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第6話 使用人区画の午後

午後になると、屋敷の空気は少し変わる。


午前中の張りつめた緊張がほどけ、

給仕や洗濯女たちの声が、廊下の奥から流れてくる。


正妻棟の静けさとは違う、生活の音。


アイリスはその変化を、肌で感じていた。


母アリスは、できるだけこの時間帯にアイリスを連れて使用人区画へ行く。


理由は言わない。


けれどアイリスには分かっていた。


ここなら、視線が痛くない。


洗濯場は、いつも湿っていた。


石床に水が残り、布の重たい匂いが漂う。


大きな桶。

木の洗濯板。

干し竿に揺れる白い布。


何人もの女たちが、黙々と手を動かしている。


誰も急かさない。

誰も責めない。


ただ、終わらない仕事が続くだけだ。


アリスは控えめに挨拶する。


「お邪魔します」


返ってくるのは、気取らない声。


「いいのよ」

「ちょうど一息つくところ」


その中に、一人だけ、少し年上の女性がいた。


落ち着いた動き。

柔らかな笑顔。


彼女がルリだった。


「まあ……この子?」


ルリは手を拭いて近づいてくる。


アリスが答える。


「娘です。アイリス」


ルリはしゃがみ、アイリスと目線を合わせた。


「こんにちは」


その声は低く、安心する響きだった。


アイリスは、じっと彼女の顔を見る。


視線が逸れない。


ルリは笑った。


「よく見る子ね」


その一言が、胸に小さく灯る。


父でも、ミグリーでも、母でもない。


屋敷の“外縁”にいる人から向けられた、初めてのまっすぐな視線。


アイリスは理由もなく、少しだけ胸が熱くなった。


画像

洗濯場の隅に腰掛けると、女たちの会話が聞こえてくる。


「今月も小作の納めが減ってるって」


「雨が少なかったものね」


「領主様も大変だろうけど……」


言葉は穏やかだが、含まれているのは不安だ。


アイリスは、前世の職場を思い出した。


景気の話。

契約更新の噂。

来年度の予算。


同じだ。


声を潜める場所が違うだけ。


ルリはアイリスの小さな手に、自分の指をそっと絡めた。


「冷たい?」


アイリスは首を振る。


実際には分からない。


だが、その問いかけ自体が温かい。


(……この人は、触れる前に聞く)


それを記録する。


人は、触れる前に聞ける。


それだけで、世界は少し優しくなる。


画像

しばらくして、ルリはアリスに言った。


「少し、外を歩きます?」


洗濯物を干しながら、裏庭へ出る。


裏庭は華やかではない。


雑草が伸び、石畳も割れている。


けれど空は広い。


アイリスは、久しぶりに強い風を感じた。


木の葉が揺れ、鳥の声がする。


ルリはアイリスを抱き上げ、花壇の縁に立った。


「ここはね、私たちの場所」


アリスは小さく笑う。


「そうですね」


ルリは続けた。


「正妻棟は息が詰まるでしょう」


アリスは否定しない。


ルリはそれ以上深く聞かない。


代わりに、花を指さす。


「見て。これ、去年植えたの」


小さな白い花。


誰も名前を知らない花。


「踏まれても、また咲くのよ」


その言葉に、アイリスの胸がきゅっと縮む。


踏まれても、咲く。


それは、強さなのか。


それとも、諦めなのか。


夕方、アリスは屋敷に戻る準備をする。


ルリが小さな布切れを差し出した。


「よかったら」


簡素なハンカチ。


刺繍もない。


でも、清潔で、丁寧に畳まれている。


アリスは戸惑った。


「そんな……」


ルリは首を振る。


「いいの。洗い替えに」


アイリスはその布を見つめる。


前世の記憶が重なる。


職場で回される備品。

誰かのお下がりの制服。


それは施しではない。


循環だ。


ルリは、循環の側の人だ。


屋敷の中心には立たない。


けれど、人と人をつないでいる。


アイリスは、彼女の指の節を見つめながら、強く思った。


(……この人は、消えちゃいけない)


部屋に戻ると、アリスは静かにため息をついた。


「ごめんね。こんな場所ばかりで」


アイリスは母の胸に顔を埋めた。


温かい。


安心。


でも、同時に、胸の奥が少し痛む。


今日見た洗濯場。

畑の話。

踏まれても咲く花。


赤子の心に、初めて“泣きたい”という感情が浮かぶ。


理由ははっきりしない。


ただ、世界が広すぎて、自分が小さい。


それだけだ。


アイリスは声を出さなかった。


代わりに、母の服を強く握った。


泣けば楽になる。


でも、泣くより先に整理が始まる。


誰が中心で、

誰が外縁で、

誰が支えているか。


赤子の頭の中で、図が描かれる。


正妻棟。

書斎。

台所。

洗濯場。

畑。


すべてが一本の線でつながる。


妖精の声が、かすかに響く。


“守るために動く”


まだ動けない。


まだ話せない。


でも、覚えている。


ルリの手の温度。

洗濯場の湿った空気。

小作人の背中。


小さな司書は、今日も世界を目録に載せる。


そして心の奥で、静かに誓う。


この人たちの席を、

端のままにはしない。

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