第18話 ミザリー女史
ミザリー女史が王都侯爵邸に現れた朝、空は重たく曇っていた。
光はある。
だが、温度がない。
その日の空気は、彼女の声とよく似ていた。
ミザリー女史は、下級貴族の出だった。
若くして嫁ぎ、
若くして未亡人となり、
家名も財も残らなかった。
残ったのは、
「正しさ」だけだった。
彼女はそれを、鎧のように身にまとっていた。
「姿勢が悪い」
最初の言葉が、それだった。
アイリスが部屋に入った瞬間、
挨拶の前に、そう告げられた。
「感情を先に出す者は、管理される側になります」
声は低く、断定的。
反論の余地を与えない。
ミザリー女史は、笑わなかった。
彼女の教育は、
矯正であり、
支配だった。
一日の予定は、分刻みで管理された。
起床。
礼法。
書き取り(内容は無意味な反復)。
舞踏の基本姿勢。
沈黙の時間。
本は、存在しない。
書棚は封じられ、
紙は管理され、
文字は「必要な範囲」に限定された。
「考える癖は、後で身につきます」
「今は、型を覚えなさい」
その言葉は、
前世で何度も聞いた言い回しと同じだった。
画像
夜、アイリスは天井を見つめる。
(……本は、どこに)
問いは声にならない。
問いは、胸の奥で折り畳まれ、
静かに積まれていく。
本がない。
それは、
呼吸が浅くなる感覚に似ていた。
ミザリー女史は、ロイドの存在を快く思っていなかった。
理由は明確だ。
彼は、
身分が低く、思考を持ち、影響を与える。
最も厄介な組み合わせだった。
「付き人に過ぎません」
「距離を保ちなさい」
命令は、穏やかな口調で下される。
だが、逆らえば、
即座に“記録”される。
アイリスは従った。
従うことで、
別の時間を守るために。
一方で、ロイドは街へ出続けていた。
労働者街。
工場。
集会所。
賃金は上がらず、
物価だけが上がる。
産業は発展している。
だが、人は豊かにならない。
彼は、そこで語り合う者たちと、
次第に顔見知りになっていく。
そして、
その中に一人、
奇妙な若者がいた。
年は、ロイドと近い。
痩せた体。
鋭い目。
衣服は質素だが、
言葉は、異様に整理されている。
彼は言った。
「貧困は、偶然じゃない」
「仕組みだ」
ロイドは足を止めた。
その言い方は、
アイリスとよく似ていた。
彼は、書き散らした紙束を抱えていた。
工場の労働時間。
賃金の推移。
食費の割合。
それらを、
怒りではなく、
構造として見ている。
「問題は、道徳じゃない」
「生産と分配の関係だ」
彼は、若き哲学者だった。
名を、マルクスと言った。
ロイドは、彼と語り合うようになる。
夜の路地で。
集会所の隅で。
本がないなら、
言葉で組み立てる。
彼らは、
未来の形を、
まだ粗い言葉でなぞっていた。
画像
そのころ、アイリスは、
一層静かになっていた。
感情を抑え、
反応を減らし、
思考を内側に折り畳む。
ミザリー女史は、満足そうだった。
「よろしい」
「貴族は、内心を見せません」
だが、彼女は気づいていなかった。
思考まで奪えたわけではないことに。
ある夜、
アイリスは、ふとした拍子に古い帳簿室に入る。
誰も使わない部屋。
埃の匂い。
その奥で、
一冊の薄い本を見つけた。
頁は欠け、
装丁は剥がれている。
だが、文字は生きている。
アイリスは、息を止める。
(……ここに、あった)
涙は出なかった。
代わりに、
胸の奥で、何かが確かに灯った。
同じ夜、
ロイドはマルクスと別れ際に言われる。
「君は、考える」
「考える者は、孤立する」
「だが、考えない社会は、崩れる」
ロイドは頷いた。
彼の脳裏に、
本を失った少女の姿が浮かぶ。
二人は、
同じ夜空の下にいた。
別々の場所で。
別々の檻の中で。
だが、
同じ方向を見ていた。
ミザリー女史の支配は、
厳しく、冷たい。
だが、
それは永遠ではない。
抑圧は、
思考を深くする。
奪われた本は、
より強く求められる。




