表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

雨だまりの証言

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/12/01

 蛍光灯の白い光が、床に伸びたモップの影を細長く引き伸ばしていた。

 九階建ての雑居ビルの六階。小さな広告代理店の入るフロアで、佐伯昌代は、手慣れた動作で廊下の端から端までをゆっくりと往復していた。


 壁の時計は、夜の十時を少し回っている。日中は営業マンの掛け声や電話のベルが飛び交うこのフロアも、今はプリンターの冷めたにおいと、窓ガラス越しの街の明かりだけが残っていた。


 昌代は、モップをバケツに戻し、腰を伸ばした。ぎしり、と背骨が鳴る。

 このビルでの清掃の仕事を始めて、三年になる。昼間はスーパーのレジ、夜はここで清掃。週に五日。五十八歳の体にはきついと、娘には何度も言われたが、誰も代わってくれるわけではない。


 ポケットの中のガラケーが、震えた。

 この時間に電話をかけてくる人間は限られている。娘か、同じ清掃会社のシフト担当か、それとも——。


「……はい、佐伯です」


 耳に当てると、電話の向こうから、かすれた女の声がした。


「昌代? あたし。美千代」


 美千代は、かつて同じ市営団地に住んでいた幼なじみだ。今は別の市に嫁ぎ、滅多に連絡を寄こさない。


「こんな時間に珍しいわね」


「……村井さん、覚えてる?」


 村井——。

 昌代の脳裏に、あの不器用な笑い方をする男の顔が浮かんだ。団地の自治会で顔を合わせ、何度かゴミ捨て場の当番で一緒になった。数年前から、再開発ビルの警備の仕事をしていると聞いていた。


「ええ。どうかしたの」


 美千代の返事は、間をはさんでから落ちてきた。


「死んだのよ。昨日の夜。工事現場から落ちたんだって。ニュースにも、ちょっとだけ出た」


 昌代は、手にしていたモップの柄を、思わず強く握りしめた。


「……事故?」


「そうらしいわ。酔っぱらって足を滑らせたって。そう、ニュースでは言ってた。あの人、昔から酒好きだったでしょ」


 酒。

 その言葉に、昌代の胸の奥が、わずかにざらついた。


「でもね」

 美千代の声は、電話の向こうで小さく震えていた。

「半年前に会ったとき、『もう医者に止められたから酒はやめた』って、はっきり言ってたのよ。肝臓が悪いって。なのに、酔って落ちたって——それが、なんだか……」


 蛍光灯の下で、廊下の床の艶が、急に冷たく見えた。


「葬式、明後日らしいの。もし時間があったら……」


「行くわ」

 昌代は、ほとんど反射的にそう答えていた。


 電話を切ると、ビルの窓の外に広がる街の灯りが、さっきより遠くなったように見えた。

 再開発の工事現場——。

 それは、このビルから歩いて十五分ほどのところにある、旧市営住宅群の跡地のはずだった。


* * *


 告別式の日は、朝から小雨が降っていた。

 斎場の入口には、再開発の工事会社の名前が印字された大きな生花がいくつも並び、黒いスーツの男たちが、誰が誰とも分からないまま、同じような表情で出入りしていた。


 昌代は、古びた黒のスーツに袖を通し、香典袋を握りしめて焼香の列に並んだ。

 遺影の中の村井は、見覚えのあるチェック柄のシャツを着て、照れくさそうに笑っている。その笑顔が、棺の中の冷たい顔と結びつかず、昌代は目を細めた。


 式が終わると、美千代が人だかりの中から出てきて、昌代の腕を取った。


「来てくれてありがとう」


「……奥さんは?」


 村井には、年の離れた妻がいたはずだ。

 美千代は、小さく首を振った。


「ずっと泣いてた。今は裏で休んでるみたい」


 二人は斎場の軒先に出て、細い雨を眺めた。駐車場では、黒塗りの車が次々と出入りしている。フロントガラス越しに、見覚えのある顔がちらほらと見えた。


「あの人たち……」


 昌代が視線を向けると、美千代が、声を潜めた。


「市の職員とか、議員さんとかよ。再開発の担当の人たち。きっと形だけなんだろうけど」


 形だけ——。

 その言葉に含まれる冷ややかさが、昌代にはよく分かった。


「ねえ、昌代」

 美千代は、バッグの中から、折り畳まれた紙切れを取り出した。

「このメモ、村井さんのロッカーに入ってたって、奥さんから見せてもらったの」


 紙には、乱暴だが、几帳面さも感じさせる字で、いくつかの言葉と数字が並んでいる。


「南ヶ丘団地 排水工事 ○○建設

 市道拡幅工事 入札 △△土木

 バス停前 雨だまり 写真」


 昌代は、「雨だまり」という言葉のところで指を止めた。


「……これ、なに?」


「さあね。奥さんも分からないみたい。だけど、亡くなる前の日、いつもと違う様子だったって。ずっとこの紙を見てて、『明日、ちゃんと話をつけてくる』って言ってたらしいの」


 紙の端には、ボールペンで強くなぞった線があった。

 やり直しのきかない年齢になってからも、なお何かに抗おうとする者だけが持つ、ぎくしゃくした決意の跡に見えた。


 雨が、斎場の屋根を静かに叩いていた。


* * *


 再開発の現場は、かつて市営団地だった場所だ。

 昌代が娘を連れて越してきた頃、南ヶ丘団地は、まだ新しかった。若い家族連れと、団地の抽選に当たったことを誇りにする老人たちで賑わい、夕方になればベランダから洗濯物の影が揺れた。


 それから三十年。

 老朽化した団地は「耐震性に問題あり」と診断され、市は再開発を決めた。住民は郊外の新しい集合住宅に移され、取り壊された跡地には、「南ヶ丘シティタワー」と銘打たれた高層マンションと商業施設が建つ予定だという。


 工事現場の周囲には、高い白い仮囲いがぐるりと巡らされている。その一角に、バス停がある。


 葬式の翌週、昌代は、そのバス停に立っていた。

 手には、折り畳まれた村井のメモのコピー。美千代から預かってきた。


 前日の雨が、まだ路面に残っている。アスファルトの上には、いくつもの水たまりができていたが、その中でひとつだけ、妙に目に付くものがあった。


 バス停の、縁石ぎりぎりの場所にできた小さな水たまり。

 その形は、楕円形で、いつか見たことのある染みのように、ひしゃげていた。


 昌代は、近づいてしゃがみ込んだ。

 水面には、白い仮囲いの上端が映っている。足元の土は、他の場所よりもわずかに沈んでいるようだった。


 バスを待つ間、何人かの人間が、その水たまりを避けるようにして立っている。誰も口には出さないが、ここに立つと足元が濡れる、と体で覚えているのだ。


「雨だまり」


 昌代は、村井のメモの文字を指でなぞった。


 再開発の工事現場で、排水工事に関するトラブルは少なくない。

 市が予算を絞れば、業者は安い材料と手抜きの施工で応じる。多少の不具合は「許容範囲」として片付けられ、目立つ苦情でも出ない限り、図面通りに工事が完了したということにされる。


 昌代は、これまでにも何度か、そんな「安っぽいごまかし」を見てきた。

 スーパーのバックヤードで、賞味期限を書き換えるパート仲間。

 清掃会社で、実際に入った時間よりも長く記入するタイムカード。

 市役所の窓口で、「ここに印鑑がないと処理できません」と突き放す職員の目。


 どれも、誰かが少し我慢すれば済む程度の不正だった。

 それでも、その積み重ねの上に、自分たちの暮らしが乗っているのだと思うと、足元が薄い氷の上にあるような不安を覚えることがあった。


 村井の「雨だまり」は、その氷の下からにじみ出た水のように見えた。


* * *


 数日後、昌代は、勤務先のビルの清掃を終えた帰りに、一本手前のバス停で降りた。

 夜九時過ぎ。

 現場のバス停には、昼間とは違う静けさがあった。街灯の黄色い光が、仮囲いの白い板に落ち、バス停のベンチには誰も座っていない。


 ただ、あの水たまりだけが、街灯の光を受けて黒く光っていた。


 昌代は、その前に立った。

 足元のアスファルトに、薄い油膜のようなものが浮いている。雨は降っていないのに、なぜかそこだけ湿っているようにも見えた。


 工事現場の入口から、制服姿の警備員が一人、出てきた。

 ヘルメットを脱ぎ、腰を伸ばすその姿に、昌代は思わず声をかけた。


「あの、すみません」


「はい?」


 警備員は、五十代半ばくらいの男で、目元に疲れが滲んでいる。


「ここで、先週、事故があったって……ニュースで見たんですけど」


「ああ……村井さんのことですか」


 男の顔に、わずかな陰りが浮かんだ。


「ご存じなんですか」


「同じ団地だったんです。昔。酔って落ちたって聞いたけど」


 警備員は、口ごもった。


「……そういうことになってますね。現場で酒を飲むなんて、普通はありえないんですけどね。会社も、一応、遺族に謝っていましたし」


「一応?」


「こっちも、あまり余計なこと言えませんから」

 男は、周囲を見回してから、声を落とした。

「ただ、あの日は、工事は夜間じゃなかったはずなんですよ。警備の交代も、二十二時まで。村井さんが落ちたっていう時間、もう彼は現場にいる時間じゃなかった」


「じゃあ、どうして——」


「それを言える立場じゃ、ないんです」

 男は、苦笑いとも諦めともつかない表情を浮かべた。

「でも、ひとつだけ。あの人、酒は飲んでませんでしたよ。ここ半年くらい、まったく匂いもしなかった」


 昌代は、水たまりの方を見下ろした。


「ここ、いつもこうなんですか」


「え?」


「雨でもないのに、濡れてるでしょう。いつも同じ場所に」


 警備員は、足元を見て眉をひそめた。


「ああ……言われてみれば。排水が悪いんでしょうね。工事の時にも、一度話題にはなったんですが、『仕様です』って。予算もタイトでしたから」


「仕様」


 その言葉は、聞くたびに、何かを飲み込まされるような感じがする。


「村井さんは、これを気にしてました?」


「さあ……」

 男は、ヘルメットを持ち直しながら首を傾げた。

「でも、最後の方は、妙に書類を見たがってましたね。元請けや市から来る図面とか、施工の写真とか。『全部ちゃんとやってるのか確認したい』って。まあ、真面目な人でしたから」


 工事の書類——。

 昌代の胸の奥に、小さな点と点が、遠慮がちに繋がろうとしていた。


* * *


 バスの窓から外を眺めながら、昌代は、自分の人生をたどり直していた。


 二十代で、紡績工場に入った。ミシンの前に一日中座り、布の端を縫い続けた。工場が閉鎖されると、スーパーのレジを渡り歩いた。

 正社員になれたことは一度もない。いつも契約書には、細かい字で「雇用期間満了」「更新の保証なし」と書かれていた。


 それでも、仕事の現場だけは、よく見てきた。

 人が何を隠し、どこを誤魔化そうとするのか。

 誰の顔色を窺い、どこで「仕様だから」と言って諦めさせようとするのか。


 村井は、工事現場で、それを見てしまったのだろうか。

 そして、それを「仕様」の一言で飲み込まずに、何かをしようとしたのだろうか。


 バスがカーブに差しかかり、窓の外に、南ヶ丘団地の残骸が一瞬だけ見えた。半分だけ取り壊された棟の壁に、かつてのベランダの跡がむき出しになっている。


 昌代は、胸の奥で何かがきしむ音を聞いた。


* * *


 清掃会社の事務所は、駅から少し離れた古いビルの二階にある。

 昌代が、次のシフトの確認に立ち寄ると、事務机の上に、地域のフリーペーパーが積まれていた。


「新しいやつ、そこにあるから。暇があったら、持って行って」


 事務の若い女が、コピー機の前からそう言った。

 昌代は、一部を手に取った。表紙には、「南ヶ丘再開発の現場から」というタイトルとともに、ヘルメットを被った市長と、建設会社の社長の写真が載っている。


 記事をめくると、工事の概要と、「地域の未来のため」といった定型句が並んでいた。その片隅に、小さく、「工期の遅れと予算増額に関する市議会でのやり取り」という欄がある。


 そこには、「市道拡幅工事の追加費用について、議会で一部の議員から質問が出たが、市側は『必要な安全対策によるもの』と説明し、了承された」とあった。


 佐伯の視線は、「一部の議員」という言葉に引っかかった。

 雑誌の末尾の小さな欄に、その議員の名前が載っている。


 ——桧山誠。


 どこかで聞いた名前だった。

 思い出すのに、数秒かかった。


 桧山は、南ヶ丘団地に住んでいた頃、何度か自治会の集まりに顔を出していた若い男だ。まだ市議に当選したばかりで、スーツの袖も少し長く見えた。


『ここを変えていきたいんです』


 そう言って、笑っていた顔が、ふとよみがえる。


 昌代は、フリーペーパーを折り畳んでバッグにしまった。


* * *


 数日後、昌代は、市役所のロビーにいた。

 昼の清掃の仕事を午前中で切り上げ、その足でやって来たのだ。


 情報公開窓口には、年配の女性職員が座っていた。

 昌代は、事前に電話で聞いておいた通り、「南ヶ丘団地跡地再開発工事に関する入札と契約書類」の閲覧申請書を書いた。


「こういうの、誰でも見られるんですか」


「はい。手数料をお支払いいただければ」


 職員は、事務的な声でそう答え、申請書を受け取った。


 しばらくして、分厚いファイルが二冊、カウンターに運ばれてきた。

 昌代は、指定された机に座り、ページをめくり始めた。


 そこには、入札に参加した業者の名前や金額、工事の仕様書や図面が、細かい数字とともにびっしりと並んでいる。


 その中に、「市道拡幅工事」の項目があった。

 落札したのは、「△△土木」という会社。村井のメモにも記されていた名前だ。


 仕様書には、「排水計画」と題されたページがあり、道路の勾配や側溝の位置が図示されている。

 バス停付近の図を見ながら、昌代は、現場で見た水たまりの位置を思い浮かべた。


 ——ここだ。


 図面上では、その場所には水が溜まらないように設計されている。

 だが、現実には、雨のたびに水たまりができている。


 ページの端に、小さく押された印鑑があった。

 「現場確認済」とある。日付は、村井が亡くなる一ヶ月前だ。


 現場確認をしたのは、誰か。

 それを示す署名欄には、かすれたボールペンの字で、担当者の名前が書かれていた。


 ——村井勝男。


 昌代は、息を呑んだ。


* * *


 夜、マンションの一室。

 テレビのニュースでは、南ヶ丘再開発の現場での「死亡事故」に関する続報が、短く流れていた。


『男性警備員が飲酒の上、足を滑らせたと見られており、警察では業務上過失致死の疑いはないと判断——』


 アナウンサーの声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。


 昌代は、テーブルの上に、コピーしてきた契約書類と図面を広げていた。

 村井のメモ。

 フリーペーパーの記事。

 バス停の水たまりの場所を手書きで描いたメモ。


 点と点が、一本の線になりつつあった。


 排水設計通りに工事が行われていれば、あの水たまりはできないはずだ。

 だが実際には、予算を削るために、側溝の幅や勾配を微妙に変えたのかもしれない。その結果、バス停前に水が溜まるようになった。


 村井は、現場の警備員として、その事実に気づいた。

 「現場確認済」の印鑑を押させられながらも、良心の呵責を覚えた。


 そして——。


 昌代は、ペンを握った。

 白い紙に、「村井勝男死亡事故について」と書き、少し考えてから、「事故」という字を二重線で消した。


 代わりに、「不自然な転落死について」と書き直した。


 手紙の宛先は、決めてあった。

 地元紙の社会部。

 かつて求人広告を出したとき、編集部に電話したことがある。あの時、丁寧に応対してくれた記者の名前を、メモ帳に残していた。


 昌代は、その名前を、宛名の右下に小さく添えた。


* * *


 数日後、昌代は、薄暗い喫茶店の片隅で、一人の男と向き合っていた。


 男は、グレーのスーツに、派手すぎないネクタイを締めている。四十代前半くらいだろうか。名刺には、「桧山誠 市議会議員秘書」と書かれていた。


「お忙しいところ、すみません」


 昌代は、両手でカップを包みながら頭を下げた。

 桧山本人ではなく、その秘書がやって来たことは予想していた。


「いえ。佐伯さんからお電話をいただいて、気になりまして」

 秘書は、営業用の笑顔を浮かべた。

「南ヶ丘の件で、何かお話が?」


「村井さんのことです」


 昌代は、真正面から男を見た。


「事故の夜、どこにいたか、ご存じですか」


「私は、その日は市役所におりましたが」


「桧山先生は?」


「それは、ちょっとお答えできませんね」

 秘書の笑顔に、わずかなひびが入った。

「議員の行動予定は、公にするものとしないものがありますから」


「そうでしょうね」

 昌代は、バッグから、封筒を取り出した。

「これを、先生にお渡しください」


 封筒の中には、村井のメモのコピーと、工事の契約書類の一部のコピー、そして、自分が書いた手紙のコピーが入っている。


「私は、新聞社にも同じものを送りました」


 秘書の目が、わずかに動いた。


「……どういうおつもりですか」


「私は、ただの清掃員です。工事のことも、政治のことも、詳しくは分かりません。でも、目の前で水たまりができているのに、『仕様です』と言われて納得するほど、馬鹿ではありません」


 秘書は、黙っていた。


「村井さんは、真面目な人でした。図面と違うことが行われているのを見て、何か言おうとした。工事会社か、市か、誰かに。あるいは——」


 昌代は、男の目をじっと見た。


「桧山先生に」


 喫茶店の中は、昼の客が去り、静かだった。

 灰皿には、さっきまで隣の席にいた男が消し忘れた煙草のにおいが、うっすらと残っている。


「佐伯さん」

 秘書は、声を低くした。

「根拠のないことを口にするのは、おすすめできません」


「だからこそ、新聞社に送りました。根拠があるかどうか、調べてもらえばいいだけですから」


 秘書の指先が、封筒の端をぎゅっとつかんだ。


「先生にご迷惑がかかるようなことになれば——」


「迷惑」

 昌代は、その言葉を繰り返した。

「村井さんは、もっと迷惑を被っています。死んでしまったんですから」


 男の視線が、一瞬だけ泳いだ。

 その目の動きを見逃すほど、昌代は鈍くなかった。


* * *


 それから一週間後、地元紙の一面に、小さな記事が載った。


『南ヶ丘再開発工事 排水設計と異なる施工 市が調査へ』


 記事には、市道拡幅工事で排水計画と異なる施工が行われ、一部で道路に水たまりができていることが、情報提供により判明したと書かれていた。

 市は、工事を請け負った△△土木に対し、説明を求めるとともに、追加工事の必要性を検討するとしている。


 村井の名前は、どこにも出てこなかった。

 彼の死と、この不正工事との関係についても、記事には触れられていなかった。


 だが、昌代には、それで十分だった。


 夜、清掃の帰り道。

 バスを降りると、南ヶ丘のバス停の前に、工事用のコーンと柵が置かれていた。数人の作業員が、道路を削り直している。


 例の水たまりの場所には、すでに新しいアスファルトが敷かれ、その上に白い粉がかかっていた。

 街灯の光を受けて、まだ乾いていないその表面が、うっすらと光っている。


 昌代は、柵の外から、その場所を見つめた。


 足元にあった水たまりは、もうない。

 しかし、彼女の目には、そこに、村井が書いた「雨だまり」という文字が、薄く浮かび上がっているように見えた。


 誰も気づかないところで、誰かが見たもの。

 誰も信じようとしない中で、誰かが覚えていた違和感。


 それが、こうして形を変えて残ることもある。


 バス停のベンチには、若い母親が子どもを膝に乗せて座っていた。

 子どもは、退屈そうに足をぶらぶらさせている。


「足元、濡れなくなるかなあ」


 母親がつぶやいた。


「なるわよ」

 昌代は、思わずそう答えていた。

「今度は、ちゃんとやり直してるから」


 母親は、少し驚いたように昌代を見て、やがて笑った。


「そうだといいですね」


 バスのヘッドライトが近づいてきた。

 エンジンの音とともに、夜の空気がわずかに揺れる。


 昌代は、バスに乗り込む前に、もう一度だけ振り返った。

 工事の終わったばかりのアスファルトの上に、雨の気配はなかった。


 だが、もし次に雨が降っても、あの場所には、もう水たまりはできないだろう。

 そこに残るのは、ただ、見えない一人の証言だけだ。


 バスの揺れに身を預けながら、昌代は、胸の奥で小さく呟いた。


「見てたからね」


 窓の外で、再開発の高層ビルの骨組みが、夜の闇の中に立ち上がっていく。

 その足元で、消えたはずの雨だまりが、静かに、確かに、彼女の記憶の中に残っていた。


──了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ