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赤い閲覧票-『侯爵家次女は書誌魔法で知の帝国を運用する』  作者: アイリス独孤求敗(ビンちゃん特殊司書)


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第70話 就任

王宮の扉は重くなかった。


押せば、開く。


だが――


その前で足を止めさせるものがあった。


沈黙。


誰も声を発していない。

だが、待たされているという感覚がある。


それは威圧ではない。

測られているという感覚だった。


アイリスは一歩進む。


扉に触れる。


冷たい。


そして、そのまま押し開けた。


呼び出しは簡潔だった。


王立図書館人事に関する協議


協議。


決定ではない。


つまり――


ここで拒否できる余地がある。


その余地があること自体が、重かった。


出発前、老司書は一言だけ言った。


「役職は命令を増やさない」


一拍。


「拒否の責任を増やす」


その言葉は、歩くほどに意味を変えた。


廊下を進むたびに重くなる。


これは昇進ではない。


引き受ける範囲の拡張だ。


一 会議


案内されたのは、広間ではなかった。


小部屋。


窓は狭く、光は薄い。


机は円形。


中央がない。


つまり、序列が固定されていない。


だが、その不在が逆に緊張を生む。


席は四つ。


三つは既に埋まっていた。


一人目。


王権代表。


年齢は読めない。

装飾は最小限。

だが、沈黙の持ち方が違う。


決定に慣れている人間の静けさ。


二人目。


行政代表。


書類を持ち込んでいる。

指先に墨が残っている。

現場の重みを背負う者の疲労が、隠しきれていない。


三人目。


教会代表――審問官。


第68話で会った男だった。


黒ではなく、今日は白灰の法衣。

対立の場ではないことを示している。


そして――空席。


そこがアイリスの席だった。


彼女は座る。


誰も促さない。


それ自体が合図だった。


王権の使者が口を開く。


「焚書停止の件、確認した」


声は低いが、遮るものがない。


行政官が続く。


「禁書調整の判断も読んだ」


書類を閉じる。


つまり、記録として受理された。


審問官が頷く。


「暫定注記、適切であった」


わずかに視線が交わる。


敵対ではない。


評価でもない。


配置の確認。


沈黙。


だがこれは尋問ではない。


ここにいる四者が、それぞれの位置を測っている時間だった。


二 図書館とは何か


行政官が最初に動く。


「図書館は何をしている」


問いは単純。


だが答え方で、すべてが決まる。


「記録を保管しています」


言った瞬間、分かった。


違う。


三者の首が、ほぼ同時に横へ動く。


王権代表が言う。


「それは結果だ」


審問官が静かに補う。


「機能ではない」


アイリスは一度目を伏せる。


考える。


これまでの全てが、ここで問われている。


焚書。

禁書。

未確定。

時間。


そして顔を上げる。


「判断を急がせない仕事です」


わずかな間。


審問官の口元が動く。


微笑。


王権代表は視線を動かさない。


「では国家にとっての意味は」


ここで、選ぶ必要があった。


個人の言葉ではなく、制度の言葉を。


「国家が誤る速度を遅くします」


沈黙。


否定はない。


それが答えだった。


三 任命


王権代表が書状を差し出す。


封はされていない。


すでに内容は決まっている。


アイリスは開く。


一行。


王立図書館司書に任ず


補助の文字がない。


一瞬だけ、視界が揺れる。


だがすぐに戻る。


「なぜ私ですか」


問いは短い。


王権代表が答える。


「誰の道具にもならなかったからだ」


その言葉は評価ではない。


条件確認だった。


行政官が続く。


「誰の敵にもならなかった」


それはバランスではない。


衝突を止める位置。


審問官が最後に言う。


「誰の結論も奪わなかった」


三者の言葉が揃う。


そして王権代表が締める。


「ゆえに――」


一拍。


「結論の前に置く」


それが、司書の定義だった。


四 拒否権


アイリスは書状を閉じる。


受け取る前に、止める。


老司書の言葉が浮かぶ。


拒否の責任。


「受ける条件があります」


空気がわずかに変わる。


三者の視線が、同時に集まる。


ここで初めて、彼女は対等に立った。


「命令権を持たないこと」


行政官の眉が上がる。


「弱くなるぞ」


即答する。


「必要ありません」


「なぜだ」


「図書館は決定しないからです」


審問官が頷く。


納得ではない。


確認。


「では何をする」


「決定が孤立しないようにします」


王権代表が、わずかに目を閉じる。


そして言う。


「承認する」


その一言で、すべてが確定した。


五 就任


署名は短かった。


名を書く。


それだけ。


だが――


それで変わるのは身分ではない。


位置だ。


部屋を出る。


廊下を歩く。


音が違う。


足音。

命令。

報告。


それらがすべて、


どこかへ流れていく途中のものに聞こえる。


そして気付く。


それらが未決のまま通過できる場所が、一つだけある。


図書館。


老司書が廊下の角で待っていた。


壁にもたれている。


だが、姿勢は崩れていない。


「戻ったか」


「はい」


書状を差し出す。


老司書は目を通さない。


ただ一度、深く頷く。


「今日からお前は、本を扱うな」


アイリスは一瞬だけ戸惑う。


「はい?」


老司書は視線を上げる。


「社会を扱え」


その言葉で、すべてが腑に落ちる。


夕方。


図書館の名簿。


補助司書の線。


その上に、もう一本。


だがそれは境界ではない。


上下でもない。


交点だった。


役割が重なる場所。


制度が交わる場所。


その夜。


新しい照会が届く。


封は重い。


差出人は明確だった。


行政。


内容は一行。


労働争議の記録を求む


アイリスはそれを見つめる。


静かに息を吐く。


図書館はついに――


国家運用そのものに触れ始めた。

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