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赤い閲覧票-『侯爵家次女は書誌魔法で知の帝国を運用する』  作者: アイリス独孤求敗(ビンちゃん特殊司書)


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第44話 読まれない本

翌朝、図書室は空いていた。


それは、すぐに分かる種類の異変だった。


いつもなら、開館の鐘とほとんど同時に何人もの生徒が流れ込んでくる。

窓際の席から埋まり、次に中央の長机、最後に書架の影にある小さな閲覧机へと人が散っていく。

紙の擦れる音。

椅子を引く音。

司書係の小さな注意。

朝の図書室には、独特の生きたざわめきがあった。


だが今日は違う。


窓際に数人。

それも、広い室内に点のように散っているだけ。


中央の大机は半分以上が空席で、

いつもなら誰かの鞄やノートが置かれている場所に、今は光だけが落ちている。


空いている。


ただそれだけのことなのに、

図書室全体が一段広く、冷たくなったように感じられた。


机の上には、新しい閲覧台帳が置かれていた。


革表紙。

厚い紙。

開かれたままの、まだほとんど白いページ。


その白さが、不自然だった。


汚れていない。

使い込まれていない。

だが、それは無垢というより、監視の始まりの色に見えた。


誰にも触れられていない。


誰も最初の一人になりたくないのだと、アイリスは思った。


ロイドが囁く。


「静かだな」


彼の声も、無意識に低くなっている。

大柄な体を少しかがめ、周囲を警戒する立ち方。

もともと目立つ男なのに、最近は目立たぬように振る舞う癖がつき始めていた。


アイリスは書架の前に立ったまま、小さく答える。


「静かすぎる」


彼女は本棚に並ぶ背表紙を、指先でなぞった。


革の感触。

布張りのざらつき。

金文字のかすかな凹凸。


本はそこにある。

消えたわけではない。

焼かれたわけでも、奪われたわけでもない。


だが――


(読まれない本は、安全になる)


その考えが胸の中に浮かぶ。


安全。


誰にも危険視されない。

誰も棚から抜かず、誰の記録にも残らない。

思想統制の視線からすり抜ける。


けれど同時に。


(死ぬ)


知識は読まれなければ燃えない。

燃えなければ光も出ない。


本は物として残る。

しかし、関係としては死ぬ。


そのことが、アイリスにはとても悲しかった。


午前の授業は淡々と進んだ。


進んだように見えた。


教師たちは表面上、いつも通りに振る舞っている。

板書をし、出席を取り、課題を告げる。


だが、教室には別の層の空気が流れていた。


“何を言えばよくて、何を言わない方がいいか”


全員が、その計算を同時に行っている空気。


午後の倫理学で、それはさらに露わになった。


司祭が講壇の前に立ち、穏やかな口調で言う。


「最近、危険思想の兆候が減少した」


その言葉に、多くの生徒が反射的に頷いた。


深く理解しているからではない。

頷かないことの意味を考えてしまったからだ。


「健全な傾向だ」


褒めるような声だった。

祝福にも聞こえる。


だが教室の空気は、むしろその一言で固まった。


褒賞のように響く言葉が、

実際には「見ている」「効果が出ている」と告げている。


アイリスは、その場で気づく。


(減ったのではない)


違う。


(表面化しなくなっただけ)


危険思想が減ったのではない。

危険思想と見なされるような“動き”が、表へ出なくなっただけだ。


問いは消えていない。

ただ、口へ上がる前に沈んでいる。


それは静けさではない。


沈殿だ。


放課後。


図書室の裏口。


人目につきにくい石壁の陰で、ルリが小声で言った。


彼女の顔は青ざめていた。

もともと快活で、教室の空気が重い時ほど軽口を叩くタイプの少女なのに、今日は唇の色が薄い。


「今日、処分があったの」


「誰が」


アイリスの問いに、ルリはすぐには答えなかった。


喉が動く。

言葉にした瞬間、それが現実になるのを恐れている顔だった。


「一年生の子」


ようやく出た声は、囁きにも満たない。


「“社会契約”を読んでいた」


ロイドが息を呑んだ。


その反応は大きくはなかった。

だが、彼の肩が一瞬だけ強くこわばったのを、アイリスは見た。


「何の罪だ」


声が低い。

怒りを抑えている時の声だ。


ルリは答える。


「問いを持った罪」


その一言で、石壁の向こうの夕方が急に遠くなった。


誰もすぐには続けなかった。


“社会契約”を読むこと。

たったそれだけで、処分が起きる。


ならば、人々は次に何を学ぶのか。


読まないことを学ぶのだ。


その夜。


アイリスは亜空間を開いた。


目を閉じる。

呼吸を落とす。

掌の内側に《一冊》の重みを呼び戻す。


白い静かな空間。

まだ未完成の書庫。


そこに、以前はなかった影が増えていた。


書棚の一角に、薄く沈んだような気配。


《読まれなかった本》


その題が、影から浮かぶ。


アイリスは一冊を手に取る。


見えない。

だが、確かな重みがある。


触れた瞬間、文字が浮かんだ。


《検閲は消去ではなく、遅延である》


アイリスは目を開けないまま、その言葉を反芻した。


(遅延……)


禁止ではない。


本を燃やすのでも、貸し出しを禁じるのでもない。

読む勇気を奪うこと。


その結果、人は自分から手を引く。

いつか読もうと思いながら、その「いつか」を先へ先へ送っていく。


それは最も効率的な統制だった。


知識を敵にする必要はない。

ただ、届くまでの時間を無限に伸ばせばいい。


そうすれば、思想は熟す前に乾く。


アイリスは理解した。


検閲は、否定ではない。

消去でもない。


時間を操作する技術なのだと。


翌日。


ジェームス王子は教室の後方に立っていた。


以前なら前列の中央、誰の目にも入る位置にいたはずの彼が、今は自分から後ろへ下がっている。


その選択が、監察官たちの視線を呼んでいることも、もちろん分かっていた。


廊下の角。

講堂の出口。

図書室の前。


どこにいても、黒衣の影が増えている。


彼は気づいている。


「殿下、最近は図書室に行かれていないとか」


侍従が言う。


若い男だ。

よく訓練され、忠実で、問いよりも返答を優先する顔をしている。

ジェームスにとっては便利な存在だったが、最近、その“便利さ”が少し息苦しくもあった。


「読む必要がない」


ジェームスは短く返す。


「では何を?」


「見ている」


窓の外を見る。


読書が減ると、議論が減る。

議論が減ると、対立が減る。

対立が減ると、調停が不要になる。


王の役割は、争いを管理することだ。

差を抑え込み、利害を調整し、崩れないように均衡を取ること。


ならば。


読書が減り、議論が減った社会で、王は何をするのか。


(教会は安定を望む)


(だが王は変化を必要とする)


その違いが、ジェームスの中ではっきりと形を取り始めていた。


安定しすぎた社会は、王を必要としない。


必要とされない王権は、象徴であっても空洞になる。


そのことが、彼には恐ろしかった。


図書室。


アイリスは台帳を開いた。


自分の名を探す。


空白。


当然だった。


彼女は何も借りていない。

借りる必要が、最近ではほとんどなくなっていた。


必要なものが減ったのではない。

知識の受け取り方が変わってしまったのだ。


(知識は、もう外にある)


紙の上だけではない。

関係の中にある。

配置の中にある。

視線の流れや、沈黙の長さの中にある。


そして何より――


掌の内に、重さを感じる。


あの一冊。


目を閉じる。


本が開く。


頁がまた増えている。


《読まれない本は、地下へ潜る》


その一文に触れた時、アイリスははっきり理解した。


外で読めないなら、内に積む。


監査は地上を覆う。

台帳は閲覧机を支配する。

だが地下書庫は消えない。


文字通りの地下だけではない。


人の内側にも、地下はある。


恐れによって地上から追われた本たちは、

そこで静かに堆積していく。


消えるわけではない。

むしろ、地上より長く残ることもある。


夜。


ロイドは机に向かっていた。


本を読んでいるわけではない。

肘をつき、指を組み、何かを考えている。


灯りが頬の陰影を深くしていた。

彼は本来、思索家の顔をしていない。

もっと直線的に怒り、動き、言葉を投げる男だ。


だが最近は、怒りがすぐ行動にならない。


沈殿している。

重くなっている。


「君は怖くないのか」


不意に問う。


アイリスは即答した。


「怖い」


間がなかった。


その率直さに、ロイドは少しだけ目を見開く。


「でも、整理できる」


「整理?」


「怖さの構造を分けるの」


ロイドは苦笑した。


「それが君の武器か」


「武器じゃない」


アイリスは首を振る。


「避難所よ」


その答えは、彼にとって意外だった。


武器ではなく、避難所。


つまり彼女は、強いから整理しているのではない。

壊れないために整理しているのだ。


ロイドは、その事実に妙な安堵を覚えた。


彼女は特別だ。

だが、人ではある。


怖がる。

疲れる。

それでも並べ直す。


そこに、彼は信頼を置ける気がした。


遠く、教会の鐘が鳴る。


規則正しい音。

秩序の音。

時間の音。


だが、街の奥では別の音がしている。


工場の蒸気。

鉄の軋み。

夜も止まらない労働の音。


資本の拡張は、鐘ではなく蒸気の音で進む。


労働者たちは夜も動く。

本を読まない代わりに、疲労が思想を溜める。


読書が減っても、不満は減らない。


むしろ形を失った不満は、

いつか別の出口を求めて噴き出す。


大司教イグナスは台帳を閉じた。


深夜の執務室。

机の上には閲覧記録、報告書、学園内配置図。


「静かだ」


側近が言う。


「成功でしょうか」


イグナスは窓の外を見た。


遠くで煙が揺れている。

教会の鐘と、工場の煙。

古い秩序と新しい流動。


その両方を見ながら、彼は小さく呟いた。


「静けさは成功ではない」


一拍。


「嵐の前触れでもある」


その言葉には、楽観も悲観もなかった。


ただ統治者としての経験があった。


人は、押し黙ったまま消えるとは限らない。

黙ったまま蓄積することもある。


それを彼は知っている。


だからこそ、管理をやめない。


深夜。


アイリスは一冊を抱く。


まだ二冊目には届かない。

だが、頁は確実に増えている。


《目録は人を並べる。

 だが本は、並ばなくても残る》


その一文が、静かに浮かぶ。


彼女はしばらくそれを見つめていた。


目録は秩序の技術だ。

だが、秩序はときに知を地上から追い出す。


それでも本は残る。


棚の上でなくても。

台帳の外でも。

読まれなかったものの地下で、静かに。


彼女は目を開ける。


図書室は静かだ。


静かだが、空ではない。


読まれない本たちが、

読めない人々の思考と結びつきながら、

静かに地下へ沈んでいく。


沈むことは、消えることではない。


いつか、誰かが掘り出す日まで、

そこに残るということだ。


そしてその時、

地上で安全だった白い台帳よりも、

地下で眠っていた問いの方が、

ずっと強い火を持つかもしれない。

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