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第8話 本棚の奥で

アイリスが三歳になったころ、屋敷の中で“異変”がはっきりと見えるようになった。


それは突然ではなかった。


少しずつ。

静かに。

まるで湿気が壁に染み込むように。


最初に変わったのは、周囲の大人たちの視線だった。


三歳になる前、アイリスはすでに文字を読んでいた。


誰に教えられたわけでもない。


父の書斎。

古書店で見た背表紙。

ミグリーのカード。


それらが自然につながり、意味を持ち始めただけだった。


ある朝、ミグリーが机の上に置いた簡単な文章を、アイリスは声に出して読んだ。


ゆっくり。

一語ずつ。


ミグリーは固まった。


「……読めるのか」


アイリスは小さくうなずく。


ミグリーは眼鏡を押し上げ、もう一枚紙を出した。


ラテン語の短文だった。


アイリスは迷わず追う。


音と意味が、頭の中で自然に重なる。


「……これは」


ミグリーの声が低くなる。


その日から、彼の教え方が変わった。


子ども扱いをやめたのだ。


四歳になる頃には、数も跳ね上がった。


単純な足し算引き算では終わらない。


図形の規則性。

数列。

簡単な論理問題。


アイリスは、説明される前に答えにたどり着く。


それを見た給仕の若者が言った。


「……魔法みたいだ」


料理番の老婆は首を振る。


「違うよ。あれは、見てるんだ」


ミグリーは何も言わなかった。


ただ、ノートに記録を取り続けた。


レイモンは娘を見つめながら、小さく息を吐いた。


誇らしさと、不安が混ざった顔だった。


アリスは嬉しそうに笑った。


だが、その笑顔は長く続かなかった。


正妻マリーの態度が、露骨に変わった。


「……随分と目立つようになったわね」


そう言って、扇の向こうからアイリスを見る。


チャーリーは面白がる。


「変だよ。あんな小さいのに」


ララは冷たい。


「気味が悪い」


最初は言葉だけだった。


やがて、行動になる。


食事の席がさらに遠くなる。

教材が勝手に片付けられる。

玩具が壊される。


誰がやったかは、分かっていた。


でも証拠は残らない。


アイリスは泣かなかった。


代わりに、記録した。


時間。

場所。

人の動き。


前世で身についた癖だ。


画像

ある日、ララが言った。


「妾腹のくせに、偉そう」


チャーリーは笑った。


「父上も騙されてるんだよ」


その言葉を聞いた瞬間、アリスの顔色が変わった。


夜、母はアイリスを抱きながら、震える声で言った。


「ごめんね……あなたのせいじゃないの」


アイリスは母の胸に頬を寄せた。


でも、その鼓動が弱くなっているのを感じ取った。


アリスは、次第に食事を取らなくなった。


笑わなくなった。


部屋にこもる時間が増えた。


正妻マリーは冷たく言った。


「病弱なのね。困ったものだわ」


レイモンは医師を呼んだ。


だが診断は曖昧だった。


「心労でしょう」


それだけ。


アリスはベッドから起き上がれなくなった。


アイリスは母の枕元で、本を読んだ。


声を小さく。


ラテン語の詩。

簡単な算術書。

地理の図譜。


母は目を閉じたまま聞いていた。


時々、小さく微笑んだ。


それだけで、アイリスは続けた。


屋敷の中で、アイリスの居場所は急速に減っていった。


だから彼女は、図書室にこもるようになった。


高い棚。

薄暗い窓。

誰も来ない奥の机。


そこだけが安全だった。


本は裏切らない。


背表紙は嘘をつかない。


並べれば、答える。


アイリスは小さな椅子に座り、何時間も本を読んだ。


歴史。

数学。

言語。


泣きたいときも、読む。


怖いときも、読む。


読むことで、世界が整理される。


ある夕方。


ミグリーが図書室を訪れた。


アイリスは床に散らばる本の中にいた。


ミグリーはしゃがみ、静かに言った。


「……一人か」


アイリスはうなずく。


ミグリーはしばらく黙ってから言った。


「王都へ行く話が出ています」


アイリスは顔を上げた。


「王宮付きの教育枠です」


一拍。


「あなたを、ここから出すための」


アイリスは理解した。


父は、線を越えられない。


だから場所を変える。


それが彼なりの、最大限の防御。


ミグリーは続けた。


「簡単な道ではありません」


アイリスは静かに頷いた。


もう分かっている。


ここに留まれば、母は壊れ、自分も削られる。


外へ出れば、未知と戦うことになる。


どちらも楽ではない。


でも――


本棚の奥で、アイリスは小さく拳を握った。


逃げない。


隠れない。


黙って消えない。


妖精の言葉が、胸の奥で静かに鳴った。

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