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第20話 手紙の向こう側

歳月は、急がず、だが確実に積み重なった。


アイリスが十歳から十二歳になるまでの二年間は、

大きな事件に満ちていたわけではない。


むしろ、その逆だった。


何も起きない日々。

変わらない規律。

変わらない監視。


だが、その静けさの中で、

世界は少しずつ崩れていった。


ミザリー女史の教育は、より洗練されていった。


声を荒げることはない。

罰も派手ではない。


ただ、

「考えなくてよいこと」

「触れてはならない話題」

「覚えなくてよい名前」


それらを、淡々と削っていく。


「貴族は、複雑さを抱えません」


彼女は言う。


「判断は、上から降りてくるものです」


アイリスは頷く。


従順に見えるように、

呼吸と表情を整える。


だが、夜になると、

内なる書架が開かれる。


《一冊の書》は、増えてはいなかった。


だが、深まっていた。


『貧困』という一冊は、

日ごとに書き足されていく。


街で見た顔。

ロイドから聞いた話。

工場の影。

物価の変動。


それらは、新しい本にならない。


すべて、同じ一冊に注釈として積み重なる。


(……まだ、分けない)


今は、統合の段階。


分類は、後でいい。


父レイモンからの手紙は、不定期に届いた。


封は、丁寧。

文字は、少し乱れている。


忙しさが、そのまま表れていた。


「教育行政は、想像以上に複雑だ」

「属国ごとに制度が違う」

「だが、放置すれば荒れる」


文部卿としての報告が続く。


だが、最後には必ず、短い一文が添えられていた。


「体調はどうだ」

「学びは、続いているか」


直接会うことは、ほとんどなかった。


だが、手紙の向こうに、

父の疲労と、迷いと、

それでも手放さない責任が透けて見えた。


アイリスは、返事を書く。


簡潔に。

感情を込めすぎず。


「問題ありません」

「学びは、続いています」


嘘ではない。


ただ、すべては書かない。


父もまた、

すべてを書いていないことが分かるからだ。


兄と姉の便りは、届かなくなった。


画像

領地の噂だけが、断片的に入ってくる。


重税。

統制。

逃げる小作人。


正妻マリーは、

相変わらず王都で社交に出入りし、

支出を重ねているという。


領地と王都が、

別々の時間を生きている。


それが、

この家の歪みだった。


アイリスは整理する。


原因。

構造。

誰が、何を見ていないか。


だが、介入はしない。


今は、時期ではない。


ロイドとの接触は、減っていた。


彼は街に出る頻度を増やし、

労働者の集会や、学習会に顔を出しているという。


たまに、短い言葉だけが届く。


「考えは、広がっている」

「だが、恐れも強い」


アイリスは、それを《一冊の書》に注釈として書き加える。


恐れは、知の敵ではない。

無知と結びついた時に、

刃になる。


十一歳の冬。


王城から、正式な通知が届いた。


簡潔な文面。


「十二歳に達した時点で、

貴族学校への入学を許可する」


条件は、既に知っている。


王室への奉仕。

教会と魔法団への服従。

思想的逸脱の禁止。


ミザリー女史は、その紙を見て満足そうに言った。


「ようやく、次の段階です」


次の段階。


それは、自由ではない。


管理の形が変わるだけだ。


だが、アイリスは理解していた。


ここは、出口でもある。


十二歳を迎える前夜。


久しぶりに、父から手紙が届いた。


短かった。


「貴族学校で待つ」

「必ず、迎えに行く」


それだけ。


だが、その一文に、

父の決意がすべて詰まっていた。


アイリスは、ゆっくりと息を吐く。


(……待った)


長かった。


だが、無駄ではない。


夜、目を閉じる。


内なる空間に、

一冊の本が静かに浮かんでいる。


『貧困』


まだ、一冊。


だが、この二年間で、

その一冊は、厚みを持った。


次に必要なのは、

並べること。


書架を、作ること。


アイリスは、静かに理解する。


貴族学校は、学びの場ではない。


資料収集の場だ。


人。

思想。

制度。


すべてを、観察し、整理する。


十二歳。


それは、

少女が社会に組み込まれる年齢。


そして、

司書が、世界に踏み出す年齢だった。

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