記憶の町
陳腐な表現になるが、それはあり得ない光景だった。
もう記憶の中にしか存在しないはずのそれが、突然、目の前に現れた。
夢か、現か。
私は、しばらく、その場に立ち尽くすこととなった。
◇
昔住んでいた街をひさしぶりに歩いた。
もう、今はだれも住んでいない、空き家となっている生家を訪問するために。
街の景色は、大きく様変わりしていた。
中には、懐かしい家屋もあったが、表札に書かれた氏名が変わっていたり、すべては「遠い過去」となっていた。
電気も点かない生家では、懐中電灯を使い、目的の荷物だけ持ち出し、さっさと退散。あとはしばらく、近隣を散策してみることにした。
かつて通った小学校は、マンションに建て替えられ、向かいの文具店は、喫茶店に。そろばん教室は、コンビニエンスストアに代わり、プラモデル屋は、新しい住宅に変わっていた。
(……ほんの二十~三十年で、ここまで景色も変わるものか)
溜息が出た。
思い出の景色が、知らない景色に塗り替えられ、旧い友人たちの死を告げられたような気分にもなった。
葬儀の帰り道で立ち寄る、また別の葬儀。
葬儀のはしごを続けながら、「お、お前はまだ生きていたのか!」という、昔から古かった乾物屋を見かけた。主人は代替わりしているようだが、今も「過去から繋がる物語」があるその風景は、悪いものではなかった。
―― そして、事件が起こった。
冒頭に戻る。
少し肩を落としながら、歩いていた旧い町。
ふと、視線を上げると、そこに「銭湯」があった。
○○湯。
もちろん、記憶にもある銭湯だが、絶対にありえない。
それはまだ、私がこの町に住んでいた頃に、取り壊されたはずの、記憶の中にしか存在しえない銭湯だったからである。
試しに、のれんをくぐる。
たしかに、記憶そのままの景色だ。
しかし、これはあまりにも「鮮明」に過ぎる。記憶どうこうのレベルではない。
ポケットを確かめる。
先刻、自販機で崩したばかりの小銭が、何枚かある。
料金表を確かめる。
よし、大昔のままの料金だ。
引き戸を開け、番台を見る。
そこには、三十年近く前に亡くなったはずの見覚えのある主人が座っていた。
私は、番台に百円玉を並べた。
主人は、無言でお釣りを差し出した。
私は、呆然としながらも、ゆっくりと脱衣所に歩を進めた。
「あっ、ちょっと、そこのお兄さん!」
番台の方から声がかかり、ギクリと立ち止まる。
ひょっとしたら百円玉の年号を見られたのだろうか?
もしも<令和>の年号なんかが混ざっていたら、硬貨の偽造を疑われるだろうから、入る前に除外したはずだが……。
「手ぶらで来たの?それなら貸しタオルと使い捨ての石鹸があるけど、どうする?」
大量の冷や汗をかきながら、私は作り笑顔で、うなずいた。
◇
湯船につかりながら、考え込む。
ここがいったい何なのかを?
単純にタイムスリップと考えるのは、さすがにファンタジーに過ぎる。私は町の散策途中に事故に遭い、ひょっとすると今、昏睡状態で<過去の夢>でも見ているのではないのか?
頬をつまむ。
感触はあるが、どうにも朧気にも思える。
湯船で向かい合う小さな少年が、こちらを見つめながら、ニコリと笑う。
「おっちゃん、どこからきたひと~?」
なつっこい少年。
よく見ると、アルバムの中で見る昔の……自分?
こどもを放置し、一所懸命に頭を洗っている向こうの男は、ひょっとして十年前に死んだ、うちの親父か?
しばらく呆然と眺めた後、何とも言い難い感情が、一気にこみ上げて来て、私は俯きながら、肩を揺らしながら、湯船で泣いた。
◇
さて、どうしたものか。
問題は、これからだ。
私は、脱衣所で鏡に映る自分を見つめながら、答えの出ない答えを探すこととなった。いったい、この後、私はどこにいけばいいのか?
生家に戻るにしても、あそこにはきっと、そこで走り回っている少年と、死んだときより、少し若い親父が帰るに違いない。
「未来から来た○○です」なんて言葉を鵜呑みにしてくれるような家族ではない。頼るべき相手も思う浮かばない。
ふと思い出し、ポケットからスマホを取り出した。電源を入れようとするも、どうにも反応がない。
「おっちゃん、それなに~?」
少年時代の私が、腰にまとわりつき、スマホを触ろうとする。
私は、私の頭を撫で、愛想笑いをする。
「あー、すみません、何度も。うちの坊主が」
若い親父が、私を引きはがし、頭を下げる。
どうしたものか……事情を話すか?
いや、それは無意味だ。
むしろ、過去が書き換えられてしまう可能性がある。
いや、そもそも、ここは本当に私自身の過去なのか?
いや……。
◇
ゲタ箱から靴を取り出し、のれんから表に出る。
外の景色は ―― 完全に大昔の記憶のそれにまで巻き戻されていた。
……詰んだ。