表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
赤い閲覧票-『侯爵家次女は書誌魔法で知の帝国を運用する』  作者: アイリス独孤求敗(ビンちゃん特殊司書)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/170

第36話 白い部屋の質問

呼び出しは、朝だった。


まだ一時間目も始まっていない、

寮の空気がいちばん鈍い時間。


寮監の足音が廊下に響く。

規則正しく、ためらいがない。


扉の前で止まり、

低く、感情の薄い声が告げた。


「エンゲルス嬢。

 聖堂へ」


それだけだった。


理由は説明されない。


だが、説明は不要だった。


アイリスは立ち上がる。

指先が、ほんの少しだけ冷たい。


扉を開けると、廊下の空気が違った。


学生たちは、こちらを見ない。

いや、正確には――見たあと、すぐに逸らす。


“知っている。だが、触れない”


その沈黙が、この朝もっとも正確な通達だった。


ロイドは向かいの壁にもたれていたが、

彼だけは視線を逸らさなかった。


眉間に薄く皺を寄せ、

言葉を選びきれない顔をしている。


「……一人か」


「たぶん」


短く答える。


本当は、たぶんではない。

ほぼ確実に、一人で行く場所だと分かっていた。


だが、その現実を言葉にすると、

少しだけ重くなりすぎる気がした。


ロイドは何か言いかけ、やめた。


代わりに、ただ一度だけ頷く。


それだけで十分だった。


王都大聖堂の奥には、信徒の入れない小部屋がある。


そこは祈りの場所ではない。


判断の場所だ。


白い壁。

白い机。

白い椅子。


窓は高く、空しか見えない。

外の街も、人の顔も、色も、何も入ってこない。


色が、ない。


それは清潔のためではない。

判断を濁らせないための部屋だ。


つまり――

人間味を削るための部屋。


アイリスは、その部屋に一歩踏み込んだ瞬間、

喉の奥が少しだけ乾くのを感じた。


中央に、大司教イグナスが座っていた。


年齢は五十を越えているだろう。

白い法衣は一分の乱れもなく、

細く長い指が机の上で静かに組まれている。


顔立ちは端正だ。

柔らかな微笑を浮かべていれば、慈悲深い老賢者にも見える。


だが、その目は違う。


人を慰める目ではなく、

人の揺らぎを見逃さない目。


左右には二人の聖職者がいた。


一人は中年の司祭。

痩せ型で、鼻筋が鋭く、紙をめくる動作が神経質に正確だ。

彼は記録と規則を信じる類の人間に見えた。


もう一人は若い補佐司祭。

年は二十代後半ほど。

整った顔をしているが、その口元には未熟な苛立ちが時折浮く。

信仰を疑われることそれ自体に、感情的な反発を抱くタイプだろう。


「楽にしなさい」


イグナスが言う。


声は穏やかだった。


だが、椅子は硬い。


背もたれの角度も、机との距離も、

人を楽にさせないように作られている。


“楽にしなさい”という言葉そのものが、試験の一部なのだと分かった。


アイリスは静かに座る。


背筋は伸ばす。

手は膝の上。

視線は落としすぎず、上げすぎず。


観察される姿勢を、こちらも観察する。


「君の魔法について聞きたい」


イグナスが口を開く。


「図書館魔法、と呼ばれているね」


アイリスは答える。


「周囲がそう呼びます」


「では、君自身は?」


問いは柔らかい。

だが、逃げ道が少ない。


アイリスは一拍だけ呼吸を整えた。


「認識の整理です」


右側の司祭が、羽根ペンを走らせる。

紙の上を擦る音が、やけに大きく聞こえた。


イグナスは微笑んだまま、さらに問う。


「整理とは?」


「観察し、分類し、再現可能にする行為です」


言葉にした瞬間、

部屋の空気がほんの少しだけ変わる。


若い補佐司祭が、すぐに口を挟んだ。


「それは知識の支配か?」


声にわずかな熱がある。

彼はおそらく、この問いを前もって用意していたのだろう。


アイリスは即答した。


「いいえ」


迷いはなかった。


「知識は支配できません。

 人が誤解するだけです」


その一言で、若い司祭の眉がぴくりと動く。


イグナスの目が細くなる。


ここで初めて、彼はアイリスを“単なる学生”ではなく、

自分の言葉で論理を立てる相手として見た。


「では問おう」


イグナスが、わずかに身を乗り出す。


法衣が擦れる。

その小さな音さえ、この部屋では意味を持つ。


「真理は一つか?」


部屋の温度が下がる。


これは魔法の質問ではない。

思想の質問だ。


信仰をどう扱うか。

秩序を何で支えるか。

その中心を問うている。


アイリスは、すぐには答えなかった。


心拍が一拍、強くなる。


恐怖。

圧力。

責任。


その三つが、胸の中で絡まりかける。


だが彼女は、いつものように整理する。


恐怖は外部刺激。

圧力は環境。

責任は応答条件。


分類し、棚に戻す。


そうしてから、口を開いた。


「観測可能な事実は共有できます」


イグナスは頷きも否定もしない。


「だが解釈は?」


「複数存在します」


右の司祭のペンが止まる。


若い補佐司祭の口元が険しくなる。


画像


「危険だな」


イグナスは静かに言った。


声量は変わらない。

けれど、その静けさに重みがあった。


「唯一の真理がなければ、秩序は崩れる」


アイリスは否定しない。


否定した瞬間、ただの反抗になると分かっていた。


「秩序は理解で保たれます」


「信仰ではなく?」


「信仰も理解の一形態です」


空気が凍った。


若い補佐司祭が、とうとう感情を隠しきれなくなる。


「つまり、人は自分で考えてよいと?」


その声には苛立ちがあった。

そして少しの恐れも。


彼は、思想の自由そのものより、

“自由に考える他者”を怖れているのだとアイリスは思った。


「はい」


答える。


短く。

だが、引かずに。


「教会に従わずとも?」


ここで、アイリスは少しだけ考えた。


この司祭は、自分を追い込みたいのではない。

自分の信じる秩序が崩れないと確認したいのだ。


だから、答えは単純な反抗でも迎合でもいけない。


「従う理由を理解していれば」


イグナスの微笑が、そこで消えた。


ほんのわずか。

だが確かに。


「では最後の質問だ」


声が低くなる。


部屋全体が、その一言に耳を傾ける。


「人民に必要なのは、導きか、自由か」


境界線だった。


ここをどう答えるかで、

この場の結論の色が変わる。


アイリスは沈黙する。


長くはない。

だが、短くもない沈黙。


彼女はまた整理する。


導き。

自由。

人民。

必要。


どれも大きすぎる言葉だ。

だが、だからこそ分解しなければならない。


そして彼女は言った。


「選択です」


イグナスの眉が、わずかに動く。


「選択?」


「導かれることも、選ぶ自由も、両方が必要です」


若い司祭が、呆れたように息を吐く。

右の司祭は、無表情のまま記録を続ける。


イグナスはしばらくアイリスを見つめ、

それから静かに目を閉じた。


そして、ゆっくり告げた。


「人民には無知で貧乏になる自由がある」


有名な言葉だった。


だが、口にされた瞬間、

それが格言ではなく統治の定義なのだと分かる。


慈悲ではない。

選別でもない。


支配の前提。


アイリスの背中に、冷たいものが走る。


この人は、人間を見下しているわけではない。

それよりもっと厄介だ。


人間を“導くべき群れ”として、本気で愛している。


だからこそ危険だ。


審問は終わった。


処罰はない。


だが、評価は下る。


要観察。


その言葉は、追放よりも静かで、

ときにもっと長く効く。


外へ出ると、ロイドが立っていた。


石柱の影に背を預け、

腕を組んで待っている。


眠っていない目だった。

彼はたぶん、ずっとここにいたのだろう。


「遅かったな」


声は平静を装っている。

だが、ほんの少しだけ硬い。


「質問が多かったの」


そう答えると、ロイドは顔をしかめた。


「何を聞かれた」


アイリスは少し考えてから言う。


「世界の扱い方」


ロイドは一瞬、意味を測るように沈黙した。

それから小さく舌打ちして、壁から身体を離した。


「嫌な連中だな」


「うん」


その短い同意だけで、

アイリスは少しだけ息がしやすくなった。


その夜。


亜空間の《一冊》が震えた。


白いページがゆっくりと開く。


新しい項目が、静かに刻まれる。


《審問》


経験値:対話(高圧環境)

理解:権威構造


図書館魔法は、ほんのわずかに深くなる。


量ではない。

層が一つ増えたような感覚だった。


まだ一冊。


だが内容が変わり始めている。


単なる記録ではない。

権力の問い方そのものを、蓄え始めている。


大聖堂では、その夜のうちに報告がまとめられた。


右の司祭が文面を整え、

若い補佐司祭が苛立ちを隠さずに口を挟み、

イグナスが最後に短く結論を与える。


「思想は危険域未満。だが拡散性あり」


その評価は曖昧で、だからこそ使いやすい。


イグナスは報告書を閉じ、静かに言った。


「学園内で閉じ込めよ」


排除ではない。


隔離。


それが最も今の王国らしい判断だった。


火をつけるほどではない。

だが放置もできない。


だから、囲う。


王国はまだ知らない。


戦争は始まっていない。


だが、思想の線は引かれた。


見えない戦線が、静かに敷かれていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ