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赤い閲覧票-『侯爵家次女は書誌魔法で知の帝国を運用する』  作者: アイリス独孤求敗(ビンちゃん特殊司書)


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第79話 火を持つ者

王都の朝は、灰色だった。


雲が低く垂れこめている。

工場の煙と曇天が混ざり合い、

空全体が一枚の鈍い鉄板のように見えた。


北区では、工場の蒸気機関が再び動いている。


煙突からは黒い煙が上がり、

蒸気弁の吐き出す白い息が、一定の間隔で空へ散っていく。

鉄を打つ音も戻っていた。

歯車の軋みも、ベルトの回転音も、昨日まで止まっていたことなどなかったかのように街へ滲み出している。


だが、その音は以前のように力強くはなかった。


どこか、軋んでいる。


機械ではない。


社会が。


それは耳で聞く音ではなく、

人々の歩幅、商人の呼吸、視線の動き方の中に現れていた。


王立図書館の閲覧室は静かだった。


だが、昨日までの静けさとは違う。


平穏の静けさではない。

集中の静けさでもない。


これは、意図を持った静けさだった。


学生たちが集まっている。


机に座り、本を開き、ページをめくる。

誰も声を出さない。

ノートにペンを走らせる者もいれば、ただ指で行をなぞるだけの者もいる。


その姿は勉学に見える。


だが、ここにいる者たちは皆、昨日までより少しだけ顔つきが違っていた。


恐れながらも立ち去らない顔。

見届けると決めた者の顔。


ロイドが小声で言った。


「増えてる」


確かに、学生の数は昨日より多い。


三十人。

四十人。

窓際も、奥の席も、普段なら午前中には埋まらない机まで使われている。


皆、同じ理由でここにいる。


読むためではない。


ただ知識を増やすためでもない。


立つためだ。


立つ場所を、まず本の前に決めるために来ている。


マルクスはその様子を見て、静かに頷いた。


「これが最初の段階だ」


ロイドが眉をひそめる。


「何の?」


マルクスは答える。


「革命の」


ロイドは鼻で笑う。


「まだそんな大げさな話じゃない」


「そうか?」


マルクスは椅子の背にもたれ、指先で机を軽く叩く。


「革命は最初、いつも小さい」


その声音に誇張はない。

期待もない。

ただ観察者の冷たさがある。


「人が本を読むところから始まる」


その言葉に、何人かの学生がわずかに顔を上げた。

だが誰も口は開かない。


その時、図書館の扉が開いた。


重い音。


昨日の教会の来訪とは、また別の重さだった。

宗教の重みではない。

手続きの名を借りた力の重みだ。


閲覧室の空気が一段下がる。


入ってきたのは、黒い制服の男たちだった。


十人。


歩幅が揃っている。

迷いがない。

視線も散らない。


王国警備隊。


彼らがここへ来た時点で、

図書館はもう単なる「知の空間」ではいられない。

国家の治安判断が、この場所に直接入り込んできたのだと誰もが理解する。


隊長らしい男が前に出る。


鋭い目。

短く整えられた髭。

四十代の半ばほど。

その顔には疲労も、敵意も、個人的な感情も浮かんでいない。


こういう男が一番厄介だと、ロイドは思う。

信じていない者より、命令を自分の仕事として処理できる者のほうが止めにくい。


「王立図書館司書」


アイリスが立つ。


「はい」


隊長は紙を取り出す。


王印のある命令書。


羊皮紙は厚く、折り目は新しい。

この命令は、今朝方まで机の上で作られていたのだろうと分かる。


男は低い声で読み上げる。


「王都治安維持令」


声が閲覧室の中央をまっすぐに走る。


「不穏思想の拡散を防ぐため」


一拍。


「王立図書館の一部資料を押収する」


閲覧室が静まり返る。


静かだが、空ではない。

その沈黙の中には、驚き、怒り、恐れ、そして確認が詰まっていた。


学生たちは本を閉じない。


逃げもしない。

立ち上がりもしない。

ただ、静かに見ている。


ロイドが小さく言う。


「始まった」


その声には、やはり驚きがなかった。

来ると分かっていたものが、予定通り姿を見せた時の疲れだけがあった。


マルクスは息を吐く。


「第二段階」


言葉は冷たい。

だが冷たいからこそ、構造が見える。


検閲。

押収。

焚書。


昨日書いた三語が、いま現実の順番として目の前に立ち上がっている。


アイリスは隊長を見る。


「どの書物ですか」


隊長は答える。


「政治哲学」


「社会思想」


「労働問題」


一拍置いて、少しだけ視線を動かす。


「国家秩序に影響を与える書物全般」


つまり、ほとんど全部だ。


ロイドが立ち上がる。


椅子が小さく鳴る。


「図書館は王立だ」


隊長は即答する。


「王の命令だ」


それでロイドは言葉を飲み込む。


彼は理屈で負けたわけではない。

ただ、この一言がどれほど厄介かを理解しているのだ。


王立であることは保護であると同時に、従属でもある。


マルクスが立つ。


「質問がある」


隊長が睨む。


「なんだ」


マルクスは言う。


「本を押収する理由は?」


「治安維持」


即答。


揺れない。


「つまり」


マルクスは続ける。


「言葉が危険だと?」


隊長はしばらく黙った。

その沈黙は迷いではない。

どう言えば最も齟齬なく届くかを選んでいる沈黙だった。


やがて、はっきり言う。


「言葉が人を動かす」


沈黙。


その一言は、驚くほど正直だった。


もっとも危険なのは、

敵が真実を含んだ言葉を使う時だ。


アイリスは静かに言う。


「その通りです」


隊長の眉がわずかに上がる。


「言葉は力です」


彼女は続ける。


「だから記録される」


隊長は一瞬、迷ったように見えた。


彼の前にいるこの若い司書が、

従っているのか、抵抗しているのか、判定しきれなかったのだろう。


「……だが」


彼は言う。


「今は国家が優先だ」


アイリスは頷く。


「分かっています」


そして、淡々と続ける。


「記録を取ります」


「何?」


「押収された本の」


隊長は笑う。


短い、乾いた笑いだった。


「好きにしろ」


それは許可のようでいて、実際には軽視でもあった。

どうせ紙に残したところで止められはしない、と。


だが彼はまだ知らない。

止めることと、残すことは別だということを。


兵士たちが棚へ向かう。


本が一冊ずつ取り出される。


哲学。

政治。

経済。

契約論。

労働史。

社会理論。

統治論。

革命史。


書名を確認し、目録番号を確かめ、箱へ入れる。


その動作は、驚くほど丁寧だった。


乱暴に奪うのではない。

きちんとした手順で、合法的に、整然と、知識を奪っていく。


だからこそ怖い。


学生たちはそれを見ている。


怒らない。

叫ばない。

飛び出さない。


ただ、見ている。


いや――


覚えている。


ロイドが小さく言う。


「全部覚えろ」


その声は学生たちに向けられたものではない。

だが、何人かは確実に聞いた。


マルクスが答える。


「もう覚えている」


それは大げさな言葉ではなかった。

ここにいる者たちは、すでに記憶を共同化し始めている。


一人が忘れても、誰かが覚えている。

誰かが奪われても、どこかに残る。


本が箱に入る。


一冊。

十冊。

五十冊。

百冊。


書架の空白が増える。


背表紙の列に穴が空くたび、閲覧室の空気が少しずつ軽く――そして同時に重くなる。


知識が失われたのではない。


失われうると、誰の目にも見える形になったのだ。


兵士たちが箱を持って出ていく。


最後に隊長が振り返る。


何も言わない。


その沈黙が、逆に命令の完了を告げていた。


扉が閉まる。


閲覧室は静かだった。


ロイドが机を叩く。


乾いた音が響く。


「くそ」


それは怒りの言葉だった。

だが、同時に自分への苛立ちでもあった。

何もできなかったことへの。


マルクスは言う。


「予定通りだ」


冷たい声。

だが冷たいからこそ、現実を見失わない。


「構造はそう動く」


ロイドが睨む。


「だからって平気な顔するな」


「平気じゃない」


マルクスは珍しく、すぐに返した。


「平気じゃないから、先を読む」


アイリスは棚を見る。


空いた場所。

抜き取られた本の形だけが残っている隙間。


そこに視線を置いたまま言う。


「大丈夫」


二人が彼女を見る。


「なぜ?」


ロイドが聞く。


アイリスは胸の奥を見る。


図書館魔法。


書架が広がる。


現実の棚で失われた本々が、

内側の棚にはすべて残っている。


新しい棚。

新しい通路。

押収された本が、その順番まで含めて並び直されている。


そしてその中央に、新しい一冊が現れていた。


背表紙。


《焚書》


まだ火はついていない。

だが、もう本は奪われた。

焼かれる前段階は始まっている。


アイリスは静かに言う。


「火を持っているのは」


窓の外の煙を見る。


「向こうだけじゃない」


ロイドが目を細める。


マルクスは何も言わない。


だが、その沈黙は理解の沈黙だった。


革命の火は、本を焼く火ではない。


本を守る火だ。


守るために、覚える。

写す。

残す。

語り継ぐ。

空白を空白のままにしない。


そしてその火は、

静かな図書館の中で、今、確かに灯っていた。


閲覧室の学生たちはまだ席を立たない。


むしろ、さっきよりも深く本へ沈んでいくように見えた。


奪われる前に読むのではない。

奪われたからこそ読む。


空いた棚を見た者だけが持つ、

新しい種類の集中だった。


王都の空は、まだ灰色だ。


北区の工場は動いている。

だがその歯車の下で、

別の火が静かに広がっている。


資本の火。

国家の火。

怒りの火。

そして、守る火。


書架の奥で、《焚書》の背表紙がかすかに光を持つ。


まだ誰も、その最初の頁を書いてはいない。


だがアイリスは知っている。


焚書とは、燃やす者の物語では終わらない。


何を奪われたか、

どう奪われたか、

誰が見ていたか、

何が残ったか。


それを記録する者がいる限り、

火はただの破壊ではなく、

次の時代への証拠になる。


図書館は静かだった。


だが、その静けさの奥では、

本を守る者たちの火が、もう消えない形で灯り始めていた。

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