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赤い閲覧票-『侯爵家次女は書誌魔法で知の帝国を運用する』  作者: アイリス独孤求敗(ビンちゃん特殊司書)


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第34話 裏帳簿の匂い

従前の作に追加キャラを入れました。

エドワード

没落伯爵家時代の旧知

数字に人生を削られた「記録の人」

臆病ではあるが、現実を知る者として重要な橋渡し役

ロックの側近

感情のない監査実務者

ロック本人ほど大局観はないが、現場で人を追い詰める能力が高い

今後、継続的な圧力役として使えるキャラ

王都の夜は、霧が出る。


工場の煙。

河から上がる湿気。

夜更けまで働く人々の白い吐息。


それらがゆっくりと混ざり合い、

街そのものを、薄く濁らせていく。


昼の王都は嘘が上手い。

塔は美しく、石畳は整い、

秩序はまだ保たれているように見える。


だが夜は違う。


夜の霧は、隠しているものを逆に際立たせる。


ロイドは学園の制服の上から外套を深くかぶり、

裏門の影を滑るように抜けた。


肩幅の広い体は、本来なら目立つ。

だが今夜の彼は、意識的に歩幅を狭め、

頭を少し下げ、

“見られない人間”の動きに変えている。


「危ない橋だ」


そう言われた。


事実だろう。

橋は古く、きしみ、落ちる者も多い。


だが彼は止まらなかった。


昼間。


図書館の奥で、アイリスは静かに言った。


「資本は痕跡を残す」


声は低かった。

だが、確信があった。


ロイドは椅子の背にもたれ、腕を組みながら問い返す。


「どこに?」


アイリスは、一拍置いて答えた。


「帳簿」


それだけだった。


けれど、その一語は不思議な重みを持っていた。


火や剣と違って、数字は叫ばない。

だが嘘もつきにくい。


アイリスの目は、暗い図書館の灯りの下でも、はっきりと冴えていた。


亜空間の《一冊》が、その時ほんのわずかに震えた。


経験値が増える。


対話。

読書。

思考。

仮説。


知識は、そのまま知識で終わらない。


彼女の中では、それが少しずつ魔力へと変わっている。


まだ一冊。


だが、一冊は核だ。


世界を整理する最初の棚板のように。


ロイドの目的地は、王立銀行の裏手にある小さな会計事務所だった。


昼は合法の融資管理事務所。

書類と印章と、礼儀正しい笑顔の場所。


だが夜は違う。


帳簿の匂いが濃くなり、

表に出ない金の流れが、紙の上で顔を出す。


ロイドは狭い路地を抜け、

黒ずんだ木扉の前で足を止めた。


ノックは二回。

間を置いて、一回。


昔からの合図だ。


「エドワード」


低く呼ぶ。


扉が、ほんのわずかに開く。


中から覗いた顔は、思っていたより痩せていた。


「……来ると思ったよ」


エドワードは、線の細い男だった。

肩は落ち、頬はこけている。

だが目だけは鋭い。


指先はインクで汚れていた。

黒い染みが爪の際に残っている。


数字を扱う人間の手だ。

剣ではなく、記録に人生を削られた手。


彼はかつて、ヴァルド伯爵家の会計補佐だった。


家がまだ潰れる前、

帳簿と税と借入の現実を、誰より近くで見ていた人間。


「君の家が潰れたとき、帳簿は全部見た」


その言葉に、ロイドの胸が一瞬だけ揺れた。


皮膚の内側に古傷を押されたような感覚。


「父の無知の記録か」


自嘲気味に言う。


エドワードは首を横に振った。


「違う」


声は細いが、芯がある。


「資本家の貸付利率だ」


事務所の奥。


燭台の下に置かれた机には、分厚い帳簿が何冊も積まれていた。

革表紙は擦れ、角は丸くなっている。

使われ続けた記録の重み。


エドワードが一冊を開く。


ページが鳴る。

乾いた紙の音。


そこには数字が並んでいた。


融資名目。

担保。

返済期日。

延滞利息。


だが、ただの数字ではない。


端に、小さな記号がある。


十字のような印。

王冠のような印。

三角のような印。


ロイドは目を細める。


「これは何だ」


エドワードは、すぐには答えなかった。


喉仏が一度、上下する。


「基金」


「思想支援基金?」


沈黙。


それが答えだった。


ロイドの背筋に、冷たいものが走る。


帳簿をさらにめくる。


学園名。

教会名。

工場主の名。

王宮関係者の名。


線が見えてくる。


王権と教権に資金を流し、

代わりに政策と監査権を動かす。


資本は中立ではない。


いや、最初から中立である必要などないのだ。


ロイドの手がわずかに震えた。


怒りではない。


構造を見た震えだった。


いままで霧の中にあったものが、

数字の列によって輪郭を持った時の震え。


「囲っている」


エドワードは、苦い顔で頷いた。


「奨学金という名目でな」


「監査権がついているのか」


「そうだ」


その答えは短く、残酷だった。


学びを支える金が、

思想を囲う鎖になっている。


その瞬間。


外で馬車の音が止まった。


小さく。

だが、二人には十分すぎるほど鮮明に聞こえた。


ロイドの背に、冷気が走る。


「誰か来る」


エドワードが反射的に帳簿を閉じる。


燭台の火が揺れた。


足音。


二人。


硬い靴音。

規則正しい歩幅。


役人か、監査の人間だ。


ロイドは即座に判断する。


逃げるか。

隠すか。


時間は一瞬。


彼は迷わなかった。


帳簿の一部を破る。


乾いた音。

そして、切り取った紙片を内ポケットへ滑り込ませる。


その動作の速さに、エドワードが息を呑む。


扉が開く。


黒い外套。


そこに立っていたのは、ロックの側近だった。


年齢は三十代半ばほど。

髪はきっちり撫でつけられ、

口元には愛想がない。

冷たい目だった。


冷たいが、鈍くはない。

人の嘘を見抜くための目。


「夜分失礼」


声は丁寧だ。

だが礼儀のための礼儀でしかない。


「監査だ」


ロイドは机の影に立つ。


視線を逸らさない。


逃げる素振りも見せない。


「私はただの学生です」


側近は笑わなかった。


「なら、なぜここに」


「数字が好きなので」


挑発ではない。


本音だった。


火や剣より、数字のほうがよほど残酷だと、今夜彼は学び始めていた。


側近はエドワードへ視線を移す。


「基金の記録を出せ」


空気が張りつめる。


エドワードは震えていた。

細い肩がわずかに上下している。

だが、それでも手を伸ばし、帳簿を差し出した。


従順だからではない。

生き延びるためだ。


側近はページをめくる。


その指先にはためらいがない。


一枚。

二枚。

三枚。


「異常なし」


短い言葉。


けれど、視線は鋭いままだ。


「学生、名は?」


ロイドは答える。


「ロイド・ヴァルド」


その瞬間だけ。


側近の目が揺れた。


本当に、ほんの一瞬だけ。


没落伯爵家。


その名を知っている顔だった。


「……気をつけろ」


それだけ言って、去る。


扉が閉まる。


ようやく、ロイドは深く息を吐いた。


胸の内ポケットにある紙片が、焼けるように熱い。


火ではない。

だが確かに、そこに熱があった。


エドワードが囁く。


「もう来るな」


疲れた声だった。

覚悟のある人間の声ではなく、

限界を知っている人間の声。


ロイドは即答する。


「いや、来る」


目が、まっすぐだった。


「これは始まりだ」


その言葉に、エドワードは一瞬だけ黙り、

その後、かすかに苦笑した。


若さだ。

だが、必要な若さでもあると、どこかで理解している顔だった。


学園へ戻るころ、空が白み始めていた。


霧の端が薄くなり、

煙突の輪郭が朝の光に浮かぶ。


図書館には、まだ明かりがついていた。


アイリスが待っている。


彼女は机の上に本を開いたまま、

だがページには目を落としていなかった。


彼の足音を聞いた瞬間、顔を上げる。


「匂いがついた」


開口一番、それだった。


ロイドは少しだけ笑う。


「犬みたいな言い方だな」


「危険の匂い」


彼女は訂正する。


ロイドは内ポケットから紙片を取り出した。


皺の寄った紙。

数字。

記号。

欄外の略号。


アイリスは受け取る。


その指先は、震えていない。


だが、目は速い。


数秒で構造を読む。


彼女の視線は、ただ文字を追っているのではない。

その背後にある線をつないでいる。


「王権、教権、資本」


声が低くなる。


「三者連結」


さらに、紙面を指でなぞる。


「思想支援基金は、囲い込み」


ロイドは頷く。


「証拠だ」


アイリスは静かに目を閉じた。


亜空間の《一冊》が開く。


白いページに、新しい項目が刻まれていく。


《裏帳簿》


その瞬間、彼女の魔力が微かに上がる。


数字にすれば、たぶんごく僅かだ。

だが本人には分かる。


知識が、現実の証拠と結びついた時、

《一冊》は確かに厚みを増す。


経験値。


対話。

読解。

証拠発見。


指数的に。


まだ小さい。

だが増え方が変わり始めている。


「ロイド」


「何だ」


「これを使うには、順序がいる」


ロイドは拳を握る。


「暴くんじゃないのか」


それが彼の本能だ。

見つけたなら叩きつけたい。

不正なら暴きたい。


だがアイリスは首を横に振る。


「暴くだけでは、潰される」


その声は冷静だ。


けれど、目は揺れている。


恐怖がある。

自分たちが、もう見えない網の中に入っていると理解しているからだ。


「積む」


彼女は言う。


「証拠を積む。分類する。時機を待つ」


ロイドは苦笑した。


「君は戦士じゃないな」


アイリスは、ほんの少しだけ口元を和らげる。


「学生」


そして、静かに付け足す。


「まだ」


窓の外。


王都の煙突が赤く染まる。


朝日だ。


だが、空気は重い。


ロックは馬車の中で報告を聞いていた。


「学生が一名」


「名は」


「ロイド・ヴァルド」


ロックは微かに目を細める。


「没落家か」


その言い方には侮蔑がない。


分類だけがある。


「放っておけ。若者の好奇心は続かない」


そう言う。


だが、内心ではすでに計算が始まっている。


囲い込みは甘くない。

網は、一度張れば少しずつ狭まる。


ロイドが一歩踏み出したなら、

次はどこで絡め取るか。


それを考えている。


図書館。


アイリスは胸に手を当てる。


《一冊》が、ほんの少し厚くなった感覚がある。


まだ図書室ではない。

まだ書架もない。

まだ検索も、目録も、分類棚もない。


だが知は増える。


知は力だ。


そして力は、必ず反動を生む。


彼女は静かに呟く。


「動き始めた」


ロイドが聞く。


「何が」


アイリスは、朝焼けの王都を見つめたまま答える。


「時代」



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