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第7話 初めての町歩き

その日の朝、アイリスは泣かなかった。


けれど、胸の奥がひどく冷えていた。


原因ははっきりしている。


朝の回廊で、兄チャーリーと姉ララに行き会ったのだ。


二人は正妻棟から出てきたところだった。

新しい外套。磨かれた靴。


アイリスは母アリスの腕の中にいた。


ララが足を止め、じっとこちらを見る。


「……また連れ歩いてるの?」


アリスは小さく頭を下げる。


「はい。少し空気を……」


チャーリーが鼻で笑った。


「外に出すの?

妾腹の子を?」


その言葉は、軽かった。


だからこそ、鋭かった。


ララはアイリスを見下ろす。


「汚れたらどうするの」


アリスは何も言えない。


代わりにアイリスの背中を、そっと撫でる。


チャーリーは続けた。


「どうせ覚えてないでしょ。

赤ん坊なんて」


アイリスは、その言葉を静かに記録した。


――“覚えていない”と思われている。


それは、便利な前提だ。


ララはくるりと踵を返した。


「ほら、行きましょう。

変なものが移ると嫌だわ」


二人は去っていった。


回廊に残ったのは、アリスの浅い呼吸だけ。


アイリスは母の胸に顔を埋めた。


温かい。


けれど、冷たい線が一本、心の中に引かれた。


(……ここでは、私は物)


前世の感覚が、静かにつながる。


非正規。

任期付き。

代替可能。


同じ匂いだ。


画像

だから、町へ出る提案は、アリスにとって小さな逃避だった。


「少しだけ……外へ行きましょう」


付き添いもつけず、二人きり。


門を出た瞬間、空気が変わる。


石畳の冷たさ。

風の匂い。

人の声。


アイリスははっきりと感じた。


ここには、兄姉の視線がない。


町は音でできていた。


呼び込みの声。

馬車の軋み。

パンの焼ける匂い。


市場には人が溢れている。


誰も、身分を確かめない。


誰も、立ち位置を決めない。


秩序はある。

けれど格式はない。


アイリスは目を見開いた。


(……屋敷と、逆)


屋敷は静かで、線が多い。

町はうるさくて、線が少ない。


アリスは露店でパンを買い、紙袋を受け取る。


「人が多いわね……」


その声には、緊張と安堵が混じっていた。


屋敷では常に誰かの評価がある。


ここでは、誰も彼女たちを知らない。


それだけで、肩が軽くなる。


市場の奥、細い路地に古い看板があった。


《書籍・地図・古写本》


アイリスの胸が、きゅっと鳴る。


(……本)


アリスはその視線に気づいた。


少し迷ってから言う。


「……入ってみる?」


小さな鈴が鳴る。


ちりん。


店内は薄暗く、紙の匂いが濃い。


棚は歪み、床はきしむ。


だが、そこには確かに“知”があった。


古書店の主人は白髪混じりの男だった。


「いらっしゃい」


アリスは頭を下げる。


「少し、見せてください」


アイリスは母の腕の中で棚を見回す。


背表紙。

紙質。

製本の違い。


(……生きてる蔵書)


屋敷の書斎は整っている。


ここは違う。


必要と偶然で積み重なった棚。


主人がアイリスに気づき、しゃがむ。


「本が好きかい?」


アイリスは棚の方へ、小さく手を伸ばした。


主人は驚き、笑った。


「はは……早いな」


古い地図帳を差し出す。


黄ばんだ紙。


だが線は、まだ息をしている。


その瞬間、アイリスの中で何かが“通った”。


(……ここ)


ここが、自分の入口。


主人はぽつりと言った。


「こういう子は、大変な人生になる」


アリスが身構える。


だが主人は続けた。


「でもな。

長く生きるのも、こういう子だ」


アイリスは、その言葉を静かに受け取った。


帰り道。


アリスはアイリスを強く抱き寄せた。


「楽しかった?」


アイリスは母の服をぎゅっと掴む。


楽しい。


でも、それだけじゃない。


屋敷の回廊。

兄姉の言葉。

市場の雑踏。

古書店の棚。


すべてが一本の線でつながる。


屋敷だけが世界じゃない。


けれど屋敷からは、逃げられない。


アリスは小さく言った。


「あなたには……もっと広い場所を見せたい」


アイリスは答えられない。


でも心の中で、はっきり頷いた。


もう分かっている。


自分は、この線だらけの世界を整理するために生まれてきた。


小さな司書は、母の腕の中で目を閉じる。


今日、町と兄姉の両方を目録に載せた。


そして静かに思う。


この席は、いつか必ず並び替える。



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