第16話 労働者街――夜を抜けて
王都侯爵邸の夜は、音が少なかった。
静かなのではない。
消されているのだと、アイリスは理解していた。
廊下に敷かれた厚い絨毯。
扉の蝶番には油が差され、
靴音は吸い込まれるように消える。
管理された静寂。
それが、この屋敷の秩序だった。
「今です」
ロイドが、声を殺して言った。
夜回りの交代時刻。
ほんの数分、動線が空く。
二人は外套を羽織る。
深紅のドレスは脱ぎ捨てられ、
装飾のない濃色の服。
アイリスは鏡に映る自分を一瞬見た。
——誰でもない顔。
それが、今夜は必要だった。
裏階段を下りる。
石段は冷たく、
指先まで緊張が走る。
前世の記憶が重なる。
夜の職場。
誰もいないフロア。
一歩間違えれば、責任を問われる空気。
(……同じだ)
組織の外に出る瞬間は、
いつもこうだ。
勝手口の扉を、ロイドがゆっくり押す。
軋み。
一瞬、二人とも息を止める。
だが音はそれ以上広がらず、
夜気が流れ込んできた。
外だ。
空気が、違う。
湿っている。
重い。
煤と油の匂いが混じる。
王城近くの澄んだ空とは、まるで別物だった。
道は狭く、石畳は割れ、
雨水が溜まり、
足元で濁った水が跳ねる。
遠くで、鉄を打つ音。
蒸気の噴き出す音。
人の咳。
(……生きている)
良くも悪くも。
画像
「ここが、僕の王都です」
ロイドの声は低い。
城から、ほんの数刻。
だが世界は完全に変わっている。
建物は高い。
窓は小さい。
光は届かない。
工場。
昼夜を問わず、歯車が回り続ける場所。
通りには人が多い。
だが、誰も立ち止まらない。
立ち止まる余裕がない。
一人が、同じ作業を繰り返す。
一日中、同じレバー。
同じ角度。
同じ動き。
(……分業)
アダム・スミスが称賛した効率。
だが、ここにあるのは、
切り離された効率だった。
考える必要のない仕事。
考える時間を奪う仕事。
「仕事はあります」
ロイドが言う。
「でも……」
言葉を探す。
「働いている人ほど、貧しい」
事実だった。
賃金は最低限。
労働時間は最大限。
病気になれば、即脱落。
市場は回っている。
国家の富は増えている。
だが、ここには落ちてこない。
(……分配の断絶)
アイリスの中で、索引語が確定する。
路地の奥で、子どもが鉄屑を拾っていた。
年は七つか、八つ。
学校に行く年齢。
だが、ここでは労働力だ。
「なぜ、子どもまで……」
アイリスの問いに、ロイドは即答する。
「一家の賃金だけでは、生きられないからです」
父の賃金。
母の内職。
子どもの日銭。
それで、ようやくパン。
スミスの言葉が、正確に蘇る。
労働の成果で生活できない社会は、健全ではない。
だがこの社会は、
「成長している」と評価されている。
集会所では、読み書きのできる男が新聞を読んでいた。
株価。
関税。
海外市場。
どれも、彼らの生活を左右する話だ。
だが、理解できる者は少ない。
「知識が、ここまで来ていない」
アイリスが言う。
ロイドが頷く。
「来る仕組みが、ありません」
情報は上に集まり、
下には届かない。
前世で何度も見た構造。
路上で、老婆が小さな本を売っていた。
擦り切れた冊子。
『道徳感情論』の抜粋。
アイリスは足を止める。
「……誰が、これを買うのですか」
老婆は笑った。
「買わないよ。
でも、読む人はいる」
「回し読み?」
「そうさ」
市場は失敗している。
だが、人の倫理はまだ生きている。
スミスが信じたのは、
市場だけではない。
共感だった。
帰り道、ロイドが言う。
「父は、帳簿しか見ませんでした」
数字。
利率。
返済計画。
だが、現場を見なかった。
「分業は、人を賢くするはずでした」
ロイドは続ける。
「でも……考える余地を奪った」
スミス自身が警告した点。
だから教育が必要だと。
だが、この国は、
教育を特権にした。
王城の尖塔が、再び見えてくる。
同じ王都。
同じ法。
それでも、世界は分断されている。
アイリスは理解した。
図書館魔法が扱うべきものは、
本ではない。
アクセスだ。
知識への道。
理解への橋。
保存では足りない。
翻訳し、配架し、
届く場所へ置く。
(……これは、仕事だ)
慈善ではない。
感傷でもない。
公共の仕事。
勝手口の前で、二人は立ち止まった。
ロイドが言う。
「……後悔していませんか」
アイリスは首を振る。
「見なければ、整理できません」
扉の向こうで、
再び管理された静寂が待っている。
だが、彼女の中では、
もう何かが戻れなくなっていた。
夜を抜けたからだ。




