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第2話 妾腹の娘は、揺り籠で文字を探す

最初に戻ってきたのは、音だった。


低く、一定のリズム。

どくん、どくん、と遠くで鳴る鼓動のような音。


次に感じたのは、温かさ。


柔らかい布に包まれ、誰かの腕に抱かれている感覚。

揺れている。


津々井伸――だったはずの意識は、その揺れの中でゆっくりと集まり始めた。


(……息が、できる)


肺に空気が入る。

それだけで、涙が出そうになった。


だが涙は、勝手に出た。


声も勝手に出た。


「え……?」


自分の声が、やけに高い。


喉が細い。

息が浅い。

手足が思うように動かない。


――赤ん坊だ。


理解だけが先に来た。


伸は目を開けようとした。


だが、まぶたが重い。

光が滲んで、輪郭が溶けている。


視界の端に、金色の髪が見えた。


「ほら……泣かないで、アイリス」


女の声。


柔らかいが、どこか遠慮がち。


「この子は……大丈夫でしょうか」


別の声が答える。


男の声だ。落ち着いていて、低い。


「問題ない。よく泣いている。肺も強い」


――アイリス?


その名前が、胸の奥に落ちる。


自分の、新しい名前。


伸はゆっくりと受け入れた。


(私は……アイリス)


視界が少しずつはっきりしてくる。


天井。

淡い色の布。

彫刻のある柱。


明らかに、日本の病院ではない。


しかも、かなり大きな部屋だ。


(異世界、だ……)


理解した瞬間、不思議と動揺はなかった。


地下書庫の冷たさに比べれば、ここはあまりに暖かい。


伸――いや、アイリスは、抱かれながら周囲を見回した。


看護婦の制服のような服装の女性たち。

重厚な扉。

壁に掛けられた紋章。


貴族の館。


そう直感した。


しばらくして、抱いている女の顔が視界に入った。


黒髪で、少し疲れた目をした女性。

慎ましい服装。

豪華な部屋には似合わないほど質素だ。


この人が、母。


アリス。


妾。


その事実は、なぜか自然に理解できた。


声の調子、立ち位置、周囲の視線。


すべてが「正妻ではない」ことを示していた。


ほどなくして、別の女性が部屋に入ってきた。


派手なドレス。宝石。強い香水。


視線が鋭い。


正妻マリーだった。


彼女は赤子のアイリスを一瞥すると、興味なさそうに言った。


「……その子?」


アリスは小さく頭を下げる。


「はい。レイモン様の……」


「分かってるわ」


マリーは扇で口元を隠した。


「まあ、責任よね。侯爵としての」


“責任”。


それは「家族」という言葉ではなかった。


アイリスは、その瞬間をはっきり覚えた。


この人は、自分を娘だと思っていない。


物件。

不始末。

帳簿の端に書かれる数字。


そんな扱いだ。


マリーは踵を返した。


後ろから、少年と少女がついてくる。


兄チャーリー。

姉ララ。


二人とも、赤子を見て露骨に顔をしかめた。


「妾腹」


ララが小さく呟く。


チャーリーは鼻で笑った。


アイリスは泣き止んだ。


泣くより先に、観察が始まっていた。


声のトーン。

視線の位置。

身体の距離。


(……ここは、安全じゃない)


その判断は、前世の経験から自然に出てきた。


夜。


静かな部屋で、アリスがそっと揺り籠を揺らしていた。


「アイリス……ごめんなさい」


母は、赤子に謝っていた。


何に対してなのか、説明はなかった。


でもアイリスには分かった。


この人も、弱い立場なのだ。


使用人の一人が部屋に入ってきて、小声で言った。


「旦那様がお呼びです」


父――レイモン・エンゲルス。


侯爵家当主。


後に文部卿になる男。


アリスはアイリスを抱き、書斎へ向かった。


重い扉の向こうには、背の高い本棚が並んでいた。


紙と革の匂い。


アイリスの意識が、はっきりと覚醒する。


(……図書室)


レイモンは机の前に立っていた。


眼鏡をかけ、疲れた顔をしている。


だが、赤子を見た瞬間、表情が変わった。


柔らかくなる。


「来たか」


アリスからアイリスを受け取り、腕に抱く。


抱き方は不器用だったが、乱暴ではなかった。


「この子の名は?」


「アイリスです」


レイモンは小さくうなずいた。


「いい名だ」


そして、赤子の額に軽く口づけた。


その瞬間、アイリスは確信した。




画像

この人だけは、敵ではない。


レイモンは本棚を見回しながら言った。


「この家は、あまり優しくない」


アリスは黙っていた。


「だが、学びだけは奪わせない。

この子には、すべてを教える」


アイリスの視界に、ずらりと並ぶ背表紙が映る。


文字が、読める。


まだ視力はぼやけているが、形として認識できる。


アルファベット。

ラテン語。

古い地図の記号。


赤子の脳で読むには無茶なはずなのに、意味が流れ込んでくる。


(……読める)


妖精の言葉が蘇る。


“読むことは、武器になる”


アイリスは、無意識に小さな手を伸ばした。


本棚の方向へ。


それを見たレイモンが、目を細めた。


「……本が好きか」


父は、笑った。


それは、この世界で最初に向けられた、善意だった。


こうして、


妾腹の次女アイリス・エンゲルスは、


敵の多い屋敷と、

わずかな味方と、

大量の書物の中で、


静かに人生を始めた。


まだ言葉は話せない。

まだ歩けない。


けれど彼女は知っていた。


ここは戦場だ。


そして、


自分の武器は――


本だ。

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