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赤い閲覧票-『侯爵家次女は書誌魔法で知の帝国を運用する』  作者: アイリス独孤求敗(ビンちゃん特殊司書)


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第51話 選択の前日

雪が降る前の空気は、音を吸い込む。


遠くの足音も、笑い声も、

どこか一枚布をかけられたように鈍くなる。


学園の中庭も、同じだった。


いつもと同じ場所。

同じ石畳。

同じ木々。


だが距離感が違う。


生徒たちは歩いている。

笑っている。

議論もしている。


けれど――


言葉の終わりが早い。


途中で切れる。


最後まで言わない。


そして必ず、視線が周囲へ流れる。


考えるより先に、確認する。


誰が聞いているか。

誰が見ているか。


空気は、もう変わっていた。


「噂が確定した」


ロイドの声は低かった。


低いが、いつもの粗さがない。


押し殺している。


怒りを。


アイリスは本のページを閉じる。


指先が一瞬だけ止まる。


「明日、王令が出る」


その言葉は短い。


だが重い。


軽く言える内容ではないからこそ、短くなる。


「内容は?」


ロイドは視線を外さない。


逃げない。


「教会と共同の“思想登録制”だ」


一拍。


「教師、学生、職人……全部だ」


さらに続ける。


「講義、討論、集会――全部届け出制になる」


沈黙。


風の音すら、遠い。


理解に時間はかからない。


議論は許可制になる。

許可は選別になる。

選別は排除になる。


それは論理ではなく、構造だった。


「……図書室も?」


アイリスの声は静かだった。


揺れていない。


だが、どこか乾いている。


「当然入る」


ロイドは即答する。


そこに迷いはない。


その瞬間。


胸の奥で、何かが静かに沈んだ。


恐怖ではない。


怒りでもない。


確定。


未来の一つが、完全に閉じた。


可能性ではなく、決定として。


午後の授業。


形式は変わらない。


数学の証明。

歴史の年表。

魔法理論の講義。


教師はいつも通りに話す。


声も、板書も、整っている。


だが――


誰も覚えていない。


生徒たちの意識は、そこにない。


全員が同じことを考えている。


明日。


何が変わるのか。


何が奪われるのか。


何を残せるのか。


休み時間。


学生たちは自然と集まる。


だが、輪は小さい。


三人。

四人。


それ以上は広がらない。


声も低い。


「従うしかないだろ」

「破れば退学だ」

「いや、場合によっては……それ以上だ」


言葉が途中で止まる。


誰も最後まで言わない。


処罰の具体を口にすること自体が、

すでに危険だと理解しているから。


「でも、それじゃ……」


続かない。


選択の前日には、議論は深まらない。


止まる。


判断の手前で。


ロイドは苛立っていた。


それは表情に出ている。


普段なら抑えない。


だが今は違う。


拳は握っているが、振らない。


「こんなの、議論じゃない」


吐き捨てるように言う。


アイリスは頷く。


「うん」


ロイドは続ける。


「正しいかどうかじゃなくなってる」


「うん」


「怖いかどうかになってる」


その言葉は、ほとんど呻きだった。


正しさが基準ではなくなった瞬間。


それが何を意味するか、彼は本能で理解している。


アイリスは答えない。


否定できないから。


そして、それが終わりではないと知っているから。


夕方。


訓練場。


ジェームス王子が一人で剣を振っていた。


音が鋭い。


いつもより速い。


だが――


無駄が多い。


踏み込みが深すぎる。


返しが荒い。


苛立ちが、そのまま動きに出ていた。


彼は止まれない。


止まれば考えてしまうから。


アイリスが近づく。


足音に気づいた瞬間、剣が止まる。


呼吸が荒い。


だが視線は鋭い。


「来たか」


「うん」


短い応答。


沈黙。


二人の間には、言葉より先に理解がある。


王子が言う。


「国は、守らねばならん」


即答だった。


それは彼の軸だ。


迷いはない。


だが――


その中身は揺れている。


「何から?」


アイリスは問う。


逃げない問い。


王子は少しだけ間を置いて答える。


「崩壊からだ」


強い言葉。


だが輪郭が曖昧だ。


「崩壊って、何?」


その問いに、王子は答えない。


答えられないのではない。


定義できていない。


代わりに言う。


「自由は便利だ。だが制御できない」


「制御できないのは、人?」


「思想だ」


即答。


それは彼の恐怖だった。


人は従わせられる。


だが思想は、従わない。


「思想は止まらないよ」


アイリスは静かに言う。


王子は剣を下ろす。


重さが手に残る。


「だから枠を作る」


それが彼の答え。


統治者の答え。


アイリスは頷く。


「枠は、守るためにも使える」


「そうだ」


「でも、閉じ込めるためにも使える」


その言葉に、王子の目が揺れる。


ほんの一瞬。


彼は理解している。


完全に。


だが――


止まれない。


彼は王子だからだ。


立場が、思考より先に動く。


夜。


学生寮。


異様な静けさ。


誰も読書していない。


ページをめくる音がない。


誰も議論していない。


声がない。


それは「明日から出来なくなるから」ではない。


もう始まっているからだ。


制限は、布告の前に心に入る。


アイリスの書斎。


亜空間。


空間はさらに広がっている。


棚は増え、通路は深くなる。


四冊の本が並ぶ。


《観察》

《分類》

《責任》

《伝達》


それぞれが、わずかに光を持つ。


だが――


その奥。


空白がある。


一つ分。


次の本の場所。


まだ現れていない。


だが存在は確かにある。


ロイドが呟く。


「選ぶしかないな」


彼はもう理解している。


逃げ道はない。


「うん」


アイリスは肯定する。


ロイドは続ける。


「黙るか、話すか」


それは彼にとっての二択だ。


単純で、現実的な。


だがアイリスは首を振る。


「それだけじゃない」


「?」


ロイドが顔を上げる。


アイリスは静かに言う。


「どう話すか」


沈黙。


その言葉の意味は重い。


ただ話すか黙るかではない。


言葉の形。

順序。

文脈。

誰に、どこで、どう渡すか。


それすべてが、結果を変える。


沈黙にも種類がある。


抵抗の沈黙。

恐怖の沈黙。

準備の沈黙。


言葉にも種類がある。


煽る言葉。

繋ぐ言葉。

切り分ける言葉。


明日、世界は二つに分かれる。


命令に従う世界。


問いを残す世界。


どちらも現実だ。


どちらも正しい部分を持つ。


だからこそ、厄介だ。


灯りを消す前。


アイリスは空白の背表紙に触れる。


まだ題名はない。


だが分かっている。


次に必要なのは、知識ではない。


選択。


その言葉を、まだ書かない。


書いた瞬間、それは固定されるから。


鐘が鳴る。


低く、長く。


夜を区切る音。


長い夜が始まる。


そして――


明日は、静かではない。


音は吸い込まれない。


言葉は止まらない。


選択が、現実になる。

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