第12話 王に呼ばれる前の、長い廊下
王城を初めて見たとき、アイリスは思った。
(……大きい)
それは感嘆ではなく、圧迫だった。
白い外壁は空に向かって立ち上がり、塔は雲を押し分けるように突き出している。
門は三重。
衛兵は無言。
馬車はゆっくりと進み、鉄の扉が重く閉じる音が背後で響いた。
――戻れない音だ。
アイリスは無意識に、深紅のドレスの裾を指でつまんだ。
馬車を降りた瞬間、空気が変わった。
冷たい。
乾いている。
そして、匂いが違う。
屋敷の木と紙の匂いではない。
教会の香とも違う。
石と金属と、人の緊張が混ざった匂い。
(……ここは“運用中の場所”)
図書館で言えば、閲覧室ではない。
管理棟だ。
父レイモンは無言で歩き出す。
アイリスは半歩後ろにつく。
王城の床はよく磨かれていて、靴底の音が異様に響いた。
その一歩一歩が、自分の存在を申告しているようで、落ち着かない。
天井は高く、装飾は控えめで、光は上から落ちてくる。
人間を小さく見せる設計。
権威とは、こうやって作られるのだと、八歳の頭で理解した。
回廊を進む途中、同じ年頃の王女とすれ違った。
淡い色のドレス。
静かな足取り。
侍女と護衛に囲まれている。
ただ、目が合った。
それだけ。
でも、その一瞬で分かった。
(……この子も、同じ場所に立たされている)
魔力でも身分でもない。
“評価される側”の目だった。
アイリスは自然と瞬きを一つする。
王女も、ごくわずかに目を伏せる。
言葉はない。
でも、胸の奥に小さなきらめきが残った。
名前も知らない。
声も聞いていない。
それでも確かに、“同類”だった。
レイモンが低く言う。
「第八王女だ」
アイリスは頷いた。
それ以上の説明はない。
王城では、人は肩書きで整理される。
画像
さらに奥へ。
衛兵が立ち止まり、言った。
「陛下がお待ちです」
大きな扉の前。
ここで、足が止まる。
父の背中が、ほんの少し強張った。
レイモンは侯爵であり、文部卿だ。
だが今は、ただの父親だ。
未知の魔法属性を持つ娘を、国王の前に差し出す父親。
政治ではない。
ほとんど賭けだ。
アイリスは、その緊張をはっきり感じ取った。
(……父も、不安なんだ)
その事実が、胸の奥に静かに落ちる。
その瞬間、前世の記憶が割り込んできた。
白い蛍光灯。
狭い面接室。
机の向こうの無表情な採用担当者。
「志望動機を教えてください」
声が喉で引っかかる。
用意していた言葉が、急に軽く感じる。
本が好きなこと。
社会に役立ちたいこと。
全部本当なのに、全部薄い。
後日届く定型文。
「今回はご縁がありませんでした」
理由は書かれていない。
また一社、消える。
任期付き。
更新未定。
家計簿と睨めっこする夜。
“選ばれない側”の感覚。
胸に溜まる、説明できない疲労。
(……同じだ)
アイリスは思う。
評価される場。
人生を数分で分類される場。
違うのは、今は八歳で、
父が隣にいて、
相手が国王だというだけ。
構造は同じ。
“あなたは、使えるか?”
その問い。
レイモンが静かにしゃがみ、娘と目線を合わせた。
珍しい。
「アイリス」
彼は短く言う。
「何を聞かれても、正直に答えろ」
それだけ。
だがその中には、
取り繕うな。
媚びるな。
お前は、お前のままでいい。
という父なりの最大限の庇護が込められていた。
アイリスは小さく頷く。
「はい」
声は思ったより落ち着いていた。
胸の中で、図書館の棚が開く。
恐怖。
記憶。
責任。
一つずつ整理されていく。
ヘルメスの言葉が静かに浮かぶ。
上なるものは下なるもののごとし。
王の前でも、面接官の前でも同じだ。
人は人。
権力は構造。
自分は、運用される側か、設計する側か。
それだけの違い。
扉が開く。
暖かな光が奥から流れ出す。
「お入りください」
衛兵の声。
母の顔が浮かぶ。
領地の畑。
図書室の匂い。
洗濯場の湿った空気。
すべてを胸にしまう。
前世では、何度も落ちた。
でも今回は違う。
ここまで来た。
小さな司書は背筋を伸ばした。
初めての王城。
初めての謁見。
選別は終わった。
次は、説明の時間だ。
父と並んで、アイリスは玉座の間へ歩き出した。




