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第5話 父の書斎と家庭教師ミグリー

アイリスが「学ぶ」という言葉の重さを知ったのは、父の書斎でだった。


レイモンの書斎は、屋敷の中でも特別な場所だった。


天井まで届く本棚。

大きな執務机。

分厚い地図帳と、紐で束ねられた書簡。


窓から差し込む光が、紙の縁を淡く縁取る。


台所とも食堂とも違う、深い静けさ。


鍋の音も、給仕の足音も届かない。

あるのは、紙とインクと、少し古い革の匂いだけだった。


アイリスは母の腕から父の膝へ移され、そのまま絨毯の上に座らされた。


視線の高さが変わる。


棚の背表紙が、一気に近づいた。


(……ここは、中心)


彼女の中で、そんな言葉が浮かぶ。


屋敷の中央。

知の集積点。

決定が生まれる場所。


「今日は、この人に会ってもらう」


レイモンはそう言って、扉のほうを見た。


ほどなくして入ってきたのは、背筋の伸びた老紳士だった。


灰色の髪。

細い眼鏡。

無駄のない動き。


歩き方に、迷いがない。


「ミグリーです」


父が紹介する。


「今日から、この子の家庭教師を頼みたい」


ミグリーは一礼し、アイリスを静かに見下ろした。


その視線は、優しくも厳しくもない。


ただ、測っている。


体格。

目の動き。

呼吸の速さ。


「……ずいぶん小さい」


「だが、目がいい」


レイモンが言う。


ミグリーは少し首を傾げた。


「目ではありません。姿勢です」


そう言って、アイリスの背を軽く整えた。


赤子の身体は柔らかく、すぐ丸くなる。


だがミグリーの指は迷わない。


「座るときは、背骨を立てる。

これは一生の癖になります」


アリスが思わず声を上げた。


「まだ赤ん坊ですが……」


ミグリーは、穏やかに、しかし即座に返した。


「だから、今です」


その言葉に、部屋の空気が一瞬止まる。


レイモンは何も言わなかった。


それが了承だと、誰の目にも分かった。


アイリスは理解した。


この人は甘くない。

だが逃げない。


(……現場型)


前世で何度も見たタイプだ。


厳しいが、理不尽ではない。


画像

その日から、ミグリーの教育が始まった。


最初は「授業」と呼べるものではなかった。


座り方。

首の角度。

視線の置き方。


それだけ。


だが、すべてに意味があった。


「視線は対象の中心に」

「顎を引きすぎない」

「泣く前に、呼吸を整える」


赤子に向かって言う内容ではない。


けれどミグリーは一切妥協しなかった。


アイリスは黙ってそれを受け取った。


(……基礎入力)


前世の感覚が、自然と当てはまる。


これは身体に入れる初期設定だ。


そして、文字が始まった。


最初は大きなカード。


単語ではない。

文字単体。


A。

B。

C。


ミグリーは一枚ずつ、無言で差し出す。


アイリスは見つめる。


すでに読める。


だが、ここでは“知らないふり”をした。


あくまで赤子として、少しずつ。


「……認識が早い」


ミグリーが低く呟く。


「ですが、急がせない」


それが、この人のやり方だった。


速度より、定着。


成果より、回路。


ある日、マリーが書斎に顔を出した。


「まだこんなに小さいのに?」


声は冷たくはない。

だが、温度もない。


ミグリーは礼をしたが、姿勢を崩さない。


「はい。だからこそです」


マリーは扇を揺らす。


「遊ばせておけばいいでしょう」


ミグリーは静かに答えた。


「遊びは後で取り戻せます。

基礎は、今しか入りません」


マリーは薄く笑った。


「妾腹に、そこまでする必要が?」


その瞬間、アリスの肩が小さく揺れた。


レイモンは短く言った。


「必要だ」


それ以上は言わない。


家を壊さないための、最小限の抵抗。


ミグリーは何も言わなかった。


ただ、アイリスの背をもう一度整えた。


その手つきは、不思議なほど丁寧だった。


アイリスは、その沈黙を記録した。


――父は線を越えない。

――ミグリーは線を無視する。


役割が違う。


授業は増えていった。


数。

図形。

音。


泣けば休憩ではない。


泣く前に整える。


ミグリーは決して声を荒げない。


だが、必ず最後までやらせる。


「できないのではありません。

まだ“通っていない”だけです」


通る。


その言葉が、胸に残った。


知識は水路だ。

一度通れば流れる。

通らなければ、溜まって腐る。


夜になると、アリスは心配そうにアイリスを抱いた。


「厳しすぎないかしら……」


その声は震えていた。


アイリスは母の胸に頬を寄せる。


温かい。


この人は守りたい。


でも、同時に思う。


(必要)


前世で何度も見た。


甘さは、人を止める。

無秩序な優しさは、未来を奪う。


ミグリーは違う。


これは鍛錬だ。


ある日の終わり。


ミグリーは書斎の窓辺で、レイモンに言った。


「この子は、普通ではありません」


レイモンは黙って聞く。


「観察力が異常です。

記憶の定着も早い。

そして……」


ミグリーは少し間を置いた。


「自分の立場を理解しています」


レイモンは深く息を吐いた。


「そうか」


それ以上は聞かなかった。


期待は、この家では刃になる。


アイリスは揺り籠の中で、その会話を聞いていた。


期待はいらない。


必要なのは、道具だ。


姿勢。

文字。

数。

呼吸。


それらを一つずつ積み上げる。


怖くないわけではない。


疲れるし、痛い日もある。


それでも、やめない。


小さな司書は、今日も基礎工事を続ける。


配線の始まりは、いつだって地味だ。


だが、その一本が、やがて国を動かす。


彼女はまだ知らない。


ただ、静かに学んでいる。



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