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第3話 小さな席のある食堂

イリスが「この家には目に見えない線が引かれている」と気づいたのは、まだ言葉を覚える前だった。


それは声ではなく、距離で分かった。


朝になると、廊下の向こうから食器の音が聞こえてくる。

銀の触れ合う澄んだ音。

焼いたパンの匂い。

温かいスープの香り。


それらはすべて、正妻側の食堂から流れてくる。


アイリスの部屋に届くのは、少し遅れて運ばれてくる空気だけだった。


母アリスは、いつも静かに娘を抱き上げる。


画像

仕草はやさしい。

声も柔らかい。


けれど屋敷の中では、必ず壁際を歩く。


誰かとすれ違えば足を止め、視線を落とす。


それが、この家の決まりだった。


アイリスは揺り籠の中から、その様子を見ていた。


(……なるほど)


赤子の頭の奥で、前世の感覚が小さく反応する。


これは感情の問題ではない。

配置の問題だ。


ある日、乳母が替わった。


それまで世話をしてくれていた年配の女性は、何の説明もなく別棟へ移された。


新しく来た若い使用人は、ひどく緊張していた。

哺乳瓶の温度を何度も確かめ、抱き方もぎこちない。


アイリスは泣かなかった。


泣けば、この人が困る。

困れば、さらに弱い立場になる。


前世の経験が、無意識の判断を導いていた。


(泣かないほうが、安全)


その夜、アリスは揺り籠の横で声を殺して泣いた。


「アイリス……ごめんなさい」


謝罪の理由は語られなかった。


けれどアイリスには分かった。


母もまた、この家の中で“端の席”に座らされている。


それだけだ。


父レイモンの書斎に連れて行かれるのは、父の時間が取れる日だけだった。


高い本棚。

紙と革の匂い。

陽の差し込む窓。


そこに入ると、アイリスの意識ははっきりと冴える。


(……図書室)


レイモンは忙しい人だった。


領地経営。王都との書簡。教育行政の準備。


それでも膝にアイリスを乗せ、本棚を指さしてくれる。


「これは地理」

「これは歴史」

「これは経済だ」


アイリスは声の代わりに視線で応えた。


背表紙の並び。

装丁の違い。

刊年のばらつき。


すべてが頭に入る。


(分類、まだ粗い……)


だがそれは口に出せない。


レイモンは、それを“賢い目”だと受け取っていた。


「よく見ているな」


父は穏やかに笑う。


その笑顔は本物だった。


だが長くは続かない。


正妻マリーは、書斎にアイリスがいるのを好まなかった。


「あなたの仕事場に、あの子を?」


夕食前の静かな声。


責めるというより、確認に近い。


レイモンは一瞬黙ってから答えた。


「学びは血筋で決めない」


それ以上は言わなかった。


それ以上言えば、家の空気が壊れると知っているからだ。


アイリスはその沈黙を、はっきり理解した。


守ろうとはしてくれる。

けれど全面的には戦わない。


それもまた、現実だ。


初めて“席”を意識したのは、一歳を迎えた頃だった。


その日は小さなサイドテーブルが、食堂の壁際に置かれていた。


中央の大きなテーブルには、マリーと兄チャーリー、姉ララ。


壁際に、アリスとアイリス。


距離は数メートル。


だが空気は別の部屋のようだった。


マリーはワインを口に含みながら言った。


「同じ部屋にいるだけ、配慮しているつもりよ」


チャーリーが笑う。


「ほら、端っこ」


ララは皿の肉をつつきながら、小さく呟いた。


「……妾腹って、ああいう席なのね」


アイリスは母の腕の中で、その配置を眺めていた。


中央と端。


主架と別置。


突然、そんな言葉が浮かぶ。


前世で何度も見てきた構図だ。


頻繁に使われる資料は中央へ。

使われないものは壁際へ。


感情ではない。

運用だ。


(なら、戻るには)


アイリスの思考は自然に続く。


必要性を示す。

実績を積む。

目録に載る。


つまり――価値を可視化する。


夜。


揺り籠の中で天井を見つめながら、アイリスは静かに考えていた。


泣いても、席は変わらない。

怒っても、配置は動かない。


前世で学んだ。


棚を動かすには理由がいる。

目録を書き換えるには証拠がいる。


ならば。


自分は叫ばない。


整理する。


視線を覚え、

言葉を記録し、

配置を理解する。


そして、いつか並び替える。


妖精の声が、遠くでよみがえった。


“逃げない。隠れない。黙って消えない”


アイリスは小さな手をきゅっと握った。


まだ歩けない。

まだ話せない。


それでも、ここは戦場だと分かっている。


小さな席から始まる人生。


その終着点が、巨大な図書館になることを――


今はまだ、誰も知らない。

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