガブリエラは、部屋の奥で身をすくめるフローリアの前に傲然と立ちふさがった。

「お前、こっそりとこの塔から抜け出していたそうじゃないの。外で何をしていたのか、洗いざらい吐き出しなさい!」


 狂気をはらんだ目で問い詰めながら、ガブリエラは容赦なくフローリアの頬を何度もぶった。激しい痛みが少女を襲うが、フローリアは固く唇を噛みしめ、決して何も語ろうとはしなかった。


「まったく、どこまでも強情な娘だこと!」

 忌々しげに吐き捨てたガブリエラは、フローリアの両手足を太い縄で縛り上げ、その口に手拭いを押し込んで猿ぐつわをはめると、乱暴に部屋を立ち去っていった。


 あまりにも酷く打ち据えられた衝撃と苦痛の前に、フローリアはそのまま、冷たい床の上で意識を失ってしまった。


 夜も更けた頃。フローリアは全身を走る鈍い痛みで目を覚ました。

 命の綱だった葡萄の蔓は切られ、口を塞がれているため、助けを呼ぶ歌を歌うこともできない。彼女は必死に身体をもがかせ、縄を解こうとした。


 その拍子に、ポケットの奥から、ころころと何かが転がり出てきた。――それは、残された最後の一粒の葡萄だった。

(お願い……届いて……!)

 フローリアは藁にもすがる思いで、塞がれた口の奥から、せいいっぱいの鼻歌(ハミング)を紡ぎ出した。


 美しくも切ないメロディが響いた瞬間、奇跡が起きた。転がった葡萄からニョキリと瑞々しい芽が吹き出し、するすると強靭な蔓が伸びていく。蔓はフローリアの身体を包み込むように巻き付くと、窓から彼女を連れ出し、静かに塔の下へと運び下ろした。


 手足を縛られたままのフローリアは、ぴょんぴょんと跳ねながら、一心不乱に宮殿を目指した。もどかしい移動に時間を取られ、気づけば東の空がうっすらと白み始めている。一刻を争う状況に、彼女の心臓は激しく高鳴った。


 幸いにも、宮殿のバルコニーに伝わせた葡萄の蔓は無事だった。

 フローリアは再びハミングで蔓を操り、皇帝の寝室へと滑り込む。枕元で心配そうに待っていた百日草のジニーを見つけると、目で「お願い、助けて」と訴えかけ、鼻歌で合図を送った。


 意図を察したジニーは、フローリアのポケットから最後の青い花びらを器用に引っ張り出すと、皇帝の薄く開いた唇の隙間へと、ぐっと押し込んだ。


 それと同時に、フローリアは喉の奥から、これまでで最も美しく、生命力に満ちた優しいハミングの旋律を響かせた。


「……はあ……っ」

 微かな吐息が漏れたかと思うと、皇帝の身体が劇的に震え、ゆっくりとその身を起こした。


「フローリア……私を、助けてくれたのだね……」


 完全に意識を取り戻した皇帝は、しかし、目の前にいる最愛の娘が縄で縛られ、猿ぐつわをはめられている異様な姿を見て目を見開いた。まだおぼつかない手つきながらも、急いでその口を塞ぐ布を解き、手足の縄を一本ずつ力強く断ち切ってくれた。


 自由になった瞬間、フローリアはたまらず父親の胸へと飛び込んだ。

「お父様……! 良かった、本当によかった……!」

「すまない、フローリア。辛い思いをさせたな」


 二人がこれまでの出来事を手短に確かめ合っていた、その時――廊下から、こちらへ近づいてくる不穏な足音が聞こえた。

「……! お父様、誰かが来ます!」

 フローリアは急いで窓辺の厚いカーテンの陰に身を隠し、皇帝は再び寝台へと横たわって静かに目を閉じた。


 がちゃんと重々しい音を立てて扉が開き、足音が部屋へと侵入してくる。


 しばらくの間、寝台の皇帝の様子をじっと覗き込んでいた影――ガブリエラとギデオンが、ひそひそと声を交わした。


「母上、心なしか父上の顔色が良くなっているように見えませんか? ……やはり、もっと強い毒を今すぐ与えるべきです」

「そうね、本当にしぶとい男。生かさず殺さず幽閉しておくつもりだったけれど、もう放っておけないわ。いっそ今ここで殺してしまって、この居室には誰も入れないよう封鎖してしまえばいいのよ」


 冷酷極まりない親子の会話が響くなか、寝台の上の主が静かに、しかし圧倒的な威厳をまとってムクリと起き上がった。

「……やはり、お前たちの仕業だったか」


 鋭い眼光に射抜かれ、ガブリエラとギデオンは息を呑んだ。しかし、もはや引き返せないと悟ったガブリエラは、狂気に顔を歪め、傍らにあった重厚な大理石の花瓶を両手で振りかぶった。


「死に損ないが、大人しく眠っていればいいものを……!」


「お父様を助けて!!」

 カーテンの陰から飛び出したフローリアが、叫びのような歌声を響かせる。


 その瞬間、大理石の花瓶に生けられていた花々が生き物のようにクネクネと蠢き、ガブリエラの指に強く絡みついた。あまりの締め付けにガブリエラが悲鳴を上げて指を離すと、持ち上げられていた花瓶は、皮肉にも彼女自身の頭上へと容赦なく落下した。

 激しい衝撃と共に、鮮血が飛び散る。

 ガブリエラはよたよたと虚ろに三歩ほど前へ踏み出したが、そのままドサリと床へ昏倒し、二度と動かなくなった。


「母上!? ……おのれ、よくも!!」

 狂乱したギデオンは、壁に飾られていた儀礼用の白銀の剣を掴み取ると、狂ったように皇帝の首元へと刃を向けた。


「薔薇さん、お願い! 助けて!」

 フローリアが切に願うと、皇宮のすべてを覆い尽くしていた黄色い薔薇たちが一斉に牙を剥いた。窓を破ってシュッと部屋になだれ込んできた無数の蔓が、ギデオンの手から一瞬で剣を巻き取り、弾き飛ばす。

 さらに、鋭い棘を持つ蔓が格子のように編み上がり、暴れるギデオンを瞬く間に『薔薇の檻』の中へと閉じ込めた。


「出せ! 離せ、私は次期皇帝だぞ――ぎゃあああああ!!」

 肉を締め上げる容赦ない棘の檻の中で、ギデオンは短い断滅魔の悲鳴だけを残し、そのまま息絶えた。


 静寂を取り戻した寝室に、朝日が静かに差し込んでくる。


 皇帝は寝台から立ち上がると、自らの不思議な力で、たった一人で邪悪な者たちを退けた我が娘の元へと歩み寄った。そして、愛おしそうにその小さな身体を抱きしめる。


「フローリアよ、私の健気な宝。……お前こそが、このヒューラス帝国の輝く未来だ」


 緑の鍵に祝福された少女の愛と勇気が、ついに帝国に本物の光を取り戻したのだった。

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