雨だまりの証言
蛍光灯の白い光が、床に伸びたモップの影を細長く引き伸ばしていた。
九階建ての雑居ビルの六階。小さな広告代理店の入るフロアで、佐伯昌代は、手慣れた動作で廊下の端から端までをゆっくりと往復していた。
壁の時計は、夜の十時を少し回っている。日中は営業マンの掛け声や電話のベルが飛び交うこのフロアも、今はプリンターの冷めたにおいと、窓ガラス越しの街の明かりだけが残っていた。
昌代は、モップをバケツに戻し、腰を伸ばした。ぎしり、と背骨が鳴る。
このビルでの清掃の仕事を始めて、三年になる。昼間はスーパーのレジ、夜はここで清掃。週に五日。五十八歳の体にはきついと、娘には何度も言われたが、誰も代わってくれるわけではない。
ポケットの中のガラケーが、震えた。
この時間に電話をかけてくる人間は限られている。娘か、同じ清掃会社のシフト担当か、それとも——。
「……はい、佐伯です」
耳に当てると、電話の向こうから、かすれた女の声がした。
「昌代? あたし。美千代」
美千代は、かつて同じ市営団地に住んでいた幼なじみだ。今は別の市に嫁ぎ、滅多に連絡を寄こさない。
「こんな時間に珍しいわね」
「……村井さん、覚えてる?」
村井——。
昌代の脳裏に、あの不器用な笑い方をする男の顔が浮かんだ。団地の自治会で顔を合わせ、何度かゴミ捨て場の当番で一緒になった。数年前から、再開発ビルの警備の仕事をしていると聞いていた。
「ええ。どうかしたの」
美千代の返事は、間をはさんでから落ちてきた。
「死んだのよ。昨日の夜。工事現場から落ちたんだって。ニュースにも、ちょっとだけ出た」
昌代は、手にしていたモップの柄を、思わず強く握りしめた。
「……事故?」
「そうらしいわ。酔っぱらって足を滑らせたって。そう、ニュースでは言ってた。あの人、昔から酒好きだったでしょ」
酒。
その言葉に、昌代の胸の奥が、わずかにざらついた。
「でもね」
美千代の声は、電話の向こうで小さく震えていた。
「半年前に会ったとき、『もう医者に止められたから酒はやめた』って、はっきり言ってたのよ。肝臓が悪いって。なのに、酔って落ちたって——それが、なんだか……」
蛍光灯の下で、廊下の床の艶が、急に冷たく見えた。
「葬式、明後日らしいの。もし時間があったら……」
「行くわ」
昌代は、ほとんど反射的にそう答えていた。
電話を切ると、ビルの窓の外に広がる街の灯りが、さっきより遠くなったように見えた。
再開発の工事現場——。
それは、このビルから歩いて十五分ほどのところにある、旧市営住宅群の跡地のはずだった。
* * *
告別式の日は、朝から小雨が降っていた。
斎場の入口には、再開発の工事会社の名前が印字された大きな生花がいくつも並び、黒いスーツの男たちが、誰が誰とも分からないまま、同じような表情で出入りしていた。
昌代は、古びた黒のスーツに袖を通し、香典袋を握りしめて焼香の列に並んだ。
遺影の中の村井は、見覚えのあるチェック柄のシャツを着て、照れくさそうに笑っている。その笑顔が、棺の中の冷たい顔と結びつかず、昌代は目を細めた。
式が終わると、美千代が人だかりの中から出てきて、昌代の腕を取った。
「来てくれてありがとう」
「……奥さんは?」
村井には、年の離れた妻がいたはずだ。
美千代は、小さく首を振った。
「ずっと泣いてた。今は裏で休んでるみたい」
二人は斎場の軒先に出て、細い雨を眺めた。駐車場では、黒塗りの車が次々と出入りしている。フロントガラス越しに、見覚えのある顔がちらほらと見えた。
「あの人たち……」
昌代が視線を向けると、美千代が、声を潜めた。
「市の職員とか、議員さんとかよ。再開発の担当の人たち。きっと形だけなんだろうけど」
形だけ——。
その言葉に含まれる冷ややかさが、昌代にはよく分かった。
「ねえ、昌代」
美千代は、バッグの中から、折り畳まれた紙切れを取り出した。
「このメモ、村井さんのロッカーに入ってたって、奥さんから見せてもらったの」
紙には、乱暴だが、几帳面さも感じさせる字で、いくつかの言葉と数字が並んでいる。
「南ヶ丘団地 排水工事 ○○建設
市道拡幅工事 入札 △△土木
バス停前 雨だまり 写真」
昌代は、「雨だまり」という言葉のところで指を止めた。
「……これ、なに?」
「さあね。奥さんも分からないみたい。だけど、亡くなる前の日、いつもと違う様子だったって。ずっとこの紙を見てて、『明日、ちゃんと話をつけてくる』って言ってたらしいの」
紙の端には、ボールペンで強くなぞった線があった。
やり直しのきかない年齢になってからも、なお何かに抗おうとする者だけが持つ、ぎくしゃくした決意の跡に見えた。
雨が、斎場の屋根を静かに叩いていた。
* * *
再開発の現場は、かつて市営団地だった場所だ。
昌代が娘を連れて越してきた頃、南ヶ丘団地は、まだ新しかった。若い家族連れと、団地の抽選に当たったことを誇りにする老人たちで賑わい、夕方になればベランダから洗濯物の影が揺れた。
それから三十年。
老朽化した団地は「耐震性に問題あり」と診断され、市は再開発を決めた。住民は郊外の新しい集合住宅に移され、取り壊された跡地には、「南ヶ丘シティタワー」と銘打たれた高層マンションと商業施設が建つ予定だという。
工事現場の周囲には、高い白い仮囲いがぐるりと巡らされている。その一角に、バス停がある。
葬式の翌週、昌代は、そのバス停に立っていた。
手には、折り畳まれた村井のメモのコピー。美千代から預かってきた。
前日の雨が、まだ路面に残っている。アスファルトの上には、いくつもの水たまりができていたが、その中でひとつだけ、妙に目に付くものがあった。
バス停の、縁石ぎりぎりの場所にできた小さな水たまり。
その形は、楕円形で、いつか見たことのある染みのように、ひしゃげていた。
昌代は、近づいてしゃがみ込んだ。
水面には、白い仮囲いの上端が映っている。足元の土は、他の場所よりもわずかに沈んでいるようだった。
バスを待つ間、何人かの人間が、その水たまりを避けるようにして立っている。誰も口には出さないが、ここに立つと足元が濡れる、と体で覚えているのだ。
「雨だまり」
昌代は、村井のメモの文字を指でなぞった。
再開発の工事現場で、排水工事に関するトラブルは少なくない。
市が予算を絞れば、業者は安い材料と手抜きの施工で応じる。多少の不具合は「許容範囲」として片付けられ、目立つ苦情でも出ない限り、図面通りに工事が完了したということにされる。
昌代は、これまでにも何度か、そんな「安っぽいごまかし」を見てきた。
スーパーのバックヤードで、賞味期限を書き換えるパート仲間。
清掃会社で、実際に入った時間よりも長く記入するタイムカード。
市役所の窓口で、「ここに印鑑がないと処理できません」と突き放す職員の目。
どれも、誰かが少し我慢すれば済む程度の不正だった。
それでも、その積み重ねの上に、自分たちの暮らしが乗っているのだと思うと、足元が薄い氷の上にあるような不安を覚えることがあった。
村井の「雨だまり」は、その氷の下からにじみ出た水のように見えた。
* * *
数日後、昌代は、勤務先のビルの清掃を終えた帰りに、一本手前のバス停で降りた。
夜九時過ぎ。
現場のバス停には、昼間とは違う静けさがあった。街灯の黄色い光が、仮囲いの白い板に落ち、バス停のベンチには誰も座っていない。
ただ、あの水たまりだけが、街灯の光を受けて黒く光っていた。
昌代は、その前に立った。
足元のアスファルトに、薄い油膜のようなものが浮いている。雨は降っていないのに、なぜかそこだけ湿っているようにも見えた。
工事現場の入口から、制服姿の警備員が一人、出てきた。
ヘルメットを脱ぎ、腰を伸ばすその姿に、昌代は思わず声をかけた。
「あの、すみません」
「はい?」
警備員は、五十代半ばくらいの男で、目元に疲れが滲んでいる。
「ここで、先週、事故があったって……ニュースで見たんですけど」
「ああ……村井さんのことですか」
男の顔に、わずかな陰りが浮かんだ。
「ご存じなんですか」
「同じ団地だったんです。昔。酔って落ちたって聞いたけど」
警備員は、口ごもった。
「……そういうことになってますね。現場で酒を飲むなんて、普通はありえないんですけどね。会社も、一応、遺族に謝っていましたし」
「一応?」
「こっちも、あまり余計なこと言えませんから」
男は、周囲を見回してから、声を落とした。
「ただ、あの日は、工事は夜間じゃなかったはずなんですよ。警備の交代も、二十二時まで。村井さんが落ちたっていう時間、もう彼は現場にいる時間じゃなかった」
「じゃあ、どうして——」
「それを言える立場じゃ、ないんです」
男は、苦笑いとも諦めともつかない表情を浮かべた。
「でも、ひとつだけ。あの人、酒は飲んでませんでしたよ。ここ半年くらい、まったく匂いもしなかった」
昌代は、水たまりの方を見下ろした。
「ここ、いつもこうなんですか」
「え?」
「雨でもないのに、濡れてるでしょう。いつも同じ場所に」
警備員は、足元を見て眉をひそめた。
「ああ……言われてみれば。排水が悪いんでしょうね。工事の時にも、一度話題にはなったんですが、『仕様です』って。予算もタイトでしたから」
「仕様」
その言葉は、聞くたびに、何かを飲み込まされるような感じがする。
「村井さんは、これを気にしてました?」
「さあ……」
男は、ヘルメットを持ち直しながら首を傾げた。
「でも、最後の方は、妙に書類を見たがってましたね。元請けや市から来る図面とか、施工の写真とか。『全部ちゃんとやってるのか確認したい』って。まあ、真面目な人でしたから」
工事の書類——。
昌代の胸の奥に、小さな点と点が、遠慮がちに繋がろうとしていた。
* * *
バスの窓から外を眺めながら、昌代は、自分の人生をたどり直していた。
二十代で、紡績工場に入った。ミシンの前に一日中座り、布の端を縫い続けた。工場が閉鎖されると、スーパーのレジを渡り歩いた。
正社員になれたことは一度もない。いつも契約書には、細かい字で「雇用期間満了」「更新の保証なし」と書かれていた。
それでも、仕事の現場だけは、よく見てきた。
人が何を隠し、どこを誤魔化そうとするのか。
誰の顔色を窺い、どこで「仕様だから」と言って諦めさせようとするのか。
村井は、工事現場で、それを見てしまったのだろうか。
そして、それを「仕様」の一言で飲み込まずに、何かをしようとしたのだろうか。
バスがカーブに差しかかり、窓の外に、南ヶ丘団地の残骸が一瞬だけ見えた。半分だけ取り壊された棟の壁に、かつてのベランダの跡がむき出しになっている。
昌代は、胸の奥で何かがきしむ音を聞いた。
* * *
清掃会社の事務所は、駅から少し離れた古いビルの二階にある。
昌代が、次のシフトの確認に立ち寄ると、事務机の上に、地域のフリーペーパーが積まれていた。
「新しいやつ、そこにあるから。暇があったら、持って行って」
事務の若い女が、コピー機の前からそう言った。
昌代は、一部を手に取った。表紙には、「南ヶ丘再開発の現場から」というタイトルとともに、ヘルメットを被った市長と、建設会社の社長の写真が載っている。
記事をめくると、工事の概要と、「地域の未来のため」といった定型句が並んでいた。その片隅に、小さく、「工期の遅れと予算増額に関する市議会でのやり取り」という欄がある。
そこには、「市道拡幅工事の追加費用について、議会で一部の議員から質問が出たが、市側は『必要な安全対策によるもの』と説明し、了承された」とあった。
佐伯の視線は、「一部の議員」という言葉に引っかかった。
雑誌の末尾の小さな欄に、その議員の名前が載っている。
——桧山誠。
どこかで聞いた名前だった。
思い出すのに、数秒かかった。
桧山は、南ヶ丘団地に住んでいた頃、何度か自治会の集まりに顔を出していた若い男だ。まだ市議に当選したばかりで、スーツの袖も少し長く見えた。
『ここを変えていきたいんです』
そう言って、笑っていた顔が、ふとよみがえる。
昌代は、フリーペーパーを折り畳んでバッグにしまった。
* * *
数日後、昌代は、市役所のロビーにいた。
昼の清掃の仕事を午前中で切り上げ、その足でやって来たのだ。
情報公開窓口には、年配の女性職員が座っていた。
昌代は、事前に電話で聞いておいた通り、「南ヶ丘団地跡地再開発工事に関する入札と契約書類」の閲覧申請書を書いた。
「こういうの、誰でも見られるんですか」
「はい。手数料をお支払いいただければ」
職員は、事務的な声でそう答え、申請書を受け取った。
しばらくして、分厚いファイルが二冊、カウンターに運ばれてきた。
昌代は、指定された机に座り、ページをめくり始めた。
そこには、入札に参加した業者の名前や金額、工事の仕様書や図面が、細かい数字とともにびっしりと並んでいる。
その中に、「市道拡幅工事」の項目があった。
落札したのは、「△△土木」という会社。村井のメモにも記されていた名前だ。
仕様書には、「排水計画」と題されたページがあり、道路の勾配や側溝の位置が図示されている。
バス停付近の図を見ながら、昌代は、現場で見た水たまりの位置を思い浮かべた。
——ここだ。
図面上では、その場所には水が溜まらないように設計されている。
だが、現実には、雨のたびに水たまりができている。
ページの端に、小さく押された印鑑があった。
「現場確認済」とある。日付は、村井が亡くなる一ヶ月前だ。
現場確認をしたのは、誰か。
それを示す署名欄には、かすれたボールペンの字で、担当者の名前が書かれていた。
——村井勝男。
昌代は、息を呑んだ。
* * *
夜、マンションの一室。
テレビのニュースでは、南ヶ丘再開発の現場での「死亡事故」に関する続報が、短く流れていた。
『男性警備員が飲酒の上、足を滑らせたと見られており、警察では業務上過失致死の疑いはないと判断——』
アナウンサーの声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
昌代は、テーブルの上に、コピーしてきた契約書類と図面を広げていた。
村井のメモ。
フリーペーパーの記事。
バス停の水たまりの場所を手書きで描いたメモ。
点と点が、一本の線になりつつあった。
排水設計通りに工事が行われていれば、あの水たまりはできないはずだ。
だが実際には、予算を削るために、側溝の幅や勾配を微妙に変えたのかもしれない。その結果、バス停前に水が溜まるようになった。
村井は、現場の警備員として、その事実に気づいた。
「現場確認済」の印鑑を押させられながらも、良心の呵責を覚えた。
そして——。
昌代は、ペンを握った。
白い紙に、「村井勝男死亡事故について」と書き、少し考えてから、「事故」という字を二重線で消した。
代わりに、「不自然な転落死について」と書き直した。
手紙の宛先は、決めてあった。
地元紙の社会部。
かつて求人広告を出したとき、編集部に電話したことがある。あの時、丁寧に応対してくれた記者の名前を、メモ帳に残していた。
昌代は、その名前を、宛名の右下に小さく添えた。
* * *
数日後、昌代は、薄暗い喫茶店の片隅で、一人の男と向き合っていた。
男は、グレーのスーツに、派手すぎないネクタイを締めている。四十代前半くらいだろうか。名刺には、「桧山誠 市議会議員秘書」と書かれていた。
「お忙しいところ、すみません」
昌代は、両手でカップを包みながら頭を下げた。
桧山本人ではなく、その秘書がやって来たことは予想していた。
「いえ。佐伯さんからお電話をいただいて、気になりまして」
秘書は、営業用の笑顔を浮かべた。
「南ヶ丘の件で、何かお話が?」
「村井さんのことです」
昌代は、真正面から男を見た。
「事故の夜、どこにいたか、ご存じですか」
「私は、その日は市役所におりましたが」
「桧山先生は?」
「それは、ちょっとお答えできませんね」
秘書の笑顔に、わずかなひびが入った。
「議員の行動予定は、公にするものとしないものがありますから」
「そうでしょうね」
昌代は、バッグから、封筒を取り出した。
「これを、先生にお渡しください」
封筒の中には、村井のメモのコピーと、工事の契約書類の一部のコピー、そして、自分が書いた手紙のコピーが入っている。
「私は、新聞社にも同じものを送りました」
秘書の目が、わずかに動いた。
「……どういうおつもりですか」
「私は、ただの清掃員です。工事のことも、政治のことも、詳しくは分かりません。でも、目の前で水たまりができているのに、『仕様です』と言われて納得するほど、馬鹿ではありません」
秘書は、黙っていた。
「村井さんは、真面目な人でした。図面と違うことが行われているのを見て、何か言おうとした。工事会社か、市か、誰かに。あるいは——」
昌代は、男の目をじっと見た。
「桧山先生に」
喫茶店の中は、昼の客が去り、静かだった。
灰皿には、さっきまで隣の席にいた男が消し忘れた煙草のにおいが、うっすらと残っている。
「佐伯さん」
秘書は、声を低くした。
「根拠のないことを口にするのは、おすすめできません」
「だからこそ、新聞社に送りました。根拠があるかどうか、調べてもらえばいいだけですから」
秘書の指先が、封筒の端をぎゅっとつかんだ。
「先生にご迷惑がかかるようなことになれば——」
「迷惑」
昌代は、その言葉を繰り返した。
「村井さんは、もっと迷惑を被っています。死んでしまったんですから」
男の視線が、一瞬だけ泳いだ。
その目の動きを見逃すほど、昌代は鈍くなかった。
* * *
それから一週間後、地元紙の一面に、小さな記事が載った。
『南ヶ丘再開発工事 排水設計と異なる施工 市が調査へ』
記事には、市道拡幅工事で排水計画と異なる施工が行われ、一部で道路に水たまりができていることが、情報提供により判明したと書かれていた。
市は、工事を請け負った△△土木に対し、説明を求めるとともに、追加工事の必要性を検討するとしている。
村井の名前は、どこにも出てこなかった。
彼の死と、この不正工事との関係についても、記事には触れられていなかった。
だが、昌代には、それで十分だった。
夜、清掃の帰り道。
バスを降りると、南ヶ丘のバス停の前に、工事用のコーンと柵が置かれていた。数人の作業員が、道路を削り直している。
例の水たまりの場所には、すでに新しいアスファルトが敷かれ、その上に白い粉がかかっていた。
街灯の光を受けて、まだ乾いていないその表面が、うっすらと光っている。
昌代は、柵の外から、その場所を見つめた。
足元にあった水たまりは、もうない。
しかし、彼女の目には、そこに、村井が書いた「雨だまり」という文字が、薄く浮かび上がっているように見えた。
誰も気づかないところで、誰かが見たもの。
誰も信じようとしない中で、誰かが覚えていた違和感。
それが、こうして形を変えて残ることもある。
バス停のベンチには、若い母親が子どもを膝に乗せて座っていた。
子どもは、退屈そうに足をぶらぶらさせている。
「足元、濡れなくなるかなあ」
母親がつぶやいた。
「なるわよ」
昌代は、思わずそう答えていた。
「今度は、ちゃんとやり直してるから」
母親は、少し驚いたように昌代を見て、やがて笑った。
「そうだといいですね」
バスのヘッドライトが近づいてきた。
エンジンの音とともに、夜の空気がわずかに揺れる。
昌代は、バスに乗り込む前に、もう一度だけ振り返った。
工事の終わったばかりのアスファルトの上に、雨の気配はなかった。
だが、もし次に雨が降っても、あの場所には、もう水たまりはできないだろう。
そこに残るのは、ただ、見えない一人の証言だけだ。
バスの揺れに身を預けながら、昌代は、胸の奥で小さく呟いた。
「見てたからね」
窓の外で、再開発の高層ビルの骨組みが、夜の闇の中に立ち上がっていく。
その足元で、消えたはずの雨だまりが、静かに、確かに、彼女の記憶の中に残っていた。
──了




